第五幕 彼が願うものーⅦ

 秋のことだった。

 空はどこまでも高く、街路樹はこぞって黄色く色づいた葉で着飾り、家並みは黄金色に輝いていた。

「僕は孤児でね。この街の、とある孤児院で、似たような境遇の子どもたちと一緒に育ったんだ。古着を着て、ボロ靴を履いて、いつも限られた食べ物や玩具をみんなで奪い合っていた。欲しいものならいくらでもあったよ」

 あの日も、そう。孤児院の仲間五人ほどで連れ立って、街の中を駆け回っていた。大人達の足の間をすり抜け、無邪気に笑い合っていた声がまだ、耳の奥に残っている。

 なぜだったか。なぜ、あの道を走っていたのだったか。理由も目的も、もはや覚えていない。

 知らず知らずのうち、引き込まれるように迷い込んだのが、その路地裏だったのだ。

「僕はあの時、十歳だった。他のみんなより少しばかり頭が切れることが自慢で、偉そうにリーダー気取りだった」

 隅々まで知り尽くしたはずの街で、知らない路地裏に入り込んだ。それだけでもう、ちょっとした冒険をしている気分だった。心躍らせながら、みんなで意気揚々と人通りのない道を進んでいった。

「ある日、いつものように街で遊んでいた僕たちは、この店の前に辿り着いた」

 どれほど歩いただろうか。大した距離ではなかったはずだ。

 その道の先で、一人の男と出会った。

 四十がらみの大柄な男だった。ぼさぼさとしたフケだらけの汚らしい黒髪で、薄汚れた服はよれよれだった。道端に小さな折りたたみ椅子を置き、深く腰を落ちつけてパイプを吹かし、生気のない目でぼんやりと秋の空を眺めていた。

 その男の後ろにあった建物、それこそが。

「『願いを叶える店』。当時は、そう看板を出していた」

 赤茶の切妻屋根。蔦が這った焦げ茶色の外壁。古びた三階建ての細長い家屋。今と違うのは、窓や玄関先の掃除が全く行き届いていなかったところか。

 ぽかんと突っ立っている子どもたちに気付いた男は、顔をくしゃくしゃと歪めるようにして笑い、低く、かすれた声で尋ねた。

「『坊主ども、欲しいものはないか?』。店の前にいた男は、僕らにそう言ったよ」

 子どもたちは顔を見合わせた。

 口火を切ったのは、一番年下の男の子だった。ビスケット、と、嬉しそうに叫んだ。すると、他の子どもたちも口々に希望を口に出した。

「人形、ボール、新しい靴。みんなはそれぞれ欲しいものを答えたけれど、僕は何も言わずにいた。その時は、じっと黙っていたんだ」

 男は「そうか」と言ってまた笑うと、子どもたちを店の中へと招き入れた。そして地下室まで連れてくると、壁一面の引き出しを次々に開けて、ビスケットや、人形や、ボールや、靴を取り出して見せたのだ。

「その人はみんなが欲しがったものを、お金も取らずに渡してくれた。魔法だと思ったね。僕はこっそり引き出しを開けてみたけど、中には何も入っていなかった。ああ、あの男が持っている鍵が要るんだ、と、すぐに気が付いたよ」

 他の子どもたちが歓喜しているのを満足そうに眺めていた男は、やがて、トータに顔を向けた。何が欲しい、なんでも出せるぞ。男は胸を張った。

 トータは、他のみんなより、少しばかり頭が切れることが自慢だった。

 自信満々に、人差し指を男の手元に突きつけて。

「《この店と、その鍵が欲しい》。僕は男にそう言った。この店さえあれば、好きなものが好きなだけ手に入るのだと、信じて疑わずに」

 その時の、その男の顔が。

 しばらくトータを見つめたあと、ゆっくりと口の端が持ち上がっていった、その、どこまでも薄い笑顔が。

 トータの脳裏に今でもこびり付いて、どうしても忘れられない。

 男は、他の子どもたちの時と同じ調子で「そうか」と呟くと、ある引き出しの鍵穴に鍵を差し込んで回した。

「彼は今の僕がやるように、ごく自然に引き出しを選んで開けた。僕は、黒い光を見たよ。光なのに、闇のように黒かったんだ」

 引き出しの中から、べっとりとした黒い光が吹き出した。いや、爆発した。水風船が破裂するように、けれど音はなく、地下室いっぱいに飛び散った黒い光。その爆風だけでトータは吹き飛ばされ、壁に体を強か打ち付けた。

 子どもたちの悲鳴。次々に逃げ出していく足音。

 地下室も引き出しも、そして男も、全てが闇に掻き消され、呑み込まれ、黒一色に染まっていった。

「僕はそのまま気を失って、次に意識を取り戻した時には、この地下室に一人で取り残されていた。この手に、欲しいと願った鍵を固く握りしめて」

 俄に恐ろしくなり、手に入れた鍵を放り出して店を飛び出した。こんな店など要らないと思い、住み慣れた孤児院に一目散に帰るつもりだった。

 しかし、帰れなかった。

「すっかり怯えた僕は、店を放置して帰ろうとした。けれど、大通りに出たつもりでも、商店街に行ったつもりでも、いつの間にか、僕の足はこの店に戻ってきた。何度となく、この店から離れようと試みたけれど、どれだけ遠くまで走ったところで、最終的にはここに帰ってきてしまうんだ」

 走り疲れて、それ以上動く気力すら失い、仕方なく店に入って床にぺたんと座り込んだところで、気が付いた。

 埃が積もった汚い床に無造作に置かれた、一通の手紙。

 あの男からトータへの、最初で最後の贈りものだった。

「店に残されていた手紙を読んで、僕は初めて、この店の正しい名前を知った。『願望交換局』という名を、ね」

 手紙には、恐らく、その男が知る限りのことが全て綴られていた。

 願いを交換するという、店の仕組みとルール。男がこれまでに店で行ってきたこと。

 この店は、男が初めてここを訪れる以前からあって、その時はまた、別の人間が主だったこと。そしてやはり、遠い昔に、男もこの店を欲し、同じように店の主となったこと。


 主となった人間は、他の人間に店を引き継がない限り、店の放棄はできないということ。


 男の汚い筆跡を繰り返し読み込んで、トータはようやく気が付いた。

 自分は、自ら進んで、男の身代わりになったのだ、と。

「彼は、ずっと待っていたんだ。この店が欲しいと願う人間が現れることを。そして、僕に出会った。彼はまんまとこの店を僕に押しつけ、彼が昔に失ったものを、僕から奪うことに成功したんだ」

 トータは悟った。今度は自分の番なのだと。この店で願いを交換しながら、次の主を探さなければならないのだと。

 こうしてトータは、店の主となった。

「もう、十二年も前の話になる」




 瞬きすら忘れて話を聞いていたグレッグは、トータの言葉に耳を疑った。

「ちょっと待てよ。君はさっき、その時に十歳だったと言っていなかったか? それが十二年前の話、と、いうことは」

 袖が余ったワイシャツと、裾を二重に折ったスラックス。大きな瞳が目立つ幼い顔立ちに、グレッグの肩にも満たない背。

 トータは、自嘲するような笑みを浮かべた。

「二十二歳。僕の実年齢だよ」

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