2 聖女に転生したはずが……邪悪の娘?


「ひぃっ! じ、邪悪の娘……っ!」


 開いたドアの陰から顔を覗かせる私の姿を見た途端、公爵家の離れに食料を運び込んでいた商人のおじさんが悲鳴を上げる。黒い靄を揺蕩たゆたわせ恐怖に凍りついた顔は、どう見ても六歳の子どもに向ける表情じゃない。


「お嬢様……」


 おじさんの視線を追って私をふりかえった侍女のマルゲが、困ったように眉を下げた。


「出てきてはいけませんと申しあげましたでしょう? さあさ、文法の課題はどうなさいました?」


「もう終わっちゃったもん」


 いくら生まれ変わってから学んだ言語とはいえ、前世の記憶を持っている私に、文法の問題集は簡単すぎる。すでに初等用、中等用を終え、高等学科用の問題集に取り組んでいるくらいだ。


「さすがお嬢様ですね。ですが申し訳ございません。見ての通り、わたくしはいま手が離せないのです。賢いお嬢様でしたら、ちゃんと居間でお待ちいただけますね?」


 余計な口を利いたら縫いつけますよ、と言わんばかりの鋭い視線をおじさんに向けたマルゲが、打って変わって優しげな笑顔を私に向けて諭す。


 なんていうか、視線ひとつで自分の倍くらいの壮年のおじさんを黙らせるマルゲのこの貫禄……。絶対に二十歳前じゃないよね? 実は私と同じく中身はもっとお年を召してる?


 らちもないことを考えつつも、これ以上私が傷つかないようにと気遣ってくれるマルゲの優しさを無駄にすまいと、私はできるだけ子どもっぽく見えるように「はぁい」と甘えた声で素直に頷いた。


 けれど、恐怖に目を見開いて私を見つめるおじさんの表情は固まったままだ。


 邪悪の娘っていうのは、子どもの姿でもそんなに怖いのかなぁ。この感覚、日本人だった私には理解できそうにない。


 この世界では、黒髪や黒い瞳は、邪神に通じるものとして、ひどく忌み嫌われている。


 遠いとおい昔、この世界は邪神ディアブルガと彼を信奉する邪教徒達とで、混乱に満ちていたそうだ。邪神を封じ、世界に平穏を取り戻したのが、光神アルスデウスより力を賜った勇者と、彼を助けて共に戦った聖者や聖女達。


 ここアルスデウス王国は邪神の封印後、勇者がおこした国であり、王族は勇者の血を受け継いでいるそうだ。どういう原理かわからないけれど、便利な生活魔法だってある世界だから、きっと真実なのだろう。


 マルゲに言われた通り、勝手口から居間へと向かいながら、私ははぁっと吐息する。


 公爵家の離れにマルゲと二人で閉じこもりっきりの生活だから、ちょっと刺激が欲しかっただけなんだけどなぁ。


 だって、まだ幼いから仕方がないかもしれないけど、せっかく転生できたのにずっと離れに閉じこもりっきりの生活なんて……。あまりに彩りがないもん。


 離れにやってきて、公爵令嬢にふさわしい教養や礼儀作法、ダンスなんかを教えてくれる先生達はちょっとずつ私の黒い色彩に慣れてきてくれてるみたいだけど……。初対面の人には、刺激が強すぎたらしい。


 廊下を進んだ私は、居間には行かずこっそりと玄関へ向かった。


 さっき、開きっぱなしの勝手口から、かすかに気になる声が聞こえたからだ。力いっぱい泣き叫ぶまだ小さい子どもの声が。


 声の主には心当たりがあるけれど……。でも、今までこんな激しい泣き声、聞いたことがない。


 バレたら後でマルゲにこっぴどく叱られるとわかってるけど、私は好奇心に負けて、そっと離れを抜け出した。



   ◇   ◇   ◇


 春も間近の朝の空気は清々しく澄んで心地よかった。


 ほころび始めた花の薫りが揺蕩たゆたう朝の風を胸いっぱいに吸いこみながら、私は泣き声が聞こえる場所へと駆け足で向かう。


 左手には立派なサランレッド公爵家の本邸が見えるけれど、私は本邸に入ることは許されていない。


 泣き声が聞こえる方向に進むにつれ、かすかな水音も聞こえ、私はびくりと足を止めた。無意識に、身体が震え出す。


 水は嫌いだ。でも、泣き声が聞こえるのは水音と同じ方向からだ。きっとあの声は二歳年下の妹、セレイアの声に違いない。公爵家には他に子どもはいない。


 何が原因で泣いているのかはわからないけれど、妹を泣かせたままにはしておけない。


「大丈夫、だいじょうぶ……」


 自分に言い聞かせながら、そろそろと足を踏み出す。


 進んだ先にあったのは、建てられてからまだ十年も経っていない光神アルスデウスに捧げられたこじんまりとした神殿だった。神話を題材にしたレリーフが刻まれた白亜の大理石は、朝の澄んだ陽光を浴びて自ら光を放っているかのようだ。


 激しい泣き声は神殿の中から聞こえてくる。


「いやっ! ちべたいの、や――っ!」


 舌足らずに泣き叫ぶ声に、そういえば四歳のセレイアが、今朝から聖女の務めのひとつである水垢離みずごりを始めるとマルゲが話していたのを思い出す。


 毎朝、水垢離で身を清めるのは、聖女や聖者が行う慣習のひとつだ。ちなみにこの神殿は、お父様が聖女である娘が労なく水垢離をできるようにと、わざわざ庭に建てさせたものだ。


 いやでも、春先とは言えまだ冷たい水で水浴びしろなんて、いくら聖女の力を持って生まれたとはいえ、まだ四歳の子には無理だよね……。


「あらあらセレイアちゃん。だいじょうぶでちゅよ~。セレイアちゃんはりぃっぱな聖女になるんでちゅから、ちゃんとしまちょうねぇ~」


 セレイアをあやすお母様の声や、侍女達の声が聞こえてくるけど、セレイアは泣きやみそうにない。


 姉妹として生まれながらも、邪悪の娘と蔑まれ、本邸に入ることも許されない私は、ろくにセレイアと顔を合わせたことすらない。でも、それでもやっぱり私にとってセレイアは可愛い妹だ。


 っていうか、前世はお兄ちゃんしかいなかったから、可愛い妹とか弟に憧れてたんだよね~っ!


 神殿の中には、水道から水を引いた噴水が設けられている。私は身をかがめてこそっと神殿の階段を数段登ると、大理石に手のひらを押しあてた。


 炎の生活魔法で水を温めれば、少なくとも冷たいって嫌がらないはず……。


 どういう原理なのかよく知らないけれど、この世界には地水火風、そして聖と邪の魔法がある。


 基本的に扱えるのは一人につき一属性。魔法の才に恵まれた限られた者だけが複数の属性を操ることができ、聖を操ることができる者は、聖者もしくは聖女として崇められる。邪神ディアブルガを力の根源とする邪の魔法は、邪法と呼ばれおり、使うだけで犯罪だ。


 とはいえ、魔法を使って人を傷つけるのは大罪なので、一般的に広まっているのは温風を起こしたり、綺麗な水を出したりする便利な生活魔法だ。


 う……っ、魔法学の先生に教えてもらった通りにしているけど、子どもの身体で魔法を使っているせいか、なんか身体から力が抜けてく感じがする。でも、可愛いセレイアのために……っ!


「よちよち、セレイアちゃ~ん。お母様と一緒にさわってみましょうね~。ほぅら、冷たくない――」


「ほんとだっ! ちべたくないっ」


 セレイアの弾んだ声に、ほっとして大理石から手を放す。途端、身体がふらついた。


「あっ」


 転がり落ちそうになり、とっさに階段にしゃがみ込む。けど、うっかり声を上げたのがいけなかった。


「誰っ!?」


 セレイアを抱いたまま神殿の入り口に立ったお母様が、私を見た途端、絹を裂くような悲鳴を上げた。


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