第四幕 想いの行方ーⅧ

 トータとハナダの、ひどく冷たく思える、だが実際には無表情な視線を一身に受けながら、イアンは顔の前で広げた両手を見つめ、がたがたと激しく震え始めた。まるで、まだその掌に、耐え難い汚れがこびり付いているかのように。

 最早、別人のごとく変じた声が、イアンの唇からブツブツと溢れ出す。

「殺すつもりなど、無かったんだ。彼女があんな男なんかに夢中になるから。あの日の深夜、帰宅したセルマから奴の香水の匂いがして、それでついカッとなって――殺すつもりなんて、私は!」

 イアンが「カッとなって」、その後、どうしたかの詳細は、トータの興味の範疇外である。

 なんということを、と責める気も無ければ、浮気した妻が悪いのだ、と弁護する気も無い。まして、人一人を壁に塗り込めるのはさぞ大変だったろうと、労う気持ちがあるはずも無い。

「釈明なら警察で。懺悔なら教会で。僕らには貴方を罰する権利も許す義務もない。代金は頂いたし、願いは叶えた。もうこの店には、なんの用も無いはずだ」

 トータは顎でさりげなく地上への階段を示す。ハナダも体を軽く退いて道を譲った。

 両手で顔面を覆い、震え続けるイアンは、なお何事か弁解を呟き続けており、トータの声掛けに反応の一つも示さない。

 もう一度、トータは深く息をついた。

「今、貴方が考えるべきは、つまらない自己弁護なんかじゃない。ねえ、イアンさん。貴方はあの無垢な子どもたちに、どう説明する気なのかな。さらなる嘘を重ねて誤魔化す? それとも、四ヶ月経って白いカルシウムの塊になった母親を見せつける? 貴方はこの先、あの子たちを一生騙し続けることができると、セルマさんをずっとあそこに閉じこめておけると、本当にそう思っているのかい」

 淡々としたトータのその問いで、イアンの独白が、動きが、不意にぷつりと途絶えた。

 薄暗い地下室はまたも静寂に支配され、ランタンの炎が揺らぐ音さえ聞き取れるような気がした。

「セルマ」

 顔から両手を剥ぎ取って、イアンはゆっくりと、その名前を口にした。

 目はいまだ虚ろで、しかし確かに、トータたちには見えない何かを見ているように思えた。

 彼はふらりと立ち上がる。両腕をだらりと力無くぶら下げ、背中が大きく丸まった体は今にも前のめりに倒れそうだ。

「セルマーーセルマ、セルマ、セルマ」

 イアンは何もない暗闇へと右手を伸ばした。その手は何かを求めて、しかし掴み損ねて、頼りなくゆらゆらと踊っている。

 男は歩き出す。一歩、二歩、おぼつかない足取りで、地上へと続く階段に向かって。思わず彼から距離を取ったトータとハナダを見向きもせず、イアンは躊躇い無く進んでいく。

「セルマ、今行く、今行くよ、セルマ、会いたい、会いたい、会いたい、愛してる、会いたいんだ、セルマ、セルマ、セルマ、セルマ、セルマ!」

 時に左右の壁に体をぶつけながら、段差に躓きながら、それでもイアンはよろよろと、一段一段を登っていく。まるで、意志が体を引きずっているかのように。

 トータとハナダは、階段の下に並んでイアンを見上げ、ただ、黙ってその様子を見守り続ける。

 少し時を置いて、店の扉が開く微かな音が響いてきた時にも、二人はその場から動くこと無く、男が亡き妻を呼び続ける声を遠く聞いていた。




「あの子たちは、結局、何を交換に出したの?」

 ようやく地下室にいつもどおりの静けさが戻ってきたころ、ハナダは小さく首を傾げながらトータに尋ねた。

 トータは先までとは打って変わった優しい目を向け、苦笑交じりに肩をすくめる。

「あの二人が、というより、あの父親が何を奪おうとしたかが重要だね」

 ハナダの手からランタンを受け取ると、トータは階段をゆっくりと上り始めた。

「イアンさんはね、ハナダ。あの子どもたちから、『セルマさんを慕う気持ち』を奪い去ろうとしたんだよ。彼らが母親への執着を失い、捜索を諦めれば、イアンさんの罪が暴かれる可能性も、今回のような事態に患わされる心配も減るだろうから。おそらく、彼はずっと、二人に対してそういう願いを抱いていたんだ。だが、ことはそう上手くは運ばなかった」

 地上に溢れる昼前の白く明るい光が、隠し階段の中にまで差し込んでいる。トータはその眩しさに目を細めながら、話し続ける。

「子どもたちが情報を手に入れているにも関わらず、イアンさんは、交換後もセルマさんがどこにいるかを覚えていただろう? 情報は複製し、複数名で同時に所有することが可能だ。しかも、交換は一対一ではなく二対一で行われた。店は、情報を子ども二人のどちらか一人にだけ渡す、もしくは、半分ずつをそれぞれに渡すことを是としなかった。結果、彼らは願いを交換するのではなく――言わば、三人で情報を『共有』することになったのさ。初めて遭遇したケースだから、僕も驚いたけどね」

 地上階に帰り着いた二人は、本棚を動かして階段を隠し、服についた埃を軽く払った。振り返った室内は無人である。

 トータはハナダの正面に立ち、緑の瞳の中に彼女を映した。

「セルマさんの情報を三人で共有するとなると、平等を保つために、子どもたちの『セルマさんを慕う気持ち』もまた、三人で共有することになる。そしてイアンさんは、元々抱いていた妻への執着に加え、子どもたちの母に対する愛慕までも抱えてしまった。募る三人分の想いは――とても、正気でいられるものじゃなかったんだろうね」

 乾いた砂漠で一滴の水を渇望するような、変わり果てたイアンの最後の姿が、トータの脳裏にまざまざと蘇る。

 彼はこの先、どうするのだろう。

 屍となった妻に一目逢うため、封じられた壁を破り壊すのだろうか。

 それとも、募る思いを必死で堪え、壁から一生目を背け続けるのだろうか。

 トータは、開け放たれたまま放置され、ギイ、ギイと軋みながら揺れる玄関扉を見つめた。

 室内に目を戻すと、ソファに仲良く並んでいた三人の姿が思い出されて、トータは小さく声に出す。

「僕らは誰の不幸も望んじゃいない」

 ゆっくりと店内を縦断し、玄関扉の取っ手を握ったまま、事務所の外を眺めるトータ。

 白い日差しが降りそそぐ光景の中に、父子の姿は無い。

 トータは扉を引きながら、また呟く。

「かと言って、幸せも望んじゃいないけれど」

 扉は、控えめな音を立てて閉まった。




 第四幕 完

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