第二幕 彼女のほしいものーⅣ

 この上なく素晴らしい思いつきとばかりに、頬を紅潮させるマーガレット。

 反して、トータは口を引き結び、押し黙った。

 広げていた両手をゆっくりと下ろしながら、女の首で輝く首飾りを見つめ、それから改めて、マーガレットの顔へと視線を戻した。

「何度でも言おう。僕が教えたこの店のルールを、貴女は理解しているんだね? 補償もアフターケアも無いし、クレームには応じられない。例えどんな結果になろうとも、無かったことにはできないんだよ」

 マーガレットは美しく整った顔を露骨に歪ませ、小馬鹿にするようにトータを見下ろす。

「貴方、随分としつこいわね。散々脅すようなことを言っておいて、ここまで全部、上手くいっているじゃない。それとも何、チップでも弾めばいいのかしら」

「料金の加算はしない。そう予め伝えたはず」

「だったら!」

 マーガレットは無抵抗のハナダの手から乱暴に筆記具を奪い取る。小切手に荒れた字で署名し、トータの鼻先に苛立ちとともに突きつけた。生乾きのインクの匂いがトータの鼻を突く。

「つべこべ言わずに叶えなさいよ」

 トータは眉間に深い皺を刻む。マーガレットの手を払うように小切手を受け取ると、顔はマーガレットに向けたまま、後ろ手でハナダに託した。

 そのままトータは、人形のように美しい女の、いかにも人間らしい表情を睨みつけていたが、やがて眼を閉じ、長く息を吐き出す。

「貴女が真に望むのならば」

 ポケットから鍵を取り出して、トータはマーガレットから目を逸らした。見ていなくても、彼女が勝ち誇るのが手に取るように分かった。

 引き出しだらけの部屋の中央へと進み出る。四方の壁は低いようで高く、いつでもトータは、この壁が今にも頭上へ倒れ込んできそうな錯覚に囚われる。

 選び出した引き出しは、トータの顎ほどの高さにある、正方形に近い小さなものだった。

 トータはマーガレットをその前に立たせ、引き出しの鍵穴を指でなぞる。鍵を穴の前まで持っていき、一呼吸を置いて、差し込んだ。摘みを持って動かすと、チキキ、と微かな音を立てながら、鍵はゆっくりと回転する。引き出しが小刻みに震え始める。

 ギ、ギギ、ギ。

 どこからか響いてきたのは、獣の唸り声のような低く不穏な音。

 まるで中身を外界に解き放つことを渋っているかのように、もどかしいほどゆっくりと、引き出しが自動的に開いていく。

 その隙間から覗ける闇の中から、どす黒くも紅い光がじわりと滲み出した。

 光はやがて引き出しを充たし、溢れ、床を目掛けてボタボタと滴り始める。落ちた光は小さく飛沫を上げ、床をじわじわと這い滑り、ゆっくりと時間をかけて円状に広がっていく。

 まるで血の湧水だ、と、顔面を紅く照らされながらトータは思った。

 光は広がり続け、トータとハナダの足下をひたひたと浸す。打ち寄せる波のように、マーガレットの足下へ迫ってくる。逃げ場も与えずに取り囲む。

「いや――何? なんなのよ!」

 そのおぞましい光景と、ドレスを伝って上へ上へと這い登ってくる、実際には感じるはずがない光の感触の錯覚に、マーガレットは金切り声を上げた。色水に先端を浸した布きれが徐々に染め上げられていくように、彼女の体が下から順に、だんだん紅く色づいていく。 

 生温い霞のようで、しかし、マグマのように重くどろりとした光は、いくら振り払おうとしても振り払えず、もがく女の全身を覆い尽くしていく。

 トータとハナダは、その場から逃げ出そうとはしなかったものの、マーガレットを助けようともしなかった。ただ、紅い光に取り込まれる女を、無言で傍観し続ける。

 蟻の群がる蝶の死骸か。荒野で野鳥がついばむ獣の肉塊か。

 陰惨で、残酷で、だが、超自然的な光景が、ふとトータの脳裏を過ぎっていった。

 マーガレットが顔面を庇いながら床に蹲って、紅い小山のような姿になって。そこでようやく、紅い泉は湧き出すことを止めた。

 彼女の姿がトータとハナダからは完全に見えなくなった数秒後、光は不意に霧散する。紅い塗料を、霧吹きで満遍なく噴射したかのように。

 光はやがて空気中に融けて消え、引き出しは自ずと元の位置に収まった。

 静謐な一時。

 トータは徐に引き出しに歩み寄って、引き抜いた鍵をポケットに滑り込ませながら、事の推移を見守った。

 赤い光から解放されたマーガレットが、のろりと緩慢に動き出す。顔を覆っていた両手を恐々と外し、それから恐る恐る、目蓋を開く。脅威が去ったと見るや、彼女は直ぐさま、己の胸元へ視線を送った。

 途端、感嘆の声が漏れる。

「素敵……!」

 歓喜と興奮に満ちたその響きに、トータとハナダも彼女の首に注目した。一瞬、二人は息を呑む。

 マーガレットの細い首に掛かっていたのは、目もくらむほどの輝かしい光を放つ、それは見事な首飾りだった。

 金具部分は全て純金だろう。上品で繊細な意匠の鎖が幾重にも連なり、複雑な細工が一流の技で満遍なく施されている。土台の隅に象られた花の蕾など、今にも咲かんばかりの精巧さだ。

 首飾りの至るところには、トータにはカラット数の見当もつかないような巨大なダイヤが惜しげもなく散りばめられ、さらにその周囲は、微細な真珠やガーネットで華やかに飾り立てられている。

 最も驚くべきは、精緻な装飾も、無数のダイヤも真珠も引き立て役にしてしまう、トータの親指ほどもある滴型のピジョンブラッドルビーである。鮮やかで深みのある神秘的な紅い光をきらりと零し、魅惑的な輝きは、見つめた者の魂すら吸いこんでしまいかねない雰囲気を漂わせていた。

 宝石店のショウウインドウでも、これだけの品を目にすることは不可能だろう。一生のうちにたった一度でも、こんなものに手を触れることが出来るのは、ごく限られた特別な人間のうちの、さらに一握りの者だけに違いなかった。

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