第五幕 彼が願うものーⅨ
あれは、僕がこの店の主となり、ここで暮らすようになってから二年後――今から十年前のことだ。
どこからか噂を聞きつけて、一人の男が店を尋ねてきた。
歳は、三十半ばほどだったかな。軍役経験があると言っていた。成程、と納得したよ。筋骨たくましい大男だったからね。
肉体的に恵まれていたのに加え、本格的な格闘技も習得していて、腕っ節で負かされた経験などほとんど無かったそうだ。
けれど、それを語る彼の口調は、全く誇らしげではなかった。
男の悩みは、短気で手が早く、おまけに酷く酒癖が悪いことでね。すぐに癇癪玉を爆発させては誰彼構わず喧嘩をして、警察の世話になることも日常茶飯事だった。そしてそんな自分に、彼自身、ほとほとうんざりしていたらしい。
そしてある日、飲酒を諫めた妻との口論の末に思わず手を上げて、大怪我をさせてしまった。幸い命に別状は無かったものの、男はついに離婚を申し渡されてしまったのさ。
よほど反省したのだろうね。男は酒をすっぱり止めるだけでなく、もっと念入りに自分を戒めようと決意して、この店を訪れたんだ。
彼の願いは、肉体的な《強さ》を捨て去ることだった。間違っても、二度と周りの人たちに怪我などさせないように、ね。
僕は、その願いを聞き入れたよ。
店の力を使って、どこかの誰かに、彼の《強さ》を譲り渡したんだ。
――店をあとにした彼が、それからどうなったのかは、僕も知らない。本当に《強さ》を失ったのか、傍目には分からなかったけど、去り際の彼は満足していたようだったし、それ以後、彼が店に怒鳴り込んでくることも無かったから。
男の話は、これでおしまい。本題に移ろうか。
僕は願いの交換に際して、交換相手についての情報を得ることができる。だから、男が持っていた《強さ》を与えられ、代わりに他の何かを失ったどこかの誰かが、一体どんな人物なのかも、店を通じて知った。
――ああ。気付いたようだね、グレッグさん。貴方は、その《強さ》が身に沁みて分かっているだろうからね。
そう、それがハナダだ。
彼女は今、十八歳。だから十年前は八歳だ。その時はまだ、僕のほうが背が高かった。
ハナダは元々、僕と同じような孤児だったらしい。けれど当時の彼女は、孤児院にいた僕とは違って、住む家も保護者もいない浮浪児だった。
どうしてそんな暮らしになってしまったのかは、今も聞けていないけれど、ハナダは汚らしい裏町の道端で寝起きをして、物乞いや、ゴミ捨て場を漁って得た残飯で食いつないで、たった一人で日々を生きていた。
そんな生活だったから、彼女が何より欲していたのが、《強さ》だった。
厳しい環境で生き抜くために、野犬に襲われたり、質の悪い連中に絡まれたりしても簡単に追い払えるような力が、ハナダにはどうしても必要だったんだ。
けれどね。
僕は、彼女のもう一つの願いを知った時、鳥肌が立った。
ハナダは、生きようと必死にもがく中で、《欲》を捨てたいと強く願ってもいたんだ。
何も欲しくなくなればいいのに、と。そうであれば、こんなに苦しく惨めな思いをすることも無いのに、と、そう考えていたんだろうね。
だから彼女は、《強さ》と《欲》を引き替えにした。正しくは、この店がそう取り計らった。
――グレッグさん、知っているかい?
人は、生きるために、《欲》が要るんだよ。生きること、それ自体が《欲》の結果なんだ。
彼女は生きようとしたから、生きるための肉体的な《力》を手に入れた。けれど、生きようとしたから、生きるために必要な心の《力》は失ってしまった。皮肉なことにね。
ただ、積極的に死のうと思わないだけで、生きられなくても構わないと思うのが、欲を失くした人間だ。ハナダは男と願いを交換した、その瞬間から、必死で食べ物を探すことも、少しでも暖かい寝床を確保しようとする努力も止めて、抜け殻のようになってしまった。
それが、僕が交換を通じて知った、ハナダについての最後の情報だった。
今思えば、僕とハナダは真逆だよ。
僕は全てを手に入れようとしたのに、ハナダは全てを捨てようとしたのだから。
ここからは、笑い話さ。
件の男が立ち去ったあと、僕の頭の中はハナダのことでいっぱいになってしまった。人形のようになってしまった彼女が、そのあとどうなったのか気になって、どうしても放っておけなくなったのさ。
……そうそう、言いそびれていたな。僕は店を放棄することはできないけれど、例えば生活必需品の買い出しだとか、最終的に店に帰るつもりで外出する分には、不思議と店を離れることができるんだよ。
ハナダが暮らしていた地区は、ここから遠くなかったから、店に縛られた僕でも足を伸ばすことができた。
そうしてハナダを見つけた僕は、この店の従業員として彼女を雇うことにしたのさ。
ハナダは喜ぶわけでもなかったけれど、嫌がりもしなかった。命じられたから従っただけとも思えたし、頼まれて断る理由がなかっただけ、とも思えた。
それでもとにかく、ハナダにはその瞬間から、僕の世話を焼くという役割が生じた。彼女は、その役割を果たすためだけに、ただ、機械的に働いて、生きているんだ。
ハナダは今も、《欲》を持たない。仕事をするために必要だから食事を取るだけで、美味しいものを食べたいとは思わない。綺麗な服にも宝石にも、まるで興味が無い。恋人だって、愛情だって、彼女にとっては無用のものだ。
例え、僕がどれだけ彼女を愛しく想っていたとしても。
トータは、小さく笑っていた。これまでに彼が見せたどの笑みとも違う、泣きそうな笑顔だと、グレッグは思った。
さりげなく添えただけだったが、トータの「愛しい」という言葉が耳に切なく響いて、グレッグは唐突に、痛烈なまでに理解した。
例えなどではない。トータは本当に、彼女のことが。
「今の生活は悪くないよ。僕は先の主と違って、うまく商売をしているつもりだ。店のおかげでそれなりの収入もあるし、住む場所にも困らない。何一つ不自由は無い。だけど僕は、このままじゃ嫌だ。絶対に、嫌なんだ」
トータは笑みを消し、噛みしめるように言う。悔しげに歪んだ表情の中に、隠しきれない寂しさが垣間見えていた。
グレッグは最早、愛用の手帳もペンも、ただ、手に握るだけとなっていた。
メモを取ることも、撮影の許可を得ることも完全に忘れ、目の前の少年を――いや、青年を、呆然と見つめる。
「それじゃあ、君の願いは。二つの願いというのは」
ぎこちなく、グレッグの口が呟いた。
壁から背中を離して、トータはまっすぐに立つ。
「一つは、僕が《時の流れ》を取り戻すこと。もう一つは、ハナダが《欲》を取り戻すこと。つまり、僕とハナダが元通り、ごく普通の人間に戻ることさ」
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