第四幕 想いの行方ーⅥ

 光が消え去ったあとには、いつも静寂が残される。

 この、爪の先で突けば容易く崩壊してしまいそうな、張り詰めた静けさ。その中に呆然と立ちつくす依頼人がまとう空気は、いつでもトータに、まるで夢の中にでもいるような頼りない感覚をもたらすのだ。

 トータは両手でゆっくりと空の引き出しを閉める。鍵を抜き、ポケットに収納したあとも、トータは床に膝をついて、三人に背を向けたままでいた。

 全てが停止したような地下室に変化をもたらしたのは、掠れた子どもの声。

「家だ」

 呆然と呟いたのはハルだった。限界まで大きく丸くなった目は、どこか遠くを見つめたままである。

 だが、次の瞬間、ハルの顔は生気を取り戻して一気に紅潮した。湧き上がってきた感情が全身から迸る。彼は堪え切れずに大きく飛び上がり、妹の両手を取ってぶんぶんと振った。

「見たよな、ロージー! 家、家だよ! 母さんは家にいる、家に帰って来たんだ!」

 ロージーには、今、自分が目にしたものが何を意味するかが分かっていなかったようだった。兄の弾んだ声を聞いてようやく理解した彼女の顔も、また、みるみるうちに明るくなっていく。

「見た! わたしも見た、おにいちゃん! おうちの、玄関から入って」

「廊下の突き当たり! やっぱり、ロージーも見たんだな。すごいや、まるで映画を観てるみたいだった。トータさん、そういうことだよね? 母さんの姿は見えなかったけど、僕らの家の中が見えたんだ。母さんの居場所を知りたいと願った、その答えなんだから、母さんは家にいるってことだよね?」

 ハルは喜び一色に染まった顔をトータに向け、早口に尋ねる。

 トータはそこで初めて、ゆっくりと兄妹を振り返った。顔に薄い微笑みを浮かべて。

「そうだよ、そのとおり。セルマさんは家にいる」

 肯定の返事に、ハルが、ロージーが、ほとんど言葉にならない大きな歓声を上げる。二人で手に手を取って、地下室の床の上で踊るように跳ね回った末、ハルは浮足立ちながらキャスケットを被り直した。

「こうしちゃいられない。ロージー、父さん、今すぐ帰ろう。母さんが待ってる!」

 兄の力強い提案に、ロージーは頭がもげそうなほど繰り返し大きく頷いて、人形をぎゅっと抱きしめる。

「うん、帰る! ママが待ってる!」

「そうだよ、やっと母さんに会えるんだ。母さんのスープが食べられるんだ」

「わたし、ママにご本読んでもらうの。お人形遊びもするの」

「母さん、ミートパイ作ってくれないかな。スコーンも食べたいな」

「おにいちゃん、食べることばっかり」

「うるさいな。いいだろ、別に」

 興奮冷めやらない兄妹は、賑やかなやりとりを繰り広げながら、仲良く手を繋いで地上への階段を駆け上がり始めた。

 しかし、やにわにその足を止めると、ハルは背後を振り返って笑顔で呼びかける。

「何をぼーっとしてるんだよ、父さん。僕たちは先に帰るから、父さんも早く来てよ!」

「はやくきてねー!」

 ロージーもまた、上機嫌に可愛らしくおどけてみせる。二人はさらに、黙って佇むトータとハナダにも揃って手を振り、朗らかに笑いかけた。

「トータさん、ハナダさん、ありがとう!」

「ありがとー!」

 咲き誇る向日葵のような眩い笑顔を向けられ、トータは目を細める。小さく微笑みかけることで返事に代えた。




 子どもたちの姿が階上へ消え、騒々しい足音もたちまち小さくなっていく。店の玄関の扉が開く音、続けて閉まる音が、遠く聞こえた。

 再び、水を打ったような静けさが地下室を満たす。

 その無音にしばらく浸ってから、トータは徐に、眼前の男の背中へ視線を動かした。

「それで、イアンさん」

 落ち着き払った足取りで、大回りにイアンの正面へと移動するトータ。下から男の顔を覗き込み、強制的に目を合わせた。

「喜ぶべきこの瞬間に、貴方は何故、まるで悪夢でも見たような顔をしているのかな」

 トータの言葉に、棘は無かった。無かったが、毒はあった。

 イアンの眼球が、のろり、と回る。

 光の宿らない、濁った茶色の瞳が、ぼんやりとトータの顔面を捉えた。目の動きから少し遅れて、イアンの首もまた、回る。ぜんまい仕掛けの人形のような、ぎこちない動きで。

「君は、交換する相手と、ものが、分かるんだったな」

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