第五幕 彼が願うものーⅥ

 トータはポケットから古ぼけたウォード錠を取り出す。グレッグは激しく興味をそそられたが、小さな少年が纏う空気に阻まれて、鍵を触らせてくれとも、近くで見せてくれとも頼むことはできなかった。

 鎖を指先に引っかけて鍵をぶらぶらと揺らしながら、トータは部屋の中央へと歩を進める。目当ての本を書棚に探すかのように、彼は引き出しだらけの壁を、左から右へ、上から下まで、ゆっくりと順に見渡していく。

 やがてその目の動きが、一点を注視して止まった。ほぼ真正面、トータの顔ほどの高さにある、小さな平たい引き出しである。

「こちらへ」

 確信めいた表情でトータがグレッグを手招きし、二人は揃って壁の前へと進み出た。

 トータによって無造作に開かれた引き出しを、グレッグは鼻の穴を膨らませて齧りつくように覗き込むが、期待に反し、中には何も入っていない。グレッグの顔に落胆の色が滲む。

「これからだよ」

 トータは余裕たっぷりに一言告げると、グレッグを一歩下がらせ、引き出しを一旦壁の中に収納した。その表面に施された鍵穴に鍵を差し込み、右回りにゆっくりと回転させる。

 グレッグには、その小さな鍵が、不思議と、精密機械を動かす歯車の一つに見えた。

 カチリ、と小さな音。トータは素早く手を離す。

「!」

 その瞬間、グレッグは息を呑んだ。引き出しの隙間からぼんやりとした淡い黄緑色の光が覗き、カタコト、カタコトと、小さな地震の振動に似た微かな音を響かせ始めたのである。

 いや。引き出しは実際、小刻みに揺れていた。

 ひとりでに動いている――と、言うよりも。

 中に閉じ込められた、何か得体の知れない危ういものが、「ここから出せ」と訴え暴れているようだった。

 引き出しが、開く。

 誰の手を借りることもなく、ズ、ズ、と、低く重い音を発しながら、ゆっくりと、時間をかけて、まるで勿体ぶっているかのように。

「あ――」

 グレッグは思わず、吐息ともとれるような呟きを漏らした。

 完全に開け放たれた引き出しの中から、黄緑の光の塊が二つ、ふわりと中空に浮き上がる。グレッグは手の甲でごしごしと瞼を擦った。目を凝らしてよくよく見れば、その光は無形ではない。

 二匹の蝶。

 紙切れのように軽く、花弁のように優雅に。大きな蝶の姿をした光の塊はしなやかに翅を広げ、地下室の狭い空の中を舞い飛んだ。

 ひらりはらり。蝶たちは細かな光の粒をあとに撒きながら、吹いているはずのない風に乗る。花を探すようでもあり、ただ戯れているようでもある。いずれにせよその光景は、目を奪われるほどに美しかった。

 トータとグレッグ、二人の頭上にそれぞれ飛来した蝶は、彼らの額にぴたりと止まる。驚きのあまり動けないグレッグと、そもそも動こうとする気配が無いトータの額で、蝶たちはしばらく翅を上下させていたが、やがて、頭の中に吸い込まれていくように、すう、と音も無く透けて消えた。

 やや遅れて、残された光の粒子が周囲の空気に溶けていくが、それもいつしか終焉を迎える。

 場を満たすのは、オーケストラコンサートの楽章間に似た、恍惚とした静寂。

 グレッグは夢うつつに額に手を当てて、眉間から髪の生え際までを指先でそっとなぞる。痛みは無く、蝶が止まったというごく微かな感触だけが、肌に残されている気がした。

 我に返ってトータへ目を向ければ、ちょうど、鍵穴から静かに鍵を引き抜くところである。つい先ほどまで緑色に淡く光っていた引き出しは、まるで何事も無かったかのように、すでに元の姿を取り戻している。

 だが、グレッグから見たトータの様子は、先までとは明らかに違っていた。

 握った拳を胸と鳩尾の間に当てて執拗にさすり、視線は落ち着かずに宙をふらふらと彷徨っている。額や背中にびっしょりと汗をかき、瞬きを幾度もくり返し、口を小さく開けたと思えば閉じて、まるで酸素を求める魚のようだ。

 いかにも具合が悪そうなトータに戸惑い、目を白黒とさせていたグレッグは、不意に、「あ」と、思い当たった。

 トータは、話がしたくて仕方がないのだ。

 彼が持っていた《この店について話したくない気持ち》を、グレッグが奪い去ったために。

「トータ、君?」

 恐る恐る名を呼ぶと、トータははっと正気を取り戻して面を上げる。グレッグの姿を焦点に収めると、痛みをこらえるように頭を片手で押さえながら、ぎこちなく苦笑した。

「どこから話そうか」

 問いかける声は、思いのほかしっかりとしている。口を開いたことで落ち着いたのか、トータはすでに、元通りの余裕を取り戻しつつあるように見えた。

 グレッグは気後れしながらも、やがて慎重に、だが、決然と答える。

「この店について、トータ君が知る限りのことを、最初から」

 トータはしっかりと頷いた。

 そして、淡々と語り始める。

「この店を作ったのは、僕じゃない。僕が初めて店の存在を知った時、この店はすでに、この場所にこうして建っていた」

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