第一章 日常に潜む闇の彩

1-1

 ここ数日の間、シアーズ家の一日はリヴァーの小言から始まる。

 今日も朝から朱里が走りたいと言ったが最後。こんこんと説教されて今に至る。


「何度も言いますが、身体を酷使するのはやめなさい」

 リビングのソファーに朱里を座らせたまま、リヴァーは前に立ちはだかるように腕を組んだ。

「あなたの身体は、丈夫ではないのだから」


 じろりと緑色の瞳が見おろしてくるので、朱里はついつい頬をふくらませてしまう。

 朱里としては、これまでずっと朝の日課だったランニングが出来なくなって、もう五日なのだ。

 しかもほとんど運動をさせてもらえない。大人しく部屋で過ごせと言われても、そろそろ我慢の限界だった。


「そうやって、何もさせないから、余計に身体が弱くなるんじゃないの?」

 本気でこの身体を心配しているのはわかる。でも、朱里はそれが過剰な気がして仕方なかった。

 彼にはバレないように走ったことがあるのだが、胸が苦しくなったり気分が悪くなったりすることもなく、とくに身体に異変は起きなかったのだから。


「……シュリー。それで、無理をして倒れでもしたらどうします?」

 ちらりと周囲の視線を確認しつつ、リヴァーはなだめるように朱里の肩をたたく。

 

 ユディファルも含めていろいろと話し合った結果、アシュリーのが憑依者だというのは、周囲の人間たちには伏せることになっていた。

 国の上層部では知られているこの現象も、民間にはまだ公表されていないということと、妹に変な烙印を押されては困るという、リヴァーの強い意見があったからだ。


 それでも「アシュリー」と呼ぶのも呼ばれるのも、やっぱり互いに抵抗があり、結局は朱里しゅりの名前をシュリーと呼ぶことで合意していた。

 しかし、名前が似ていて良かったと安堵しあったのも束の間。アシュリーと朱里の性格が違いすぎた。


「そんなに身体が弱いようには思えないんだけど」

 つんっと顔を背けて、朱里はリヴァーの視線から逃げる。心から気遣っているその緑の眼差しを見てしまえば、けっきょくは絆されてしまうから。


「そう思えるくらい体調を崩してからでは、遅いんです」

「…………」

 小説を読んでいるときは素敵だなあと思っていた妹への気遣いが、実際に四六時中心配される側になってみると、はっきり言って煩わしい。

 朱里は大きなため息をついた。


「リヴァーもシュリーも、よく飽きないな」

 ふと、扉の方から呆れたような声が聞こえてきて、朱里は思わず顔を輝かせた。

「ディアス!」

 取り次ぎもなしに勝手にリビングに入ってきた赤毛の青年の姿は、この説教地獄から朱里を救い出してくれるはずの存在だ。

 リヴァーが仕事に行っている間のとして、代わりにディアスがつく。ということは、もうリヴァーは出掛ける時間だということなのだから。


「来るたび、おんなじことやってるんだもんな」

 この家を訪れるたびに、同じような言い合いを繰り返している二人の様子が可笑しくて、ディアスはにやにや笑う。

「ケリーも困ってたぞ」

 じっと細められた鋭い緑の眼差しも気にせずに、すたすたとディアスは二人の方へと近づいて来る。


 ケリーというのは、このシアーズの家政を取り仕切る家宰の名前だった。

 シアーズ家は貴族ではないが、代々ふたつの港町と大きな船団を抱える有力領主家のひとつであり、数百年も先祖を遡れば海賊らしいという噂もあるが、真偽のほどは分からない。


 現当主のリヴァーは家を継いでからも、熟練したケリーを信任して多くのことを任せており、いわば右腕とも呼べる人物だった。

 それでもアシュリーが朱里であることは言っていない為、近ごろ兄妹喧嘩が増えたと心配しているらしい。


「……ケリーには、私からうまく誤魔化しておきます。それにしても、もうこんな時間なんですね」

 ゆうゆうと隣に立ったディアスに、軽く舌を打つ。もう少し朱里には自分の身体のことを理解させたかったが仕方がない。


「私はもう出かけますが、ディアス。あなたはです。けっして友達ではないということを忘れずに、甘やかしすぎるのは止めなさい」

 じろりとディアスの空色の瞳を見据えて、リヴァーは小声でそう囁く。

 初めて朱里と対した際は怒りに任せて接していたこの青年が、今では旧知であるように気軽に話しているのが腹立たしい。

 ディアスがちょっとした朱里のわがままにも笑って付き合っていることを、リヴァーは知っていた。


「へいへい。以前まえにも増して過保護になってんな、リヴァーは」

「……目を離すと、何をするか分からないので」

 リヴァーは不本意そうに頭を振り、ディアスはがしがしと短い赤毛を掻きながら楽しそうに笑った。


「今日は夕方から外せない商談があるので、夜まで戻れないと思います。使用人たちにも伝えてありますが、十分に気をつけてください」

 盛大に溜め息をつきながら、リヴァーは言い含めるように朱里の肩に手を置く。なにかをやらかして、周囲に別人だということがばれては大変だった。


「はーい。お気をつけて行ってらっしゃいませ、

 迎えのためケリーが部屋に入って来たのを見て、朱里はにっこり笑ってみせる。

 普段は良いと言われたので「リヴァー」と呼び捨てるようになっていたが、もちろん人前では兄と呼ぶようにしていた。

 それより何よりも、とにかく説教から解放されるのが朱里は嬉しかった。


「あー、今日は長かったぁ」

 ケリーに促されるように馬車に乗って去っていくリヴァーを見送りながら、朱里は大きく伸び上がるように腕を上げた。

「ほんと、リヴァーが居なくなると、すっきりした顔をするんだな、おまえ」

 可笑しそうな声とともに、明るい空色の瞳がぐっと近づいて、朱里の顔をまじまじと見やる。


「うーん。やっぱり、ちょっとリヴァーは過保護すぎるのよ」

 朱里は苦笑するように頭を振った。


 出逢った初めの印象は最悪だったディアスだが、頭を冷やすと出て行ったあとからは、気軽に接することが出来るようになったと思う。

 妹同様に過保護に接してくるリヴァーとは違い、ディアスはちゃんと朱里として扱ってくれるようになったせいもある。


「まあ、アシュリーもよく言ってたけどな。過保護すぎるって」

 ぽんぽんと朱里のはちみつ色の頭を叩きながら、ディアスは笑った。

 朱里が憑依する前も、ディアスはよくリヴァーが居ないときに、アシュリーの護衛がわりに呼ばれて来ていたことを思い出す。

 だからこそ、今もこうしてリヴァーと入れ違いで来ることを、誰も不思議に思わないのが幸いだった。

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