第二幕 彼女のほしいものーⅥ

 ふらりと、力無く女は立ち上がる。老婆の外見と相まって、幽鬼じみたものがあった。

 トータはあくまで冷静だった。侮蔑の眼差しを投げかける。

「僕は何度も忠告した。文句を言われる筋合いは無いし、一度交換したら取り返しはつかない。欲しいものは全て手に入ったはずだ。貴女が望んだとおりに」

 冷たく言い放たれたマーガレットは、トータから視線を外して深く項垂れた。優雅に結われていた長い金髪がはらりと垂れて、彼女の顔に暗い影を落とす。

 次の瞬間、がばと上げられた女の顔は、おぞましいほどの怒りで塗り替えられていた。

 血走った目はぎらつき、皺は一層深く顔全体に刻まれ、眉はこれほどにまでなるかと驚くほど険しく吊り上がっている。

「貴方、最初から分かっていたんでしょう? 私がこうなることを知っていて、あえて黙っていた、そうに違いないわ! かえして、かえしてよ、かえしなさいよ――かえせ!」

 老婆の姿をした若い女は、醜く歪んだ形相で、ヒステリックに喚き散らした。

 トータは煩わしげに顔をしかめ、マーガレットがまだ、外見的には美しかった頃の言葉を拝借する。

「貴女、随分としつこいね」

 カッ、と、対峙する女の頭に血が昇る音が聞こえた気がした。

 マーガレットは激しい憎悪の視線をトータにぶつけたかと思うと、彼の背後に立っているハナダにはたと目を留める。

 女の動きは、外見は老いても疾かった。獲物に飛びかかる獣もかくやという俊敏さだった。

 反応し損ねたトータの横をすり抜け、今までずっと静かに待機していたハナダに掴みかかると、彼女の細い両肩を掴んで後方の壁に押さえつける。

「私に寄越しなさいよ、その肌を! こんな首飾りなんかくれてやるわ、服だってお金だって!」

 服の上からでも肩に食い込みそうなほど強く爪を立てる皺だらけのマーガレットの手を、ハナダはただ、無表情に見つめていた。苦痛も、恐怖も怒りも、不快すらも、彼女の顔から読み取ることはできない。

 ハナダの無抵抗をいいことに、マーガレットは唾とともに罵言を吐き散らかす。

「見なさいよ、この宝石。貴女みたいな卑しい身分の女じゃ、一生かけても触ることすらできやしないわよ。ほら、欲しいでしょう、喉から手が出るくらい!」

 ハナダは、自分の左肩を掴んでいるマーガレットの腕を、右手でそっと握った。

 小さく口を開けて、短く答える。

「特には」

 刹那、マーガレットの腕を握るハナダの手に力が加わった。左手で素早く己の右肩に掛かるマーガレットの手を跳ね除け、壁から背中を離すと同時に、マーガレットの右手を握ったまま強く引く。

 ――その後に何が起こったのかは、マーガレットにも、間近で見ていたトータにも、ほとんど分からなかった。

 ただ、ハナダの長い三つ編みとワンピースが宙で踊ったことを二人が認識した時には、もう、マーガレットは驚愕の表情のまま、冷たい床に仰向けで転がっていた。




 遅れて襲ってくる全身の強い痛みに、マーガレットは苦悶の声を漏らす。痛みと同時に、自分の立場を思い知る。

 視界の端には、ぽんぽんとスカートの裾をはたくハナダの、何事も無かったかのような平然とした顔が。

 そして、マーガレットを真上から見下ろす、幼いトータの顔があった。

 トータは、怒っていた。煮え滾るように激昂していると分かるのに、そこに表情は無かった。触れると火傷を負いそうな冷たさだった。

「貴女に、ハナダの欲しいものなんて、分かってたまるものか」

 小さく、けれど吐き捨てるようにトータが呟いた言葉。

 深緑色の瞳の奥に、一瞬、怒りとは別の感情が垣間見える。

 混乱を極めるマーガレットの頭では、その表情の意味も、言葉が意図することも何一つとして理解できなかった。

 トータは口を噤む。ハナダはまた、明後日の方向を見ている。

 マーガレットは仰向けになったまま、ただもう呆然と、二人の顔を見つめるだけだ。

 誰も音を発しなくなった地下室は、マーガレット一人から長い時間を奪って、そのまま時を止めてしまったかのようだった。




 夜の気配が近付いている。薄暗い室内に、茶葉の芳しい香りが優しく漂う。

 マーガレットが立ち去った事務所は、いつも通り、静かで平穏だ。

 湯気の立つカップの中にハナダが一匙半の砂糖を入れることを、トータは拒まなかった。舌に沁みるほどの甘さは、今まさにトータが欲しているものに相違ない。

「彼女が欲するべきは、大きな目でも、小さな鼻でも、素敵な首飾りでもなかった」

 トータはカップで両手を温めながら、ぽつりと独白する。

 全ての願いを叶える以前の、あの自信に溢れたマーガレットの素顔は、トータにはもう、思い出せそうにない。

「満足。ただ、それだけだったのに」

 甘い紅茶に少しだけ頬を緩ませて、トータはそっと息をついた。

 ふと思い立ち、明日の予定を頭の中で整理しながら、本日二回目となる質問を試みる。

「ところで、ハナダ」

 呼ばれてハナダが振り返る。

 トータは、尋ねる前から彼女の返事を知っていた。




 第二幕 完

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