第一幕 貴方の願いが何であろうともーⅥ
トータは頷いた。
アルフに背を向け、徐に地下室の中央に進み出る。壁をぐるりと見渡すこと数秒。不意に、彼は一点を見据えて歩き出した。アルフから見て正面、やや右寄りの壁の前で足を止めたかと思うと、トータは己の肩ほどの高さにあるものの表面を右手で軽く撫でる。
幅が彼の掌ほどしかない、小さな引き出し。
トータはその鍵穴に指先を引っかけると、軽い音をさせながら引き出しを前へ引っ張り出した。やはり、鍵はかかっていないようだ。
「何が入っているかな?」
アルフに振り返ってトータが尋ねた。嫌々、アルフはその背後に寄って、トータが指差す引き出しの中身を覗き込んだ。
空である。
「何も入っていないようだが」
「その通り」
拍子抜けすると同時に困惑してアルフが答えるが、トータはどこか満足げに首肯し、片手で引き出しの表面を押して壁の中に収納した。アルフにその場から少し下がるよう指示すると、トータは同じ引き出しの前に立ったまま細く息を吐く。
そして彼は、スラックスのポケットから、金の鎖に繋がれた一本の鍵を取り出した。
円筒状の軸と平たい歯。褪せた金色の、アンティーク調の古びたウォード錠である。装飾の少ない持ち手を親指と人差し指で摘み、トータは鍵を引き出しの鍵穴に差し込むと、ゆっくり右回りに回転させる。
カチリ、と小さな金属音がした。
その瞬間、噴き出したのは灰色の煙のような光。
「うわ!」
アルフは思わず悲鳴を上げて飛びすさった。光は引き出しと壁の境目から間欠泉のように勢いよく噴出して、アルフの顔に体に降りかかる。痛みも、熱さや冷たさも、何の感触すらも無かったが、光はアルフやトータの体の表面を滑り、弾かれては、さらさらと中空に掻き消えていく。
カタカタ、カタカタと、引き出しは激しく音を立てて震えていたが、光が消えていくのと合わせて震えも収まっていった。
訪れる静寂。アルフの脈は、まだドクドクと高なったままだ。
トータは落ち着き払ってそのまましばらく動きを止めていたが、やがてそっと鍵を引き抜きポケットにしまうと、頃合いかと言わんばかりにアルフへ微笑を向ける。
「どうぞ。開けてみては?」
流れるような所作で場所を譲り、引き出しを示すトータに、アルフは口元を引きつらせた。
観念して壁の前へと進み出はしたものの、嘘のように大人しくなった引き出しが、手を出した瞬間に噛みついてきそうで気味が悪い。
おっかなびっくり、引き出しを指先で軽く突いてみる。熱くはない。引き出しが再び震え出す気配も無い。アルフは腹を括ると、鍵穴上部に指先を掛け、手前へと一気に引っ張り出した。
その勢いで、中にある何かが僅かに動く小さな感触。
思わず身を強張らせ、及び腰になって覗き込んでみると、小さな引き出しの底には、アルフが愛用する銘柄の葉巻が一本、裸の状態で転がっていた。
「それは、もう貴方のものだよ。記念に取っておくなり、一服するなり、どうぞご自由に。火と灰皿をお持ちならばね」
目を丸くしているアルフの横顔を眺めながらトータが言う。アルフは葉巻を指先で慎重に摘んで引き出しから取り出すと、鼻先に寄せて嗅ぎ、目に近づけて矯めつ眇めつしてから、怪訝に表情を曇らせた。
「確かに葉巻は手に入った。だが、交換とやらはどうしたのかね。私は何も渡していないが」
「いや、渡しているよ」
澄ました顔で断言するトータ。アルフの胸に人差し指を向け、小首を傾げる。
「胸ポケット、かな」
反射的に、アルフは背広の上から左胸を押さえた。その手をじりじりと移動させ、手品でも見せられている気分で懐をまさぐる。
「うん?」
財布はある。中身の有無を確かめようとそれを取り出す前に、気が付いた。
「万年筆が無い、でしょう?」
まさにその言葉をアルフが口に出そうとした瞬間、トータがずばりと言い当てた。
アルフが常に胸に忍ばせている万年筆。上等なものではない。それが、いつの間にか胸ポケットから忽然と消え失せている。感動よりも不気味さが勝った。
「貴方にその葉巻を譲ってくれた誰かは、ちょうど今、筆記具が欲しいと思っていた。だから、貴方は葉巻と引き替えに万年筆を譲ったのさ。願いは釣り合った。店はそう判断した。引き出しは、貴方とその誰かと繋がった。勿論、相手は交換したという意識はない。ふと気が付いたら目の前に万年筆が転がっていて、代わりにケースから葉巻が一本消えただけ」
トータの焦れったい説明に、アルフは眉を顰めた。知らぬ間に引き出しの中に葉巻が現れ、知らぬ間に万年筆が消えたという事実は、仕掛けがあるという可能性も頭の中に残しつつ、ひとまず受容して話を進めることにする。
「君は知っていたのだな? 私が誰から葉巻を譲って貰うのか、代わりに何を差し出すのか。つまり私も、君から教えてもらいさえすれば、実際に交換を行う前に、手放すものや相手を知ることができるということだ。まさか、それを知るために追加料金が要るなどという、阿漕な話ではないだろうな」
万年筆が奪われることを予め教えてくれればと、アルフは暗に非難する。無くなって困るようなものが失われると事前に分かるのであれば、他の相手を探すことも、交換そのものを断念することもできるはずだ。
だが、トータは首を横に振って、アルフの言葉を否定する。
「『知っていた』わけではないよ。今、『知った』のさ。交換を行うまでは、僕にも交換相手と交換する品は知り得ない。けれど僕だけは、交換が行われたその瞬間、交換相手と交換された品が何であったかを自動的に知る特権がある。頭の中にひとりでに流れ込んでくる、記憶のような情報によってね。そして、この鍵を使って引き出しを誰かと繋げることができるのは、世界中でこの僕一人だけだ」
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