第二幕 彼女のほしいものーⅠ

 机の上に置かれた白磁のカップの中では、八分目まで注がれた紅茶が微かに波打っている。

 ゆらゆらと立ち昇る湯気が掌をじっとりと湿らすのも構わず、トータはカップの上に重ねた両手を被せて蓋にしていた。

「要らないと言ったら要らない」

 彼が上目遣いに睨みつけるのは、きょとんとして立ちつくすハナダの顔。彼女は左手に小さな陶器の砂糖壺を、そして右手には、たっぷりと砂糖が盛られたティースプーンを持っている。

 体格に不釣り合いな大きさの椅子に浅く腰掛け、両袖机に肘を置き、紅茶を護るトータ。

 トータ机を挟んで相対し、カップの中に砂糖を投じようとしているらしいハナダ。

 その体勢のまま動きを止めて互いを凝視し合う二人の様子は、さながら対峙する戦士のようでもあった。

「いいの?」

 ハナダが小首を傾げて確かめる。トータは口を真一文字に結び、うんうん、と、大きく二度も首肯した。

「そう」

 意外にもあっさりと、ハナダは山盛りの砂糖ごとスプーンを下げる。

 暫くの間、トータは息を潜めてハナダの様子を伺っていたが、やがて勝ち誇ったように満足気に手を除けると、カップを口元に寄せ、紅茶の香しい香りを楽しんでから、静かに一口目を啜った。

 途端、声が漏れる。

「うっ」

 顔をしかめたトータが、思わずカップを口から離した、その瞬間。

 目にも留まらぬ速さでスプーンを操ったハナダは、一粒たりとも零すことなく、ストレートティーの中に一杯半分の砂糖をぶち込んだ。

 続けざまにスプーンをカップに突っ込むと、無表情のまま紅茶をぐるぐるとかき混ぜ、滴を切ってスプーンを取り出す。

 トータが事態を把握した時にはすでに、ハナダはお盆に砂糖壺とスプーンを乗せて、長い三つ編みを揺らしながらすたすたと歩き去っていた。

 口を半開きにして彼女の背中を見送ったトータは、まだ渦を巻いているカップの中を睨みつけ、しかしすぐに観念し、再びカップに口を付けた。絶妙な甘さの紅茶は、ほう、と、トータの顔を綻ばせ、そして一瞬を置いて、悔しげに歪ませるのだった。

 昼下がりの事務所である。窓の外には、薄く雲がかかる白く狭い空と、色の霞んだいつもの街並みが小さく覗けるばかりである。ぬるい風の中を行く人も少なく、気だるいような空気が街を満たしていた。

 トータは机上に頬杖をつくと、空いた手でカップの取手を摘んで顔に近づけ、カップ側面に描かれた花の絵を漫然と眺めた。

 そして、誰にともなく呟き始める。

「一体誰が言い出したんだ、『甘いものが好きなのは子どもだ』なんて。子どもが苦味を回避しようとするのは、苦みや渋みが毒素を連想させることによる防衛反応だ。つまり苦みを受け入れようとしない傾向は、自己防衛機能を発達させているという点で評価してしかるべきだし、むしろ大人びていると考えるべきじゃないか」

 カップを、正確には甘い紅茶が入ったカップを見つめたまま、トータはひとしきり喋ってからぴたりと口を噤む。

 ハナダはその間、特に反応を示すことなく、玄関前のソファに腰掛けて無糖の紅茶でのんびりと喉を潤していたが、たっぷりと時間を置いてから、やはりのんびりと呟く。

「けれど大人は経験的に、苦くても毒ではない食物を知っているでしょう? その上で、苦いものや渋いものでも『美味しい』と感じるのだと思うけれど」

 トータの視線が、ゆっくりとハナダへ動く。そしてカップへと戻される。

 分が悪いようである。トータはこれ以上の減らず口は重ねないことにしたようだった。

 紅茶の残りを飲み干してカップを机に置くと、気持ちを切り替えたのか、表情をすっきりと改めてから話を切り出す。

「ところで、ハナダ。午後に何か予定はあるかい」

 ハナダは立ち上がって、二つのカップを手際よく片付けながら首を横に振る。

「いいえ、特には」

「それなら、買い物にでも行こう。先日の依頼で収入も入ったし、何か欲しいものは?」

 トータの問いに、ハナダは口元に手をやり、少しだけ考える。

「そろそろ小麦粉が切れそう」

「そういう消耗品ではなくて。例えば服とか、靴とか髪飾りとか」

 机に座ったまま見上げてくる少年の幼い顔を暫く見つめ、ハナダは先より少しだけ長く考えてから、もう一度答える。

「特には」

 無い、ということらしい。

 期待外れのようで予想通りのような、なんとも言い難い曖昧な苦笑を浮かべ、トータが口を開こうとしたのと、時を同じくして。

 事務所の玄関扉が、乱暴に開け放たれた。

 バン、という乾いた音の大きさに、トータとハナダは目を丸くして、揃って顔を玄関へと向ける。

 全開にされた扉の前に立っていたのは、大きな日傘を手にした若い女だった。赤と白の派手なドレスが、簡素な事務所の中では浮くほどに目立っている。

 つんと取り澄ました女は、値踏みするような目つきでトータたちや店内を一瞥すると、甲高い声で尋ねる。

「欲しいものが手に入る店というのは、こちら?」

 扉を開け放ったまま、つかつかと店の中に入ってくる女。ハナダが恭しく歩み寄ると、女は過剰なほどのフリルがついた日傘を投げるように押しつけた。

 ハナダは気にしていない様子だったが、トータはぴくりと眉を吊り上げると、椅子に背を預けて腕を組み、撥ねつけるように返事を寄越す。

「貴女がこの事務所を尋ねて来た理由は、その不躾な態度からでも察するに余りあるけれど。遺憾ながら貴女の認識は正確ではないね。ここは、客が欲しがっているものを売る店ではないから」

 女もまた片眉を吊り上げ、トータの正面、両袖机の前まで一気に突き進んだ。

 金の巻き毛に、茶褐色の眼。鼻筋が通り、美人の部類に入るだろう。赤いビジティング・ドレスは値が張りそうな品なのに、飾り立てられ過ぎて逆に安っぽく見える。背丈はハナダよりやや高い程度だが、高いヒールと胸を張った姿勢の所為か、トータの視点では、随分と上から見下ろされているような印象を受けた。

「御託はいいわ。願いを叶えられるのか、叶えられないのか。重要なのはそれだけよ」

「イエスでもあるし、ノウでもある。貴女次第だ」

「私次第ならば、問題なんてあるはずないわ。つまり願いは叶うのね」

 強引で傲慢な口調に、トータは顔を露骨に引きつらせる。

 それでも一通りの挨拶は済ませようと、トータが軽く椅子を引いたところで。

「分かったのなら、ここの所長に案内なさい、坊や」

 そう付け足された瞬間、トータの女に対する悪印象は決定的なものとなった。

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