29 いま心臓止まった。尊すぎてこのまま昇天する。


「っ!?」


 驚愕に思わず顔を上げたに視界に飛び込んできたのは、驚くほど間近にあるレイシェルト様のご尊顔――。


 あ、だめだ。無理。いま心臓止まった。尊すぎてこのまま昇天する。


「すまない。無理やり連れ回し過ぎたかな?」


 脱魂して真っ白になった私の耳に、レイシェルト様の気遣わしげな声が届く。


「ち、違うんですっ! その……っ」


 これはレイシェルト様が尊すぎて、夢見心地になっているがゆえなんです……っ!


 レイシェルト様は淀みない足取りで歩いていく。


 薔薇園に人気はないが、四阿へ近づけば王妃様や侍女達の目にふれるかもしれない。


 そう考えた途端、全身が総毛だつ。


 私なんかのせいで、推し様にご迷惑をおかけするわけには……っ!


「お、下ろしてくださいっ! ちゃんと歩けますから……っ!」

 できるだけ、毅然きぜんと聞こえるように声を張る。


「だが、無理はしないほうがいい」


 レイシェルト様のお声は、どこまでも優しい。思考を放棄して、そのまま頷いてしまいまくなる。


 けど、取るに足らぬオタクにだって矜持きょうじはある!


 邪悪の娘である私を助けることで、レイシェルト様に不名誉な噂が生じるかもしれない事態を看過できるわけがない!


 そんなことになったら、申し訳なさで切腹する! すでにいま尊さの過剰摂取で昇天しそうだけど!


「王太子殿下にご迷惑をおかけするわけにはまいりませんので!」


 あえて堅苦しく「王太子殿下」とお呼びすると、


「わたしは迷惑だなんて全く思っていないのだけれど。でも、きみがそこまで言うのなら仕方がないね」


 としぶしぶといった様子で下ろしてくださった。


 足元がふわふわして夢見心地だけど……。しっかり立って! 私の両足!


「きみが願うなら、今日は引くけれど……。またレイとして店へ行った時には、親しくしてくれるかい?」


 エスコートのために右手を差し出しながら問われた言葉に、驚いて端正な面輪をまじまじと見上げる。


「またお越しくださるのですか……? いえあのっ、光栄極まりないことでございますけれど!」


 一瞬、寂しげに曇った瞳に、あわてて言い足すと、輝くような笑顔が帰ってきた。


 はわっ! まぶしくて目がくらみそうです~っ!


「もちろんだよ。この身分をいとったことなどないが……。窮屈きゅうくつに感じることはあるからね。時には、王太子としてではなく、ただのレイとして羽を伸ばしたいんだ」


 初めて来店した日、レイシェルト様の肩に黒い靄が揺蕩っていたのを思い出す。


 きっと私などでは想像もつかない重責を双肩に背負ってらっしゃるのだろう。


「あ、あのっ。私などでレイシェルト殿下のお役に立てることがあれば、いくらでも……っ!」


 心の底からの真摯な想いを乗せて告げると、四阿に向かって歩き出していたレイシェルト様が不意に立ち止まった。


「レイシェルト殿下?」


「いや……。きみは本当に、もう……」

 顔を背けて洩らされた呟きは、くぐもっていてよく聞こえない。


「も、申し訳ございません! 何か不敬をいたしましたか!?」


 心当たりがありすぎて、全身から血の気が引く。


「いや違うんだ。その……。きみがお茶会へ来てくれて、本当によかったと思ってね」


 ふたたび歩き出したレイシェルト様が、ゆったりと微笑む。


「わ、私こそ、こんな素晴らしい時間を過ごさせていただき、どれほど感謝を申しあげても足りません! これほど見事な薔薇園を拝見させていただけるなんて……っ! 本当にありがとうございます!」


「美しい薔薇を愛でながらにしては、物騒な話題になってしまったけれどね。申し訳ない」


 とんでもないですっ! レイシェルト様の美声でしたら、何を話されていても幸福でしかありませんからっ!


「いえ、元はと言えば、私が口にしたことですし……。あの、ご武運をお祈り申しあげております」


 告げたところで、


「兄様! エリシア嬢!」

 とこちらに駆けてくるティアルト様の姿が見えた。


 金の髪をきらめかせて駆けるティアルト様の向こうには、王妃様が待つ四阿も見える。いつの間にか戻ってきていたらしい。


「エリシア嬢。案内すると言ったのにごめんなさい!」


 私の前まで来たティアルト様が、ぺこりと頭を下げる。


「いえ、気になさらないでくださいませ。代わりにレイシェルト殿下が案内してくださいましたから」


 ティアルト様が気に病まれないよう、できるだけ柔らかな声で告げる。が、ティアルト様の愛らしい顔は曇ったままだ。


「お母様に、ちゃんとエスコートできるところを見せたかった……」


「では、ここから王妃様のところまで、私をエスコートしていただけますか?」


 身を屈め、ティアルト様に視線を合わせて告げると、愛らしい面輪がぱあっと輝いた。


「うんっ!」


 と、レイシェルト様に代わって、小さな手でぎゅっと私と手をつないでくださる。


 は~っ! ティアルト様ってほんっとお可愛らしい……っ! 癒されるぅ~っ!


「ティアルト殿下は王妃様が大好きなのですね」


「はいっ!」

 歩きながら尋ねると、元気いっぱいの声が返ってきた。


「あっ! もちろん兄様も大好きだよ!」


 あわてたように言い足したティアルト様に、レイシェルト様が、


「わたしも大好きだよ、ティアルト」

 と慈愛の笑みを浮かべる。


 はぅわっ! ティアルト様のエスコートでようやく収まりつつあった心臓がまた……っ! 「大好きだよ」の破壊力が凄まじすぎます……っ!


「じゃあ兄様! 後で剣の稽古けいこをつけてくれる!?」


 ティアルト様がわくわくと身を乗り出す。


「ティアルト殿下、もう剣のお稽古をなさってらっしゃるのですか?」


「うん、そうだよ!」

 私の問いにティアルト様が大きく頷く。


「僕だって勇者の血を受け継いでいるんだもん! 大きくなったら、兄様みたいに神前試合に出場するんだ!」


 憧れに碧い瞳をきらきらと輝かせて、ティアルト様がふんす! と勢いよく鼻息を吐く。


「だから、そのために兄様に稽古をつけてもらうんだ! でも、兄様はお忙しいから、なかなか機会がなくて……」


「では、レイシェルト様さえよろしければ、今からつけていただいてはいかがでしょう?」


 しょぼんと肩を落としたティアルト様に提案すると、レイシェルト様が戸惑った声を上げた。


「しかし、まだ茶会の途中なのに……」


「あっ、申し訳ございません! 不作法でしたでしょうか!?」

 あわてて謝ると、レイシェルト様がゆるりとかぶりを振った。


「いや、きみさえよければ、わたしはかまわないが……。よいのかい?」


「はいっ、もちろんです! 私もお二人が稽古をなさっているお姿を見てみたいです!」


 レイシェルト様とティアルト様の稽古姿なんて……! 超レアじゃない!? お茶会万歳!


「では、エリシア嬢の許しも得たし、少し稽古をつけよう」


「わぁい! 兄様、エリシア嬢、ありがとう!」


 ぴょんぴょんと飛び跳ねてティアルト様が喜ぶ。


 いえいえっ! こちらこそ、レアなお姿を拝む機会を与えてくださってお礼の申しようもございませんっ!


 ティアルト様のエスコートで四阿に戻った私は、王妃様に恭しく一礼する。


「素晴らしい薔薇園を拝見させていただき、ありがとうございました」


「あのね、お母様! これから兄様に剣の稽古をつけていただくの! エリシア嬢と一緒に見ててね!」


 声を弾ませて王妃様に告げたティアルト様が、従者が用意した練習用の木剣を持って立つレイシェルト様の元へ駆けていく。


「あらあら。ティアルトったら、お客様を放って……。ごめんなさいね、エリシア嬢。わがままを言って振り回してばかりで」


 おっとりと微笑んで王妃様が詫びてくださる。私はふるふるとかぶりを振った。


「とんでもないことでございます! 私が見せていただきたいとわがままを申しまして……。ティアルト殿下は明るくお元気で思いやりもあって、お兄様が大好きで……。とても素敵な方ですね!」


「ふふっ。そう言ってもらえると嬉しいわ。レイシェルト様も、腹違いの弟だというのに、とても可愛がってくださって……」


 王妃様がまぶしげに見つめる先では、レイシェルト様とティアルト様が二人で木剣を打ち交わしている。


「やぁっ!」


 と、ティアルト様が元気よく振り下ろした木剣を難なく受け止めたレイシェルト様が助言をしたり、「その調子だ」と褒めたり、お手本を見せてあげたり……。


 時に厳しく指導しつつも、慈愛のまなざしでティアルト様のお相手をなさっている姿はまさに。


「尊い……っ!」


 王妃様が向かいにいらっしゃることも忘れて思わず呟き、はっ、と口を押える。


「あ、あの、今のはっ……!」


 おずおずと視線を向けると、王妃様が口元を押さえていた。


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