第四幕 想いの行方ーⅠ

 大きく開け放った窓からは、爽やかな朝の風が舞い込んでくる。

 どこからか流れてきた焼きたてのパンの香りが鼻腔をくすぐる。遠くで鳥たちが挨拶を交わす声がする。霧の街にも今日は暖かな日が差し、並び立つ民家の屋根の隙間からは澄んだ青空が覗いていた。

「こちらは終わったよ。手伝おうか、ハナダ」

 店先を掃いていたのだろう、シャツの袖をまくりあげ、箒を手に店内へ入ってきたトータが、洗濯かごを両手で抱えて二階へ上がろうとしているハナダに声を掛ける。

 ハナダは「ご苦労様」とトータを労ってから、洗濯物の重さを確かめ、首を横に振った。

「いいえ、こちらは一人で十分。ありがとう」

「そう。ならそうだな、窓の掃除でもするとしようか」

 トータは思いつくままに独白すると、箒を奥の物置に片付け、代わりに雑巾と水を汲んだバケツを持って戻ってくる。

 戻ってくるなり、バケツを片手にぶら下げたまま、憮然として立ち尽くした。

「相変わらず仕事が速いね、ハナダ」

 苦々しげに呟いたトータの視線の先には、物置から一番近い窓の下に置かれた、小ぶりな木製の踏み台があった。ハナダは滅多に使用しないものだ。

 これを設置したであろうハナダの姿はすでに無い。洗濯物を干しに上階へ行ったのだろう。トータの呟きを聞くや否や、彼が憎しみすら抱いているこの踏み台を、わざわざ用意してくれたらしい。

「いくらなんでも、これくらいの高さなら届くよ」

 呆れ顔で肩をすくめたトータは、水に浸した雑巾を固く絞ると、踏み台を脇に避けてから、雑巾を持った右手を窓の上方へと伸ばした。

「……」

 爪先立ちになる。窓の下枠に置いた左手を支えに伸び上がる。手だけでなく、指先も引きつる限界まで伸ばす。その体勢で二秒ほど固まった、のち、トータは渋々と、踏み台を窓の下に設置し直すのだった。

 盛大な溜め息をつきながら踏み台に乗り、ようやく届いた窓ガラスの最上部に雑巾を宛がって、そこで初めて。

 トータは、窓のすぐ外に、人の顔があることに気が付いた。

「うわっ?」

 ぎょっとして思わず両手を窓から離したトータは大きく体勢を崩し、咄嗟に踏み台から後ろ向きに飛び降りる。しかし勢いは殺せず、コテンと床に尻餅をついた。

 窓の外では、トータと同様に驚いたのだろう、顔を覗かせていた人物が大きく飛びすさって、やはりポテンと小さな音が聞こえた。それも、二重に。

「ん?」

 トータは尻をさすりながら怪訝そうな声を上げ、雑巾をバケツに投げ入れつつ立ち上がる。窓の外に首を突き出し、見下ろしてみて納得した。

 気のせいではなかった。窓の下の路上に転がっていたのは、二人の幼い子どもだったのである。

 一方は赤茶の巻き毛で、両頬にそばかすを散らせた十歳ほどに見える少年。傍に落ちているチェック柄のキャスケット帽は、きっと彼のものだろう。仕立てのいい白いシャツを着て、焦げ茶色のズボンをサスペンダーで吊っている出で立ちからして、育ちは悪くなさそうだ。

 そしてもう一方は、やはり赤茶の髪を二本のおさげに結った、若草色のワンピースの少女である。歳は少年よりも下で、まだ六、七歳といったところだろうか。くりくりとした大きな瞳と、両手でしっかり抱えた布製人形ラグドールが愛らしい。

 髪の色もそうだが、少年と少女は顔立ちに通じるものがあり、兄妹と見るのが妥当だろう。

 子どもたちはしばらく目をぱちくりとさせていたが、トータに見下ろされていることに気が付くと、悪戯が露見してしまったかのように、おろおろと視線をさまよわせた。

「怪我は無さそうだね。中を覗いていたようだけど、どうかしたのかな?」

 トータは窓枠にもたれ掛かって、二人を怯えさせないよう穏やかな調子で問いかけた。少年は束の間、どう答えていいか逡巡しているようだったが、やがて意を決したように立ち上がり、少女の手を取って助け起こしてやる。

 ゴクリと喉を鳴らし、真っすぐトータへ視線を合わせた少年の瞳には、聡明そうな光が宿っていた。

「ここが、願いを叶えてくれる店だというのは本当ですか?」

 声変わり前の幼い声が紡いだ問いに、トータは一瞬、眉を顰める。

「君たちは――」

「ハル、ロージー、いい加減にしなさい。そんなところから覗き込んでは失礼だろう」

 トータの言葉を掻き消して、少年たちの背後から、今度は大人の声が飛んだ。

 見れば、三十代半ばと見える細身の男が、こちらへ向かって足早に歩み寄ってくるところである。

 厚手の茶色い背広と、ベージュのズボン。顔色が悪く、頬は少しけているが、貧しい装いではない。髪こそ金に近い茶色だが、目の形や口元の雰囲気が、どことなく二人の子どもと重なった。

 ハル、ロージー、と、それぞれ呼ばれた子どもたちが振り返り、少年が「父さん」と呼び返す。父親と思しき男は少年と少女の間に割って入ると、両手で二人の頭を押さえて無理矢理下げさせると同時に、彼自らも深々と低頭した。

「すみません、うちの子がご迷惑をおかけして」

「いいえ。ほんの少し驚かされた程度です。たいしたことはありません」

 鷹揚に許容するトータを見て、男は目を丸くし、そして拍子抜けしたようだった。ころりと「大人の顔」になると、窓の外にいてさえトータより高い位置から笑いかける。

「そうか、それならば良かった。君はとてもしっかりしているね」

 それから、騒ぎを聞きつけてトータの後ろから顔を覗かせたハナダに、改めて丁寧に会釈する。

「やあどうも。お騒がせしまして申し訳ありません」

 この男の所業に、二度に渡って強制的に頭を下げさせられた子どもたちだけでなく、トータも口を歪めて不満を顕わにした。もっとも、トータの表情の変化は三人が面を上げた頃にはすっかり消え去っていたため、男に気付かれることは無かっただろうが。

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