第五幕 彼が願うものーⅠ

 平皿の上に一つ、ぽつんと寂しく取り残された、緑も目に鮮やかなブロッコリ。

 それをフォークの先端で弄りながら、トータはダイニングテーブルに肩肘をついた行儀の悪い姿勢で、こっそりと深い溜め息をついた。

 だが、同じ室内にいるハナダがそれを聞き逃すはずがない。空になった皿をキッチンへ運ぶ最中だった彼女は、長い三つ編みを揺らしてトータを振り返る。

「どうしたの。食べないの?」

 胸中でぎくりとしつつ、トータは平静を装ってブロッコリにフォークをぶすりと突き刺した。

「どうもしないよ。食べるよ」

 トータによる自己採点では、満点のポーカーフェイス。

 しかし、ハナダは冷めたブロッコリをじっと見つめていたかと思うと、皿を持ったまま足早にキッチンへと移動し、十秒と経たずして小鍋と木べらを手に戻ってきた。そして事もあろうに、鍋に残っていた茹で野菜の中から器用にブロッコリだけを選別して、トータの皿の上にぽんぽんと落とし始めるではないか。

 瞬く間に皿を埋め尽くしていくブロッコリの大群を、言葉も無く眺めるトータ。

 全てのブロッコリを落とし終えたハナダは、トータより何枚も上手の完璧なポーカーフェイスで。

「好き嫌いは駄目よ」

 短く嗜めると、そのままトータに背を向けてキッチンへ消えた。

 あとに残されたトータは、ブロッコリの山を前にがくりと肩を落とし、今度は隠すこともせず大仰な溜め息をつくのだった。

 観念して渋々とフォークを握りしめ、事務的にブロッコリを口へ押し込む作業に取り掛かる。必要以上の咀嚼をくり返しながら、腕を伸ばしてテーブルの隅に載っている新聞を引き寄せた。朝一番に目を通しているのだが、気を、延いては舌を紛らわせるためである。

 一面と株式欄をざっと見て、経済面へ。ジョーンズ社倒産の大見出しが踊る。

 社会面へ目を移せば、死体遺棄事件の扇情的な特集記事が組まれている。発覚からかなりの日数が経っているというのに、騒ぎはまだ収まりそうにない。

 別紙で挟まれた地方版の隅には、最近巷で評判だという、腕のいい町医者の話。黒縁眼鏡の冴えない中年男が、ファインダーの向こうで嬉しそうに笑っていた。

 読者投書欄に並んだ噴飯物の所見を読み終えるのと同じころ、ようやく最後のブロッコリを飲み下す。結局どの紙面も、ブロッコリの味を誤魔化す調味料にはならなかった。口に残る苦味に顔をしかめながら、トータがテーブルにフォークを置いた瞬間に。

「食べながら読まないの」

 背後からハナダの声がして、トータは再びどきりと心臓を跳ねさせた。

 いつの間に背後を取っていたのか、ハナダは新聞の隅を指で軽く突いてトータを諫めてから、残っていた食器をてきぱきと回収していく。テーブルの上が淋しくなったかと思えば、すでに湯気の立ったティーポットとカップが準備されていた。

「食べ終わったから読んでいたんだよ」

「ブロッコリがまだ五つ残っている時から読んでいたわ」

「キッチンにいたのに、どうしてそんなことが分かるのかな」

「一面を読みながら一つ目。経済面を読みながら二つ目。社会面で三つ目と四つ目。スポーツ欄で五つ目でしょう」

「スポーツ欄は見ていないよ」

「ほら、やっぱり食べながら読んでた。ブロッコリを食べ終えてから新聞を読み始めたとしたら、一面から社会面まで読み進める時間は無かったはずだもの」

 ずばりとした指摘に、トータはぐっと言葉を詰まらせた。嵌められたらしい。

 ハナダがトータの紅茶に砂糖を投入しようとするのを常のごとく拒みかけたが、思い直して口を噤んだ。どうも今日の彼女には敵う気がしない。もっとも、今日に限ってのことでは無いのだが。

 甘い紅茶を口に流し込み、ほう、と息をついて、トータは気分を切り替えた。懐中時計を取り出して針の位置を確かめると、十九時少し過ぎである。

「今日はもう、店じまいかな」

 事務所の営業時間は、特に定めていない。今しがたのように、店を開けておきながら平然と食事を取ることもある。表の看板を裏返して玄関に鍵をかければ、それでこの店は「閉店」となり、要は店主の気分次第だ。トータの独白を聞きつけたハナダが颯爽と玄関に向かい、ノブを回して扉を引く。

 その瞬間、パシャリ、というシャッター音と共に、扉の隙間から入り込んできた眩しい光がトータの目を射た。

「ハナダ」

 腕で顔を庇いつつ放たれる、トータの鋭い一声。扉を素早く全開にして店の外へと躍り出たハナダは、目にも留まらぬ速さで玄関先にいた何者かの腕を掴むと、その背中へと捻り上げた。早業である。

 乱暴な歓迎を受けたその人物が、現在の己の状況を理解できたのは、腕の骨がギシギシと軋みを上げ、激痛を感知した脳が遅くも危険信号を発してからのようだった。

「え? あ、い、いでででででっ!」

 痛ましい悲鳴が事務所の中に響き渡り、トータは思わず顔をしかめたが、慌てることなくテーブルから立ち上がって玄関へと足を運ぶ。

 街灯に照らし出された舗道の上、ハナダに腕を捩じられ金切り声を上げているのは、まだ年若く見える青年だった。

 くたびれたトレンチコートに縁なし帽、肩には大きな革鞄。背は高くも低くもなく、丸さを帯びた顔つきには愛嬌がある。首から下げているのは、かなり使いこまれて塗装が剥げた、本格的な写真機である。先のシャッター音はこれが発したものだろう。

 そうしてトータが一通り青年を観察している間も、ハナダの力は全く緩まない。

「痛い、痛い、いでででで! 頼むから放してくれぇっ!」

 青年の悲鳴はすでに掠れ始めており、それでもハナダを振り払おうと必死で藻掻き続けてはいるが、無駄な抵抗のようだ。

 トータは青年の顔を覗き込んで視線を合わせ、目は笑わせずに微笑んだ。

「今晩は、いい夜ですね。けれど物騒なご時世ですから、不審者には注意をしたいところです。こんな夜分に、人の家を許可も無く撮影している見知らぬ男とか、ね」

 青年は一瞬、呆気に取られて硬直したかと思うと。

「すみません申し訳ありませんでした心から反省しています、だからどうかお願いだから放してください……!」

 涙ながらに怒涛の勢いで謝罪の言葉を並べ立て始める。

 一通りの詫びを聞き届けてから、ようやくハナダに静止をかけたトータの口調は、無闇と悠長で、もどかしいほどに緩慢だった。

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