第四幕 想いの行方ーⅣ

 三人は、ただただ口をぽかんと開けて、その小さな手を見つめてしまう。

 最初に反応したのはハルだった。彼は目を大きく見開いたまま、トータの手に吸い寄せられるように、ふらりとソファから立ち上がる。

「帰って、くるの?」

 心から溢れ出すままが口から零れ出した、そんな印象を受ける声音だった。

 体を、声を、瞳も震わせて、ハルは両手でトータの手を掴み、強く握りしめる。

「帰ってくる、母さんが! やっと帰ってきてくれるんだ! ロージー、父さん、母さんが帰ってくるんだよ!」

 全身で喜びを爆発させるかのように、トータの手を取ったまま興奮して飛び跳ねるハル。

「ママ、帰ってくるの? ほんとうに?」

 兄につられたロージーもソファからぴょんと飛び降り、人形をしっかり抱えたままで、おさげを揺らしながらテーブルの周りを小兎のように跳ね回った。

 ハルの激しい動きに振り回され、しかし振りほどくにほどけず、危うく転びそうになりながらトータは苦笑する。

 だが、その目の端には、相変わらず浮かない――いや、何かを憂いる面持ちで、まるで他人事のように子どもたちを傍観するイアンの姿が映り込んでいた。




 狭い階段を下っていくにつれ、気温が急激に下がったように感じられた。それはおそらく、この場所が地下であることだけが理由ではないのだろう。

 上階の事務所よりも明らかに古い年代物の壁。黒く青く、幽かに光を反射する石の床。ランタンの小さな明かりだけでは、地下室の隅々までを見渡すことはできない。光が届かない闇の中から、何か、得体の知れない恐ろしいものが音も無く這い寄ってきているような気持がして、ハルは慌てて頭を振り、嫌な想像を頭から追い出そうと試みるのだった。

 ハルの腰には、すっかり怯えきったロージーが青い顔でしがみついている。二人の後ろについて階段を下りてくるイアンを振り返る余裕は無かったが、父の緊張が背中越しにでも伝わってくる。ハル自身もまた、すっかり冷たくなった指先を掌中に握り込んで、喉の奥からせり上がって来る生唾を幾度となく呑み込んでいた。

 ふと、先頭を歩いていたトータの足が止まり、小さな手がランタンをひょいと掲げる。

 灯火が照らし出した地下室の様子を見るなり、ハルは思わず声を漏らした。

「うわ……」

 視界に飛び込んできたのは、壁という壁を埋め尽くす無数の引き出し。大きさは不揃いで、その全てが今はぴたりと壁の中に収められている。数は三百を下らない。五百に達しているかも知れない。どんなに物が多くても、これほどの引き出しを使い分けられるものだろうか。

 肌が粟立つほどの異様な光景に、ハルは恐怖すら忘れて圧倒された。

 そんな中、引き出しに囲まれて薄く笑みを浮かべるトータは、まるでこの世のものではないかのようで。

「さて、ハル君」

 そのトータに名指しされ、ハルの心臓はドキリと鳴った。

「僕は先ほど、この店を利用すれば、セルマさんが帰ってくるかもしれないと伝えたね。けれど、その前に教えたこの店の仕組みを考えると、疑問に思うことはないかい」

 突然の質問形式に、ハルは動揺してしまう。学校の授業で先生に当てられた時とは、比べものにならない緊張感だ。

 しかし、答えはすぐに思い当たった。

「この店は、誰かと誰かの願いを交換する。けど母さんは、誰かの『もの』じゃない。じゃあ、僕らは一体、誰を相手に母さんを交換することになるの?」

 トータは、満足そうにそっと口角を持ち上げた。

「いい読みだ」

 呟き、手を背中に回して組むと、トータは壁に沿ってゆっくりと歩き始める。

「仮に、セルマさんがなんらかの事件に巻き込まれているとする。悪漢に誘拐された、とかね。そうであれば話は簡単。交渉相手は、その誘拐犯になる」

 誘拐、という具体的な単語を伴った仮定に、ハルは体を震わせた。今にも泣き出しそうなロージーをそっと抱き寄せて、背中を優しくさすってやる。

「では、セルマさんが自分の意志で身を隠しているとしたら? 話はややこしくなる。セルマさんを交渉相手に、セルマさんを交換しようというのだからね」

 謎かけのようなトータの言葉に、ハルの頭はこんがらがった。ロージーの不安げな眼差しを頬に感じて、ハルは妹と視線を交わし、首を傾げる。

 はたして、人は、誰かの「もの」なのだろうか?




 子どもたちが目を白黒させている隙に、その横をさりげなくすり抜けて、トータはイアンに歩み寄る。手招きと目配せだけでイアンを軽く屈ませると、その耳に顔を寄せ、囁いた。

「あの子たちはともかく、いい大人ならばとっくに考えているはずだよね。すでにセルマさんが亡くなっている可能性を」

 途端、イアンの顔から血の気が引いた。彼の額や首筋には脂汗がじっとりと滲んでいたが、トータは構わず、さらに続ける。

「それこそ、本当にややこしい事態だ。この店で手に入れることができるのは、この世に存在する人間が実際に所有しているものだけ。もしも、ハル君とロージーさんが闇雲に交換を強行したら、彼らは一体、何を手に入れることになるのだろうね?」

 子どもたちの耳に入らないよう、声量は限界まで絞られているにも関わらず、早口なトータの言葉は掠れもせず、克明に、イアンの鼓膜を揺さぶった。

 イアンはすでに、トータのことを見ていなかった。壁でも天井でもない空中に視線をさまよわせ、トータの言葉を聴かないよう、強いて努めているようにも見えた。

 トータは踵を返すと、今度はハルやロージーにも聞こえる声で、話をまとめにかかる。

「そういうことで、願いはよく考えてから口にしたほうがいい。例え、セルマさんが置かれているのがどんな状況であったとしても、貴方たちの望みに近い結果が得られるようにね」

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