第三幕 言葉にするには難しいーⅣ

 トータは座ったまま、遥か頭上の男の顔を見上げた。

「諦めるの? 殺し屋さん」

「いや」

 男はソファの横に移動してから体の向きを変え、トータに視線を合わせると、自嘲気味に薄く笑った。

「ここでも叶えられないとなると、私にはどうやら、人が殺せない呪いでもかかっているのだろう。ならば、その呪縛から逃れられるよう、せいぜい自力で足掻いてみるだけだ」

 彼は小さく会釈すると、後ろ髪を引かれる様子も見せずにくるりとトータへ背を向け、玄関の方へと歩き始めた。

「そう。ご期待に沿えず残念だ」

 トータもまた小さく微笑んで、立ち去ろうとする黒い背中を見送る。

 店の入り口に辿り着いた男が、玄関扉のノブへと手を伸ばしかけた、ちょうどその時。

「願いを叶える店とはこちらか!」

 騒々しい嗄れ声を招き入れつつ、外から扉が開け放たれた。それも、かなりの勢いで。

 扉は案の定、不意を突かれた殺し屋の顔面に直撃する。バアン、という激しい音が事務所内に木霊したかと思うと、殺し屋は声も上げずに横へ大きくよろめき、壁際のコート掛けを巻き込んで転倒した。

「今の音はなんだ、何かあったのか。いや、そんなことより――そこの少年、この店の主はどこだ? 頼む、会わせてくれ、叶えて欲しい願いがあるんだ!」

 事務所の中へ慌ただしく飛び込んできたのは、四十がらみの貧相な男だった。中肉中背、もじゃもじゃと癖の強い茶髪に無精髭、太い黒縁の眼鏡と、見た目は冴えない。よれて皺だらけの白い上着は、どうやら白衣のようだ。

 新たな来訪者は、扉の陰で未だ立ち上がれずにいる殺し屋には目もくれず、いや、自分のことで頭がいっぱいで気付いていないのだろう、応接ソファで唖然としているトータへと一目散に駆け寄ってきた。

 両手をばたばたと振り回しながら喚き散らす男に、トータは少年扱いされた怒りよりも、情けなさを覚えて脱力してしまう。

「まずは落ち着いて。お話を伺いましょう。この店がどういうところなのかは、承知で来店されたようですね」

 丁寧な口調でトータが探りを入れると、男の分厚い眼鏡の奥で、瞳がぱっと明るく輝いた。よくよく見れば、青く澄み切った綺麗な瞳である。白衣の男はトータの両肩を力強く掴むと、興奮に任せて大きく揺さぶる。

「そう、そうなんだよ。私にはもう、ここしか頼るところが無いんだ。できるだけの礼はする、足りなければ皿洗いでも掃除でもなんでもする。ああ、ここは本当に、願いを叶えてくれる店なんだな?」

 男はトータを揺さぶるのを止めて両手を離すと、ほう、と感無量のような息をついた。瞳をじわりと潤ませながら、誰が何を尋ねてもいないのに、彼は堰を切ったかのように喋り出す。

「私は医者なんだ。医療知識も技術も、もちろん人を救うことに対する情熱も、そこらの医者に勝るとも劣らない自信がある。なのに、なのに、だ!」

 眦に浮かんで溜まっていた涙が、ついに張力では支えきれなくなり、男は笑っているような表情でボロボロと大粒の涙を零し始めた。それを拭うことも、恥じることもなく、白衣の男は悲痛な声で叫ぶ。

「私は、人を生かせないのだ!」

 どこかで聞いた誰かの言葉に似ているようで、しかし、決定的に違うその嘆きに、トータは目を丸くした。

 ふと、眼前の男の目の下に濃い隈ができていることや、頬がすっかり痩せこけてしまっていることにトータは気付く。疲労と憔悴が、そして悲嘆が、男の全身から滲み出すかのようだった。

「心臓の手術を完璧に施し、もう大丈夫だと太鼓判を押した翌日、急性盲腸炎で死ぬ。余命三月とすら言われた難病を完治させたのに、退院当日に階段から落ちて死ぬ。大きな事故に巻き込まれ、緊急手術で一命をとりとめたと思ったら、病院まで押しかけてきた愛人に刺されて死ぬ。私が命を救おうとすればするほど、命は私の手から零れ落ちていってしまう」

 しゃくりあげ、嗚咽を漏らす男の泣き言を聞きながら、トータがゆっくりと視線を向けたのは、白衣の男の背景に紛れ込んでいる黒ずくめの男。

 そんなトータの所作になど気も留めず、医者は鼻をすすりながら喋り続ける。

「もう嫌だ。私にはきっと、人を生かすことができない呪いでもかかっているんだ。どうすればこの呪縛から解放される? 頼む、頼むから、私の願いを叶えておくれよ」

 白衣の袖で涙をぬぐう男を無言で眺めてから、トータはもう一度、彼の背後へ視線を送った。開けっ放しの玄関の横では、ハナダの手を借り、ようやく起き上がったもう一人の男。

 額と鼻の頭を真っ赤に腫らした、人を殺せない殺し屋は、ぽかんと大きく口を開け、人を生かせない医者の背中を凝視していた。

 トータは、自分の口元が緩むのを感じる。黒い男に向けて、悪戯っぽく問いかけた。

「さて、貴方の願いは? 今ならきっと、言葉にできるはずだ」




 小一時間ほどが経った頃。

 人を殺せなかった殺し屋と、人を生かせなかった医者は、仲良く肩を組み、弾むような足取りで店を後にした。

 お互いの「呪い」を交換することで、それぞれの願いを、恐らくは叶えて。

 店先に並び立って二人の男を見送りながら、ハナダがぽつりと呟く。

「殺し屋さんが殺せるようになってしまって、よかったのかしら」

 トータは首をコキコキと鳴らしながら小さく唸るが、やがて肩をすくめて言う。

「いいんじゃないかな。殺せなかった人が殺して、生かせなかった人が生かすのだから、生死の数は同じさ。違うのは、自分の生き方に満足している人間が二人いるか、それともゼロか、だよ」

 あれほど激しかった嵐は、いつの間にか過ぎ去っている。

 雲すら消えた夜の空には、きらきらと星が輝いていた。




 第三幕 完

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