第一幕 貴方の願いが何であろうともーⅨ

 なんだ、これは。

 アルフは頭の中で叫んだ。悪寒が止まらない。全身から冷や汗が吹き出す。この店を訪れるため、人気のない路地裏を足早に歩いていた時の、何十、何百倍もの恐怖が、アルフを押し潰さんばかりに圧し掛かってくる。こんな場所に居てはならないと、今すぐ逃げろと、アルフの全身の細胞が警告を発しているかのようだ。その場から離れようとアルフが足を動かしかけた、まさにその時。

 壁から弾き出されるように、鍵が刺さったままの引き出しが勢いよく開いた。

 途端、紫色の光が一気に溢れ出す。

 そして同時に。


 引き出しの中から、人の腕が飛び出した。


「ひっ……!」

 アルフの喉から掠れた悲鳴が上がる。

 それは、おぞましいほどに白く、乾いて皺だらけの老いた腕だった。死人のもののようだった。

 一切の生気が感じられないにも関わらず、腕は蛇のような敏捷な動きで引き出しの外へ踊り出ると、アルフへ狙いを定めて一直線に伸びてくる。何かを求めるように開かれた掌が、逃げそびれたアルフの胸にずぶりと突き刺さった。

 アルフは目を見開き、息を詰まらせる。胸を鈍器で殴られたような衝撃に、たまらずその場で崩れ落ち、床にがくりと膝をついた。

 アルフの胸に突き刺さったまま、腕はしばらく動きを止めていたが、やがて、するりとアルフの体から抜け出ると、あたかも巻き取られるように引き出しの中へと戻っていく。

 最後に一瞬だけ見えたその掌は、紅く光る何かを固く握りしめていた。

 ギギギ、と、脳の奥まで震わせるような音を立てて、引き出しはゆっくりと、ひとりでに閉まっていく。紫色の光も、揺れも、徐々に薄れていき、やがて失われた。

 まるで何事もなかったかのような静けさが、地下室の中に訪れる。

 たっぷり五秒ほど置いてから、いつの間にか退避していたトータが前に進み出て、鍵穴から鍵をそっと引き抜く。床に膝をついたまま脂汗を流すアルフを、トータは無言で見下ろしていた。

 目を白黒とさせながら、アルフは恐る恐る、己の胸に両手を当て、撫でさすった。出血は無い。傷も無い。服に穴すら開いていない。痛みはすでに、嘘のように消えていた。

「今の、は?」

 喘ぎ喘ぎ、アルフはようやくそれだけ口に出した。バクン、バクンと、全力疾走した直後のような激しい鼓動が、いつまで経っても収まらない。先ほどの光景を思い出すだけで、奥歯が噛み合わずにガチガチと鳴った。

「交換する際にここで何が起こるのかは、僕にも予想はできない。客が怪我をした例は無いから問題は無いさ。けれど、今回はまた、随分と派手だったね」

 鍵をポケットに忍ばせながら、トータはなんでもないように言った。

 衝撃のあまり呆然としていたアルフは、しかし、ハナダに手を差し伸べられて我に返った。少女を無視して自力で立ち上がり、思わず声を荒らげる。

「奴は? ディビットは死んだのか、どうなんだ!」

 トータの返事を待たずに引き出しに飛びつき、先の恐怖も忘れて勢いよく開けた。血走った目で中を覗き込む。しかし。

「――空だ」

 アルフは落胆を克明に、顔に声色に滲ませる。

 引き出しの中には、人間の心臓や、それに代わりそうなものはおろか、塵や埃の一つすら見つけることはできなかった。

 空の引き出しを最後まで抜き出し、その底を、隅を、果ては壁の穴の奥まで執拗に確認してから、アルフは引き出しを乱暴に投げ捨てる。引き出しはゴトンと重低音を響かせながら、床で一度だけ小さく跳ねた。

「答えろ。私が奪った奴の命はどこに行った? お前は知っているんだろう、隠し立てをすると許さんぞ!」

 肩を怒らせ、荒く息をしながら、アルフはトータに詰め寄った。

 自分より頭二つ分以上も小さいトータの胸座をぐいと掴み、ついには持ち上げて、アルフはトータの顔面に唾を飛ばして尋問する。これまで幾度となく、家族や部下や取引相手を畏怖させてきた怒声と形相で。

 だが、トータはその剣幕に怯えもしない。アルフの腕を両手で掴み、大した抵抗もせず、宙に足を浮かせたまま。

 彼は唐突に、笑い始めた。

「ふふ……はは、あはははは……!」

 始めは忍んで。やがては、あからさまに。

 吊り上げられた情けない姿勢のまま、トータは声も高らかに笑い続ける。

「何が可笑しい!」

 気味の悪さと怒りが混ざり合い、アルフは上ずった声で再び怒鳴りつけた。それでも、この小さな子どもが臆する気配は微塵も見られない。

 ようやく笑いを収めたトータは、すっと目を細めてアルフを真っ向から見据えた。

「莫迦だね。なんて愚かしいんだろう。僕は何度も確認した。念も押した。だけど貴方は熟考しようともしなかったんだ。アルフ=ジョーンズ、これは貴方の落ち度だよ」

 アルフを見つめる、薄く笑ったトータの瞳は、刺すような冷たさだった。

 そして彼は続ける。

「貴方はディビット=スミスから命を奪った。その代わり、貴方は彼から命を奪われたのさ」

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