13 さわやかな朝に、神殿の前で


 私がマルゲと二人きりで住んでいるのは、サランレッド公爵家の壮麗な本邸ではなく、広い庭の端にあるこじんまりとした離れだ。


 物心つく前から離れに住んでいる私は、許可がないと本邸に入ることすら許されていない。


 私が足早に向かった先は本邸のさらに向こうにある瀟洒しょうしゃな石造りの神殿だ。


 近づくにつれ聞こえてくるのは、かすかな水音だ。神殿の中にはわざわざ水道から引かれた噴水が設えられている。


 水音を聞くだけで無意識に身体が強張りそうになるが、毎日のことなので少し気持ちを強くもてば、ちゃんと動ける。


 神殿はまだ誰も来ていないようだ。間に合ったとほっとしながら私は神殿の前へ進んだ私は、階段は上らず、その手前で芝生に片膝をついてひざまずいた。


 私がいる地面の下に、水道管が通っている。こうべを垂れ、祈るふりをしながら、地面にふれた手から水をあたためる炎の魔法を水道管へと流し込む。


 噴水の水をあたため終わった私は、あらためてきっちりと祈り直す。


 光神アルスデウスへ祈りを捧げることは、第一王子であるレイシェルト様へ祈りと捧げることと同じ!


 ああっ神様! レイシェルト様という至高の存在をこの世に生み出してくださって、本当にありがとうございます……っ! どれほどの感謝を捧げても足りませんっ!


 離れに戻ったら、レイシェルト様の肖像画を眺めて尊さに浸りきろう……っ!


 心の底からあふれだす感謝の気持ちのままに祈りを捧げていると。


「まあ嫌だ。せっかく美しく心地よい朝だったというのに……。誰かのせいで一気に台無しだわ」


 不意に背後から投げつけられた冷ややかな声に、幸せな気持ちから一気に現実に引き戻される。


 振り返った先にいたのは、白い簡素なドレスを纏った二つ下の妹・セレイアとお母様、そしておつきの侍女達だ。


 しまった……っ! 今日はいつもより遅かったから、さっさとお祈りして戻らなきゃいけなかったのに、つい感謝の気持ちが抑えきれなくて長居を……っ!


「お、おはようございます。お目汚しをして申し訳ございません……っ」


 あわてて立ち上がり、深々と頭を下げる。途端、二人にまとわりついていた黒いもやが足元からぶわっと立ち昇った。


「あなたの声で爽やかな朝の空気を穢さないでちょうだい。けがらわしい邪悪の娘が!」


 お母様の嫌悪に満ちた鋭い声が、刃のように心臓を貫く。


 顔を上げなくても、お母様の顔が憎悪と侮蔑に彩られているのがわかる。


「邪悪の娘であるお前などが祈ったところで、光神アルスデウス様のご加護を得られるはずがないというのに! お前がいるだけで腐臭が漂ってくる気がするわ! さっさと消え去りなさい! わたくしの大切なセレイアちゃんにまで穢れがうつったらどうする気なの!?」


「落ち着いてくださいませ、お母様」


 怒りを隠そうともせず言葉の刃をぶつけるお母様を、セレイアが柔らかな声で押し留める。まさかセレイアがお母様を止めてくれるとは思わなかった私は、驚きに思わず顔を上げた。


 愛らしい面輪ににこやかな笑みを浮かべたセレイアが、自信に満ちた声を紡ぐ。


「弓の聖女であるわたくしが、みすぼらしい邪悪の娘などに穢されるなんて、ありえませんわ」


 聖者や聖女の力にはいくつもの種類がある。セレイアの力は邪を貫く聖なる弓の力。私を見つめるセレイアのまなざしは、心まで貫き通す矢のようだ。


 セレイアの言葉に、お母様が歓喜に声を弾ませる。


「そうよね、セレイアちゃん! あなたは当代唯一の聖女なんですもの! こんな穢れた娘なんて塵芥ちりあくたも同じ! あなたが気にかける価値もないものね!」


 大きく頷いたお母様がそわそわと心ここにあらずといった様子で続ける。


「こんな娘のことより、今夜の舞踏会のことを考えなくては! 聖女であるあなたと言葉を交わそうと、今宵も大勢の貴族達に囲まれるに違いないわ! 一部の隙もなく身を飾らなくてはね!」


 セレイアと一緒に聖女の崇拝者達に囲まれ、称賛の言葉を受けている様を想像しているのだろう。お母様の顔は喜びに輝いている。


「そうですわね。そのために、早く水垢離みずごりを終えなくては……」


 にっこりとお母様に同意したセレイアが汚物でも見るような視線を私へ向ける。


「いつまでそこにいるつもりですの? さっさと消えてくださらない? いくら祈ろうとも、邪悪の娘には慈悲深き光神アルスデウス様だって救いをくださらないでしょうに。いい加減、自分の立場をわきまえたらいかが? まさか、今夜の王妃様の誕生日をお祝いする舞踏会にも出席するつもりではないでしょう?」


「いえ、その……っ」


 とっさにうまい言い訳が出ない。かろうじてかぶりを振ると、二人から発される黒い靄が、蛇のように鎌首をもたげた。まるで地面に引き倒そうとばかりに私の足元に絡みつく。


「邪悪の娘が毎回毎回、王家の舞踏会に参加するなんて……っ! あなたには羞恥心というものがないの!? あなたの存在のせいで、わたくしとセレイアがいつもどれほど肩身の狭い思いをしているか……っ!」


 知っている。人目のある場所に行くたび、いつもどれほどの嫌悪と侮蔑のまなざしがそそがれるのか。


 見るのも嫌だと眉をしかめる貴族達。聞こえよがしに囁かれる軽蔑の言葉。


 でも……っ!


 レイシェルト様のお姿を遠目からでも生で見られる機会があるなら、行かないなんて選択肢、あるはずがないんです――っ!


「も、申し訳ございません……っ!」


 声を発するのを禁じられているのも忘れ、思わず謝罪するとお母様とセレイアのまなざしが刃のように鋭くなった。


「物わかりの悪い人ね! お母様はあなたに来られては迷惑だとおっしゃっているの! もちろん、わたくしも!」


 セレイアの言葉が矢のようにどすどすと心を貫く。ううっ、さすがは弓の聖女様、容赦がない……っ!


 私自身は、お母様のこともセレイアのことも嫌いじゃない。むしろ、あちらさえ許してくれるなら、家族として仲良くしたいと思っている。お兄ちゃんしか兄弟がいなかった私は、前世では妹がいてくれたらなぁ、と何度も夢想したものだ。


 でも、邪悪の娘と呼ばれる私が親しくすることがお母様やセレイアの負担になるというのなら、離れてひっそりと暮らすのが一番よいということもわかっている。幸か不幸か、お荷物扱いされて家族の中で蔑まれるのは、前世の頃から慣れているし。


 滅多に顔を合わせなくていいことと、何より、私をお嬢様と呼んで世話を焼いてくれるマルゲがいてくれるというだけで、ここは天国だ。


 今世でも、レイシェルト様という推しを見つけられたし!


 これでマルゲも一緒に推し活に励んでくれたら、ほんとにもう言うことなしだったんだけど……。


 けど、そこまで求めたら罰が当たる。衣食住に不満がなくて、思う存分推し活に励めるって環境だけでもう、いくら感謝しても足りないくらいなんだから!


 ああっ、神様仏様光神アルスデウス様! 私をこの世界に転生させてくださって、本当にありがとうございますっ!


 だから、お母様とセレイアには申し訳ないけれど、生レイシェルト様のご尊顔を拝見できる舞踏会だけは、何と言われようと逃すことはできないのだ。


 だって推し様が同じ空間で呼吸して動いてるんだもの! どうせ私は会場の端っこの人目につかない壁際で突っ立っているだけだけど、レイシェルト様と同じ屋根の下で同じ音楽を聴けるなんて……っ!


 その幸福に比べたら、貴族達から投げつけられる侮蔑の視線や悪口だって、何ほどのこともない。お上品な貴族様だから、実力行使に及ぶ人なんていない点も安心だ。


 出席を諦める言葉を口にする様子がない私に、お母様がいらいらと声を上げる。


「ちゃんと聞いているの!? それとも、わたくし達の言葉を理解する知性すらないのかしら? あなたが来ては迷惑だと言っているのよ! 確かに招待状はサランレッド公爵家宛に来ていますけれど、わたくしは邪悪の娘などを公爵家の一員として認めるつもりなどありませんからね!」


 怒りのままに踏みにじるように一方的に言い捨てたお母様が、セレイアを促して神殿へと進んでいく。これ以上、言葉を交わすことも嫌だと言わんばかりに。


 私の存在など消し去ったかのように、お母様やセレイア達が神殿の短い階段を上がっていくのを見送ってから、私はマルゲが待つ離れへと踵を返した。


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