第一幕 貴方の願いが何であろうともーⅧ
暗い地下室に、アルフの声が反響する。
トータには驚きも戸惑う様子も無い。ただ、緑色の瞳の奥に、微かに嫌悪の光が宿った。
「暗殺依頼ということだね」
「なんとでも言え。説教ならば聞かん」
「止めやしないさ」
トータは壁により掛かり、腕を組んで斜め上方に視線を送ったかと思うと、すぐにアルフへと戻す。
「アルフ=ジョーンズにディビット=スミス。よくある名だから一方だけでは気が付かないけれど、成程、双方の名が重なればぴんとくる。共に大手機械部品会社の社長だ。ジョーンズ社は最近、スミス社に押されて業績が不調のようだね。貴方が命を奪いたいと切に願うスミス氏は、憎き商売敵というわけか」
「世間知らずのお坊ちゃんかと思っていたが、なかなか事情通だな。その通りだよ。スミス社は社長の辣腕ぶりで有名だが、跡継ぎの息子はいないし、目立って優秀な部下もいない。忌々しいあの男さえいなくなれば、我が社は安泰、いや、より一層の繁栄を遂げるに違いない」
トータは目を据えたまま、じっとアルフの話を聞いていた。その顔は冷めたさを帯びて、無表情ですらあったが、彼がこの依頼をどう評価するかなど、アルフが気にするところでは無い。
それとは別に、ふと思い浮かんだ気掛かりに冷静さを取り戻し、アルフは尋ねる。
「私は先程、奴の名前を呼んだわけだが。同姓同名の別人を殺してしまわんだろうな?」
「それは無い。先の葉巻の銘柄で分かると思うけれど、交換は客の心の中の希望に添って行われる。貴方が殺したいのが特定の個人たるスミス氏ならば、それ以外の人物から命を奪うことは無いよ。それよりも」
トータは腕を組んだまま壁から背中を離し、睨み上げるようにアルフに向き直る。
「忘れていないだろうね。願いはあくまで交換だ。貴方がディビット氏から何かを奪えば、貴方もディビット氏から何かを奪われる。しかも交換相手を指名しているから、交換が平等に行われる保証は無い」
トータの念押しに、アルフはフン、と激しく鼻を鳴らした。
「奴が欲しがるものなど、聞かなくとも分かるさ。資産だよ。金、金、金だ! あいつが死んでくれさえすれば、そんなものはいくらでも取り戻せる。どうせ死人に金は使えん。葬儀代と思ってくれてやるさ」
嘲笑混じりのアルフの言葉にトータが口を開きかけたが、しかし思い直したように、すぐに閉じた。
少し間を置いてから、トータは重ねて確認する。
「願いに変更は無いんだね」
アルフは強く大きく頷いた。口髭の下に、堪えきれない笑みがにまりと浮かぶ。
「無い。やってくれ」
その言葉を聞き届けてから、トータはハナダへと視線を送る。ハナダは小さく頷くと、アルフの前へ如才無く進み出て、一枚の紙切れを差し出した。
紙面に記された「請求書」の一単語を見て、ああ、と、アルフは合点する。依頼料は前払いという話だった。
提示された金額は、どんな願いでも叶えられる代償にしては随分と安い。一般市民でも無理なく払えるだろうと、アルフには感じられた。
ハナダから請求書を受け取ることもなく、アルフは懐から小切手帳を取り出すと、提示された額面通りに記す。手早く署名を済ませて破り取り、トータの眼前に突きつけた。
トータは小切手を恭しく受け取り、それをそのままハナダに託す。
「確かに」
一言告げたトータは、再び、ポケットから鍵を取り出した。
アルフを少し下がらせ、地下室の中央に立った彼は、部屋全体を視野に入れて、睨むように引き出しを見渡していく。
トータには、膨大な数の引き出しのうち、どれを開けるべきかが分かる。少なくともアルフはそう推測したし、不思議と、それはトータにしかできないことのように思われた。
数秒も経たないうちに、トータは目当ての引き出しを見つけたようだった。
彼が視線を注ぐのは、向かって左寄り。トータの胸ほどの高さにある、先ほど葉巻が入っていたものよりもやや大きい引き出しである。
トータはその前に歩み寄ると、引き出しの表面をそっと撫でた。アルフを手招きし、引き出しの前に立たせる。今度は、中身の確認は求めなかった。
「いいんだね」
トータがまたも確認する。その執拗さに苛立ち、アルフはきっぱりと答えた。
「くどい!」
怒号を合図に、トータは鍵を鍵穴に挿入し、回した。鍵の歯が金属を擦る音。アルフはゴクリと唾を飲み込んだ。
カチリ
歯車が噛み合う音。
いや。
運命が動き出す音が、した。
数瞬遅れて、引き出しが、壁が、店全体が騒ぎ始める。ガタガタ、ガタガタと、この場一帯が痙攣しているかのような激しい震えが床まで伝わり、まるで地震のようだ。
葉巻の時とはまるで違う。辺りを満たす空気が狂気じみている。
先のように引き出しから灰色の光が吹き出すことは無い。その代わりに、煙のようにゆらめく、曖昧で頼りない光が、引き出しと壁の隙間から滲み出し始めた。ふらふらと揺れて、藻掻くようにのたうち踊る、禍々しい、紫色の不気味な光だった。
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