第三幕 言葉にするには難しいーⅠ

 嵐のような雨だった。

 大きな雨粒がピシピシと音を立てて窓を引っ切り無しに叩き、暗雲が渦巻く空には時折激しい稲妻が走っている。

 そろそろ夕べに差し掛かろうかという頃合いである。程なくして過ぎ去ると思われた夕立は未だ止まず、明かりを点けていない事務所の中は、活字がかろうじて読めるか否かという薄暗さだ。

 室内の窓際には、外に背を向けて経済新聞を広げ、稲光が紙面を照らす瞬間を気長に待つトータ。

 事務所奥の台所からは、ハナダが夕飯の支度を始めたのだろう、包丁がまな板を叩いて軽快なリズムを刻む音が聞こえてくる。

 吹きつける強風が建物を揺らす。雨音は先よりさらに激しくなった。

 トントン、ザーザー、ゴロゴロピシャリ。

 これだけの音が溢れているにも関わらず、不思議と静寂を思わせるこのひとときは、トータのお気に召したようである。いつ続きが読めるとも分からない株式欄をぼんやりと眺める彼の顔は、見る人が見れば、ご機嫌麗しいようだと判断できた。

 そんなトータの優雅な時間の終わりは、唐突に訪れる。

 玄関扉の取手が押し下げられる、ガチャリという金属音。続けて、ギイ、と扉が軋む音。雨粒が地面にぶつかって砕ける音が鮮明になる。

 トータが疎ましげに玄関へ視線を送れば、事務所の古びた扉が手前に向かってゆっくりと開いていくところだった。

 扉の向こうには、取手に片手を添えたまま立つ、一人の男の姿。

 背が高い。がっしりと逞しい体つきというわけではないが、細い印象も受けない。

 物腰や顔つきに若々しさは感じられないが、肌には皺一つ刻まれておらず、三十路には達していないだろう。やや長めの、緩くウエーブした髪の色は黒。膝まで隠すロングコートも、長い足を収めたブーツも黒ずくめだ。

 この豪雨の中、傘も差さずにやって来たのか、男は全身濡れ鼠で、髪からも服からも滴がポタポタと垂れている。鴉の濡れ羽色とは、今の彼の髪のような黒のことを指すのだろう。

 トータの目と男の目がばちりと合った。密やかな男の眼光は、鷹のような鋭さである。鼻梁が通ったエキゾチックな顔立ちで、なかなかの二枚目だ。

 男の背後で雷光が弾けた。白い光が彼の黒さを一層際立たせる。遅れて雷鳴が轟く。

 そしてまた、風と雨の音で満たされた奇妙な静寂が訪れた。

 長い、だが実測ではものの数秒の沈黙の後、トータはゆるりと口を開く。

「ようこそ。お話を伺う前に――とりあえず、閉めて頂けますか。扉」

 併せてトータが指で示した開けっ放しの玄関からは、風に煽られた雨粒が無遠慮に室内へ侵入し、ハナダによって綺麗に磨かれた床を満遍なく濡らしていた。

 先より少し短い沈黙。

 男はようやく雨の降り込みに気付いたようにハッとすると、水滴を振りまきながら慌てて事務所の中へ駆け込もうとする。

 そして、トータより遙かに高い位置にあるその前頭を、入り口の上部で強打した。

 ガゴッ、という痛々しい音。

 声も無く、両手で頭を押さえてその場に無様にしゃがみこむ二枚目の大男を遠目に見ながら、トータは半眼で呟く。

「何、この人」

 異変を察してか、人参を手にしたまま台所から顔を覗かせたハナダは、タオルと救急箱のどちらを優先して持ってくるべきかを、寸の間、悩んでいるようだった。




「――と、前置きはここまで。質問が無ければ、場所を変えて詳しい話をさせて貰うけれど」

 慣れた調子で諸々の説明を終えたトータは、腫れた前頭を氷嚢で冷やす男の顔を伺い見た。

 向かい合わせに設置された二脚の応接ソファ。窓側の席にトータ、ローテーブルを挟んだ対面に、黒ずくめの男が腰を落ち着けている。

 通りすがりの雨宿りではないだろうと察しはついていたが、男の目的はやはり、法律相談などでは無かった。曰く、とある情報通から、この店の噂を耳にしたのだという。

 トータは時折、思う。

 この店の裏稼業については広報活動を行っていないし、表に看板すら出していない。商売内容も従業員も胡散臭いことこの上なく、実績も良いものばかりではないのに、それでも客はどこからか話を聞きつけ、こうして店を訪れる。そして大概、トータが追求しない所為もあるだろうが、客はこの店へと行きついた情報源を明かさない。

 これはどう捉えるべきなのか。

 ――いや、どうだろうと構わない。客が訪れないことには、こちらも万事休すだ。

 トータは思考に埋没することを止め、改めて正面の客を見据えた。

 さて、この人物はどう出てくるか。

 対面する男は、トータがすでに自己紹介を終えているにも関わらず、未だに己の名すら告げていない。そもそも言うつもりが無いように感じる。

 膝の上で手を組み、手付かずのまま冷めていく紅茶に視線を落としたまま、口を結んで思案顔を浮かべている。トータから受けた説明の咀嚼と、話を切り出すことへの躊躇とが、半々と言ったところだろうか。

「貴方は叶えたい願いがあってここに来たのだよね。話したくないのであれば、このままお引き取りいただいて、この店のことは綺麗に忘れるべきだ。けれど、話したくない気持ちよりも願いを叶えたい気持ちが強いのならば、ここで口に出してみると良い。顧客情報は他言しないし、願いの内容や理由で依頼を断ることは無い」

 トータが回りくどくも発言を促すと、男はようやく面を上げた。濡れた前髪が張り付いた憂い顔には、色気と言おうか、いかにも女性を惹きつけそうな魅力がある。

 だが、その口から発せられた言葉は、顔とは裏腹に随分と間が抜けていた。

「私の願いを、なんと表現したらいいか分からない」

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