序ー5
この「水底のレイラ」という世界にも、朱里の生まれた場所と同じくおよそ
それとは別に、五十年ごとに満ちると言われる『琥珀の月』があった。
その軌道は通常の月とは違うため常に見えるわけではなく、多くの年は遠すぎてその姿を見ることはない。
それが満ちていくにつれ大きく近づいてくる様は圧巻で、最もまるく近づいたそれが美しい琥珀色に染まって見えることから『琥珀の月』と名がついた。
ここでは『月』と呼ばれているが、実際には周期彗星のように一定期間で巡る小惑星に近いのではないかと、朱里は初めて読んだときにそう思ったものだ。
「琥珀の月? それも知っているということは、本当に異邦人ではないのですね」
ゆっくりと向かいの席に着いたリヴァーは、ふと小さく笑った。
自分たちの名前だけでなく、そんなことも知っているならば疑う余地はない。おかげで妹の身柄を拘束されずに済んだことは、本当に良かったと思う。
「あと半年ほどで満ちるはずですが、それが何か?」
「あ、いや。今は自分の知ってる時間とどれくらい違うのかなぁって思って」
自分が本当はこの世界の住人ではないのだということがばれないように、朱里は言葉を選びつつそう誤魔化す。
「どのくらい違いましたか?」
「……半年くらい、かな」
琥珀の月は人々に幸せをもたらす吉兆と信じられ、満月になるのを多くの人が楽しみにしている。
そして「水底のレイラ」の物語は、その琥珀色になるはずの月が、何故か赤く染まったところから始まるのだから、朱里が忘れるはずもない。
「あなたが知る時間と今は半年違うということですね。……あなたが居たのは半年前ですか、あとですか?」
興味があるというにはあまりに淡々とした口調で、リヴァーは問い重ねる。声だけ聴いていれば、まるで精巧なロボットとでも話しているようだ。
「…………」
静かに見つめてくる緑の瞳から逃れるように、朱里はそっと視線を外して窓の方へと顔を向けた。
さっきのように彼は帳面に何かを記しているわけではなかったが、やっぱり自分は取り調べを受けているのだろうと朱里は悟った。
朱里が情報を得たいのと同じく、リヴァーもこちらの情報が欲しいのは分かる。それでも少し寂しい気がした。
「あと……って言ったら、信じてくれるんですか?」
それは、自分が未来から来たと言っているようなものだ。
実際にはそういうわけではないけれど、朱里が異邦人でないならそういうことになる。
ふと、リヴァーの形の良い眉が微妙に跳ね上がった。まじまじと朱里を見やり、小さな溜息をつく。
「憑依なんて非常識なことが起こるのだから、そんなことがあってもおかしくはないいですね」
とりあえずは信じてくれるということか。
確かに憑依やら転生なんてことが起きているならば、時間軸の違いくらいどうってことはないのかもしれない。
いろいろ言い訳を考えていた朱里は、それは不要そうだと少しだけ笑った。
「さっきあなたは、アシュリーが『まだ聖女になってない』とも言っていましたし、そういうことなのでしょう」
「 ―― っ!」
やっぱり、さっきの独り言を聞かれていたのだ。
朱里は思わず立ち上がった。このまま逃げ出したいと思いつつ、それは無理だとも知っているので、とりあえず落ちつこうと深呼吸をする。
「……どこから聞いてたの」
ちょっぴり責めるような口調になったのは仕方ない。
「私があなたに声をかける、ほんの少し前です。アシュリーのことを言っているようだったので。この国唯一の聖女のはずだとかなんとか」
リヴァーは少し口元を曲げるように笑った。
そうしてゆっくり椅子から立ち上がると、ベッドサイドに置かれていたウサギのぬいぐるみを持って戻ってきた。
「それは?」
この部屋にひとつだけあった可愛らしい装飾品。さっき部屋を見て回っていた時、朱里も気になってはいたのだ。
なんだかそれだけがこの場にそぐわず浮いて見えたから。
「アシュリーがいつも、子供たちを治療するのに使っていたものです。……倒れた時にこれも一緒に落ちていたそうです」
リヴァーはぽんとそれをテーブルの上の座らせると、まっしろなふわふわに囲まれたウサギの、宝石のような真紅の瞳を見やる。
妹アシュリーには、怪我や病気を癒す
公にしては国も神殿も黙っていないことは分かっていたし、丈夫でないアシュリーには大きな負担になるのは明らで、隠すように約束していたのだ。
それでもアシュリーが時々、このウサギの人形を使って陰からバレないように幼い子供たちの治療をしていたことは、もちろん知ってはいたが。
「あなたの言葉が正しいのなら、アシュリーの力は隠しきれず、半年後には聖女なんかに祀り上げられているということですね」
忌々しそうに舌を打つと、無造作に金の髪をかきむしる。ひょんなことで知れた未来は、不愉快この上なかった。
「でもアシュリーさん、楽しそうに聖女してましたよ」
聖女だからといって神殿にずっと籠っているわけでもなく、普通にリヴァーと一緒に生活していたし、楽しそうに活き活きと活動していたことを思い出す。
今となっては、きっと妹が神殿に住みこむことをリヴァーが断固拒否したのだろうと分かるのが可笑しかった。
「ところでさっき、アシュリーさんが倒れたって言ってましたよね。それっていつなんですか?」
もしかすると、その倒れたところに自分が憑依してしまったのかもしれない。そう思うと、訊かずにはいられない。
「……昨日の夕方、王立図書館で急に倒れたらしい」
リヴァーの翠玉のような緑の瞳が苦しげに揺れる。ぎゅっと、テーブルの上で両の拳がつよく握りしめられていた。
「倒れる際に、痕跡が現れたのでここに運ばれたんです」
知らせを受けて駆け付けてみても、倒れた妹に何かをしてやることも出来ず、その身体をみすみす他人に奪わせてしまった自分の無力さが許せなかった。
「図書館……」
自分が最後に居たのも、やっぱり図書館だった。そこに何かのつながりがあるのだろうか。
朱里は考えつつ、もう一つ「痕跡」という言葉にも引っかかる。
ただ倒れただけならば、自分が憑依したことに目覚めた瞬間に彼らが気付くはずはない。その痕跡とやらが関係しているのは確かなようだった。
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