第一幕 貴方の願いが何であろうともーⅢ
ぞくりと、アルフの背中を駆け上がる寒気。
傍らに立てかけた杖が倒れるのも構わず、尻に火でもついたかのように席を立った。
「必ず叶うのかね、本当にどんな願いでも? そもそもどうやって願いを叶えるんだ。報酬はいくら払えば良い、金ならいくらでも出すぞ!」
上体を乗り出し、掴みかからんばかりのアルフの勢いにも、トータは慌てることなく落ち着いたものだ。立ったままカップを持ち上げ、紅茶を一口、ゆっくりと味わうと、ふー、と満足げに息を吐いた。
そして一気に答える。
「願いは必ず叶うけれど、それが本当に当人の願い通りかは保証しない。どんな願いでも、というのは正確ではない。けれど、条件に願いを整合させれば、実際の願いに限りなく近づけることは可能だ。つまり願いは限定される。報酬は一括前払い。金額は願いの様相により選択可能な二通りで、割増も値引きもしない。一度叶えた願いを無かったことにはできない。返金にも応じない。よって本当に願いを叶えるかどうかは、説明を聞いてから決定してもらって構わない。以上の事項に合意するならば、これから具体的な説明をさせて頂こう」
そこでぴたりと言葉を止めると、目を白黒させるアルフの前で、トータはまた美味しそうに紅茶を啜り始める。
機関銃のよう、とは、このような喋りを指すのだろう。アルフがトータの説明を反芻し、内容を呑みこむまでには、かなりの時間を必要とした。
「私の願いが理想通りに叶えられるかどうかは分からない。叶えた後は、その結果に不満があっても文句は言えん。そういうことかね」
「要約すれば」
あっけらかんと、トータは悪びれた様子も無い。
会話の主導権は、今や完全にトータが握っていた。相手は子どもと舐めてかかっていると、知らず知らずのうちに言いくるめられて、不利な契約を結ばされることになりかねない。アルフは気を引き締め、頭の中で再度咀嚼する。署名をするでもなし、話を聞くだけであれば問題は無いだろう。
「説明を頼む」
強張った声でアルフは告げる。トータは「そうこなくては」とばかりに小さく頷いてみせると、空になったカップを置いてソファから離れた。
「場所を変えても?」
「構わないが」
訝しく思いながらアルフが後に続こうとすると、トータは掌を向けて静止を求める。
「暫く、そのままで」
アルフが足を止めたことを確認すると、トータは部屋の奥にある両袖机の脇まで移動し、壁際の上方に向けて右腕を伸ばす。彼の小さな手が何かを掴もうとして、そのままついと空を切った。
「……」
憤然たる面持ちになるトータ。爪先立ちになり、壁についた左手で体を支えながら、なおも右手を必死に伸ばすが、指先が何かに届いた様子は無い。
アルフが首を捻りながら目を凝らせば、トータの指が伸ばされる先、天井に開けられた小さな穴から、太い房紐が下がっている。色は壁や天井に似せてあり、ふと見ただけでは目に付かない地味なものだ。
どうやらトータは、天井から下がるその紐を、掴むなり引くなりしたいようだ。だが如何せん、背丈が全く足りていない。ついにはその場で垂直跳びを試み始めたが、それでもその小さな手は、紐の先端に掠るかどうかというところである。
四度目の跳躍でもあえなく失敗し、トータが五度目の挑戦をしようとしたところで、横から伸びてきた別の白い手があっさりとその紐を掴んだ。
カップとポットを手早く片付けてきたようだ。白い手の主であるハナダは、トータの必死の努力を斟酌することも無く、掴んだ紐をそのまま引いた。
伸ばしたままの手のやり場もなく、硬直したままむくれるトータ。
「ハナダ」
「なあに?」
「……何でもない」
二人の簡潔な会話を掻き消すように、突如、アルフの左横からガタンと物音がした。近所に聞こえるのではと気を揉むほどの大きさではなかったが、空耳か何かだろうと気に留めずにいられるほどの小ささでもなかった。
アルフは反射的に左を見、そしてぎょっとする。東の壁を埋め尽くす黒塗りの書棚の、右端三列ほどが、ひとりでにゆっくりと動き始めていたのである。
書棚はほとんど音も立てずに、凹むように壁の奥へと引っ込んでいく。それがぴたりと止まったかと思うと、続けてその左にある三列が、今度は先ほど奥に引っ込んだ棚があった場所へと移動し始めた。
「これは」
アルフは驚嘆の声を上げる。
横へ動いた棚が元々あった場所の下には、ぽっかりと四角い穴が空いており、石造りの下り階段が覗き見えていた。
地下室があるのだ。
棚が完全に動きを止めるのを待って、トータが階段の入り口へ足を踏み入れた。ハナダから小さなランタンを受け取って片手に提げ持ち、彼はアルフへ顔を向ける。
「どうぞ、こちらへ」
短く告げると、トータの体は床の下へと消えていった。
アルフは慌てて書棚へと駆け寄る。階段の入り口の大きさは、大人一人がやっと通れる程度で、階段の傾斜はかなり急である。暗い地下からは、トータが手にしたランタンから漏れる頼りない明かりと、冷たく湿った空気が這い上がってきて、アルフに前進を躊躇わせた。
ごくりと生唾を呑み込んで、まさに第一歩を踏みだそうとした、その時。
「怖くないですよ。お化けは出ませんから、どうぞご安心ください」
背後に立っていたハナダが優しく声を掛け、アルフに杖を手渡した。口調こそ丁寧だが、扱いはトータ、というか、そこらの子どもと全く変らない。
アルフは曖昧な笑みで応じると、彼女に背を向けてから小さくため息をつく。気を取り直すと、足下を杖で慎重に叩いて確かめながら、そろそろと階段を下り始めた。
ハナダがその後に続き、事務所は無人となる。
窓の外ではまた、弱い雨が降り始めていた。
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