第一幕 貴方の願いが何であろうともーⅪ

 わずかな一瞬、アルフの瞳に天井が映り込む。

 綺麗に半回転したアルフは、固く冷たい床に背中から叩き付けられる。衝撃に呻きを上げ、そこでようやく、自分がハナダに投げ飛ばされたことを理解した。

「ぐうっ……?」

 全身に走る鈍い痛みに悶えつつ、アルフはどうにか上体を起こそうと試みる。しかし、それは達せられなかった。目に飛び込んできた光景に阻まれて。

 床に仰向けに倒れるアルフの眉間に、杖の先端をぴたりと突きつけながら、ハナダは表情も無く静かに告げる。

「暴力は駄目ですよ」

 怒ってはいないようだった。嫌味でも皮肉でもなさそうだった。ハナダは、ただ、アルフの行いを、常識的に嗜めていた。

 彼女の背後からひょいと顔を覗かせて、悠々と言葉を紡ぐのはトータである。

「下手に抵抗しない方がいい。ハナダはこの店の秘書兼用心棒だ。只人が敵うような相手じゃない。それに、しつけにはちょっと厳しいんだ」

 トータの冗談とも本気ともつかない発言にも何ら反応を示すことなく、ハナダは杖をアルフの眉間から退けると、上下を返し、アルフに向けて杖の持ち手を恭しく差し出した。

 そうして一歩下がったハナダの横に、悠然とトータが並び立った。二人の声が綺麗に揃う。

「お引き取りを」

 幼い容貌の二人に見下ろされ、アルフはわなわなと唇を震わせたが、もはや言い返す気力も、まして、再び掴みかかる気力も残されてはいない。

 肘で床を這い、尻を引きずって後退すると、トータとハナダから目を離せないまま、アルフはよろよろと立ち上がる。荒っぽく踵を廻らすと、地上へと向かう階段を一目散に駆け上がった。




 足音は忽ち遠ざかり、やがて、店の扉をバタンと閉める乱暴な音が遠く聞こえた。

 地下に残されたトータとハナダは、横に並んだまま、アルフが消えていった先を眺める。

「杖」

 ぽつりと零し、受け取って貰えなかったアルフの私物を両手に持ち替えながら、ハナダが微かに困惑する。トータは前髪の上からぽりぽりと額を掻いた。

「あの調子じゃ、コートと帽子も忘れていそうだね。どちらも良い品だったな」

「トータには大きいと思うけれど」

「僕が着るだなんて言ってないだろう。いくら高価なものでも、きっともう、彼が取りに来ることは無いだろうなと思っただけだよ」

 先までの騒ぎなど無かったかのように、二人はのんびりと会話をしながら開けっ放しの引き出しを収納し、杖とランタンを持って階段を上がっていく。

 事務所に戻ってみれば、やはりアルフの姿はすでに無く、部屋の片隅には彼のコートと帽子が寂しく取り残されていた。

 本棚を動かして元通りに階段を隠しながら、ハナダが微かに眉尻を下げて言うことには。

「すっかり遅くなっちゃったわ。歯を磨いたらすぐベッドに入ってね、トータ」

「だからハナダ、僕は――」

 トータは露骨に顔をしかめ、抗議の声を上げかけたが、地下への階段が本棚の下に消えていく様子を眺めるうちに気が変わったのか、その言葉を呑み込み、代わりに。

「分かったよ、もう寝ることにする。人の忠告は、素直に聞いた方がよさそうだから」

 皮肉めいた笑みを浮かべて、トータは肩をすくめた。




 雨はまだ、アルフが立ち去った街角に音も無く降り続けている。

 窓から漏れる橙色の光が消え、店の外観は辺りの闇へと溶け込んでいく。




 願いは叶う。何であろうとも。

 大切なものを引き替えにする、その覚悟があるのなら。

「けれど人は、己の都合がいいように、その覚悟を取り違えてしまう」

 自室のベッドに潜り込んで天井を見上げながら、トータは小さく独言した。

「莫迦だね……なんて愚かしいんだろう」

 右手を高く上げて、闇の中にぼんやりと浮かび見える小さな手を眺める。

 消え入りそうな幼い声には、どこか、自嘲めいた響きがあった。




 第一幕 完

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る