第五幕 彼が願うものーⅧ

 グレッグは、口を半分開いたまま、その場に立ち尽くす。

 トータは己の右手に目を落とした。短くふっくらとした指。すべすべと柔らかい肌。どこからどう見ても、幼い子どもの小さな手だった。

「僕がこの店と交換に奪われたのは、《時の流れ》だった。男の手紙を読んでも信じられなかったけれど、一年、二年と経つうちに、認めざるを得なくなった。僕は歳をとらない。顔も、背も、声も、十歳のあの時のまま変わらないんだ」

「ということは、その、君の前に主だった男も?」

 遠慮がちにグレッグが問えば、トータは顔を上げ、グレッグを見据えて「そう」と肯定する。

「恐らくは、そのさらに前の主に時間を奪われたんだ。呪いみたいなものさ。店と交換に《時の流れ》を失う。店主は老いることもなく、店から遠く離れることもできない。不老なんて、聞こえはいいけれどね。実際に自分がそうなってみると、生きている実感がまるで持てないんだ。いずれはみんな嫌気が差して、必死で後継者を探してきたんだろうね。僕がそうであるように」

 トータが付け足した一言に、グレッグは引っかかりを感じた。

 その言葉が表すことは、つまり。

「僕はずっと、この店で客の願いを叶えながら、同時に後継者を探しているのさ。僕のように強欲で、莫迦で愚かで浅はかで、どんな願いでも叶えられる店が欲しいと思うような人間をね」

 薄く微笑むトータの大きな緑の瞳の奥に、燃えるような怪しい光が宿った。

 グレッグはゴクリと音を立てて生唾を呑み込む。トータの一見静かな表情が、あまりにも鬼気迫って見えたせいで。

「どうして」

 グレッグの口をついて声が出た。トータの迫力に対する怯えと、彼の現状に対する疑問が、グレッグの頭の中で戦った結果だった。

「どうして君は、店を誰かに押しつけたいと、そう願わないんだ? ルール上、問題は無いはずだ。わざわざ十二年も都合のいい客を待たなくとも、店主の立場を利用して交換してしまえば、すぐにでも手放せるだろう?」

 不可解であることの意思表示のように、両手を広げて掌を天井に向け、グレッグは大仰に肩を揺すった。だが、トータは相変わらず、苦い笑みを浮かべたままである。

「最初は、僕もそう考えたよ。《店を捨てたい》、もしくは、《時の流れが欲しい》。そう願えば確かに、願いは叶えられるだろうね。けれど、この店の力を誰より知っているのが店主ならば、この店の怖さを誰より知っているのも、また、店主なのさ」

 肩をすくめるトータの仕草を見て、グレッグの頭に過ぎるものがあった。この店を訪れるきっかけになった噂話の数々が、頭の中でひそひそと囁かれる。

 そして同時に思い出されたのは、トータから聞かされた、この店における最も重要なルール。

「自分が手に入れるものと、自分が差し出すもの。依頼者は、そのどちらかしか決められない。そうだったな、トータ君」

 トータは頷いた。満足そうに見える反面、どこか不満そうにも見えた。

 前者は恐らくグレッグの聡明さに対して。後者は恐らく、融通が利かないこの店のルールと、トータ自身に対して。

「何かを捨てれば、何を押しつけられるか分からない。何かを欲しいと願えば、何を奪われるかは分からない。そう――僕は怖いんだ。この店以上に厄介な何かを背負ってしまうことも、《時の流れ》より大事な何かを失ってしまうことも。そんな何かが、この世に有るのか無いのかも、定かではないのにね」

「だから、願いの一方がすでに決まっていて、もう一方をトータ君が決められるような、そんな客が必要なのか。《この店が欲しい》、もしくは、《時の流れを捨てたい》。そのどちらかを願う客を、君はここでずっと待っているのか」

 グレッグが独白のように呟くと、トータは壁に背中を預けて苦笑した。

「説明ありがとう。話をしたいのは、僕のはずなんだけどね」

 同じように笑えばいいのか、謝ればいいのか、おどけてみればいいのか。適切な反応がグレッグには分かりかねて、結局、選択を放棄した。

 代わりに、新しい疑問を口にする。

「だが、《時の流れ》を捨てる……つまりは不老を望む客なら、簡単に見つかりそうなものだけどな。トータ君がそうだったように、交換について予備知識がなければ、僅かな金で不老が買えると考えてもおかしくはないだろうし」

 トータが前の主から店を引き継いだ時には、店のルールどころか、願いが「交換」であることすら知らされなかったという話である。件の男の言動からして、意図的なものだったと考えていいだろう。

 客に対する情報の秘匿が許される、つまり、トータが客に交換のリスクを伝える必要がないのであれば、不老を夢見る人間など掃いて捨てるほどいるように思えて、グレッグは腕組みをして首を捻った。

 すると、トータは壁にもたれたまま、視線を斜め上に向けてぽつりと呟く。

「いたさ」

 え、と、グレッグは目を丸くした。そんなグレッグの顔ではなく、部屋の中空をぼんやりと見上げて、トータは続ける。

「僕が店主となってからの十二年の間に、それに類する願いを叶えようとした客は何人か現れたよ。けれど僕は、その客を交換相手として、店を押しつけることはしなかった。歯痒かったけれど、そうするしかなかったんだ。なぜなら、僕が叶えたい願いは二つあって、もう一つの願いを叶えるまでは、この店を手放すわけにはいかないから」

 初耳の情報に、グレッグは怪訝そうに首を傾げる。

「願いが、二つ?」 

 戸惑いが滲むグレッグの声に、トータの首がゆっくりと回って、その視線がグレッグを捉えた。捉えたが、それでもまだ、緑色の瞳は遠くを見続けていた。

 きっと、時間という長い距離を置いた、どこか遠い処を。

 再び、トータは語り始める。

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