第三幕 言葉にするには難しいーⅡ

 トータは、紅茶のカップに手を伸ばしかけたまま動きを止めた。

 徐に振り返って、斜め後ろに控えるハナダを見る。彼女もトータに視線を合わせたが、常と変わらぬ無表情で、特に何を発言しようという意志も無さそうだ。

 顔を正面に戻し、トータは改めてまじまじと男を観察するが、瞬き一つしない彼の表情は真剣そのもので、雨に濡れたせいで熱が出たとも思えなかった。

 トータの胡乱気な面持ちに気付いてか、男は「ああ」と合点する。

「この店の仕組みについては、ある程度耳にしている。人知を超えた不可思議な力でもって、依頼人と、この世界のどこにいる他の誰かとの交換取引を仲介するらしいな。常識では手に入らないものでも手に入れられたり、手放せないものを手放したりできるのだと。料金は破格だが、その代わり、依頼者が何を失うか、はたまた何を押しつけられるか分からないという危険性がある、とも」

 すらすらと語られた正確な情報に、トータはふむと唸った。

「その通りだよ。そこまで承知の上で訪れたのならば話は早い。ならば、貴方はこの期に及んで、一体何を迷うことがある?」

 リスクを理解しての来店である。金さえ積めばどんな願いでも叶うと思って押しかけて来る、欲の皮の張った人種とは根本的に違っているのだ。それが、ここまで来て何を躊躇することがあるのか。

 男はまた悩まし気に、眉間に深い皺を寄せた。

「ここで願いを叶えるためには、願いを言葉にしなければならないと聞いた。それも、《欲しい》や《捨てたい》といった、所有を表す言葉によって」

「それも正しい。つまり――そうか」

 トータはようやく把捉した。男の願いは、「金が欲しい」などというようには、安易に文章にすることが難しいものなのだろう。

 そう指摘すると、男は恥じ入ったように小さく頷いた。

「私の願いは、仕事に関することだ。しかし、どう願えばその願いが叶うのか、私には見当がつかない」

「ちなみに、お仕事は何を?」

 軽い気持ちで尋ねたトータだったが、男は一度、返事に窮して俯いた。

 そして面を上げるや、再びトータの意表を突く。

「殺し屋を営んでいる」

 カップを口元へ持って行くところだったトータは、思わず息を吹き出した。紅茶を口に含んでいたならば、人間霧吹きと化していただろう。喉を潤すことは一旦諦め、トータは机上にカップを戻す。

「殺し屋?」

「ああ」

「へえ」

 冗談でしょう、などと一蹴するつもりは無いものの、それでも顔が引きつった。

 堅気でない依頼人の訪問は珍しくもなく、中には暗殺者を雇うような物騒な人種もいるが、「殺し屋」を名乗る客が訪れた例はかつて無い。とは言え、トータが動転したのは男の職業そのものに対してではなく、意外性のためである。

「それらしくないね」

「よく言われる」

 誰に言われるのだ、という切り返しを、トータは危ういところで呑み込んだ。

 殺し屋を名乗る男は、抑揚なく静かに続ける。

「正確には、暗殺や諜報活動など、非常な危険を伴う違法行為を一手に引き受けている。仲間も後ろ楯も無いが、こいつの腕には覚えがあるのでね」

 殺し屋は懐に片手を入れ、中から黒い金属製の何かをちらりと覗かせるや、即座に元に戻す。それだけでは、垣間見えた飛び道具らしきものが本物か偽物なのかも、男の腕の良さも分からない。

 しかし、トータはすでに、男の言が嘘や誇大ではないと判断を下していた。

 つい先ほど気付いたことだが、トータの後ろに控えるハナダの立ち位置が、通常と比べてトータに近いのである。常ならばぴたりと揃えている足も、今日は左足が心なしか前に出ており、手の組み方も緩い。いつでも動き出せるよう、有事に備えているように。

 このぼんやりとした自称・殺し屋を、ハナダは恐らく、本能的に警戒している。この男にそれだけの危険性があることは確かと見ていい。

 だが、トータの経験上、腕が立つ人間ほど無駄な殺傷を好まない。無闇と怯える必要はないだろう。

 トータはソファに背中を預け、いつものペースを取り戻そうと口を開く。

「殺し屋なんて、いかにもトラブルが多発しそうな仕事だ。悩みや苦労も絶えないだろうけど、とは言え、わざわざこんな店まで尋ねてくるような願いとは、どんなものなのか非常に興味深いね」

 淀みなく喋りながら、トータは想像しうる「殺し屋の悩み」を頭の中に列挙していく。日常的に危険と隣り合わせであることや、人を殺すことに対するストレスだろうか。はたまた、依頼人との軋轢に関することか。職業柄、逆に誰かから命を狙われることもあるかもしれない。

 しかし殺し屋は――来店してからの短い時間で、一体何度目になるのか――またしても、トータを硬直させるのに十分な台詞を淡々と口にする。

「私は、人が殺せないのだ」

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