序ー4

 ディアスが部屋から出て行くと、朱里はごろりとベッドに寝転がった。

 ようやく一人になれたというのに、頭の整理が追い付かない。

 何故こんなことになってしまったのか。本当に、憑依なんてことが起こるのか。いくら考えてみたところで、自分にそれが分かるはずもなかった。


「……ホント、ありえない」

 寝転んだ自分の脇に広がる蜂蜜色の髪を見ても、この現実を信じたくない。

 両手を天井に向けて伸ばしつつ、自分のものではない華奢な手指に、朱里は深いため息をついた。

 いくら信じたくなくても、目の前の現実が変わらないのならば、これからどうするべきなのかを考えるしかなかった。


「まずは状況の把握、かな」

 気合を入れるように勢いよく身体を起こしながら、ぐるりと部屋の様子を見渡してみる。

 部屋にはいくつかの調度品が置かれてはいたが、少し殺風景で、誰かが普段から暮らしているような場所には見えなかった。


「アシュリーの部屋ではないってことか」

 ベッド脇にそろえて置かれていた可愛らしい室内履きを履きながら、朱里はそう結論付ける。

 部屋の中を歩き回ってみても、女性の部屋らしき装飾具はほとんど見当たらない。

 たったひとつ。ベッドサイドに置かれたウサギのぬいぐるみだけが、場を和ませるような愛らしい表情でこちらを見上げていた。

 

って、どのくらいの時期なんだろう」

 鏡に映る自分の姿は、子供でも大人でもない。

 ぬいぐるみを持ち歩くような年齢ではないが、似合わないわけでもない。

 作中で十七歳だったアシュリーの年齢と、大きくかけ離れてはいなさそうだった。


「そういえばさっき、リヴァーがユディファルのこと『縁もゆかりもない』って言ってたっけ」

 先ほどの二人の会話を思い出しながら、朱里は考えるように目を閉じる。

 小説の中では、二人は最初から友人だった。ということは、今は物語が始まるよりも前というのは確かだろう。


「……だからユディファルは、他の二人みたいに感情的になってなかったのね」

 アシュリーに憑依した自分に怒りを見せていた二人と違って、ユディファルは終始淡々とした態度だったことを思いだす。

 まだ彼らに親交がなく、特に思い入れがなかったからだとすれば納得がいった。


「でも、アシュリーってこの国で唯一の聖女のはずなのに」

 普通であれば、そんな存在は大切にされて然るべきだと思うのだけれども。ユディファルの態度からはそんなことは微塵も感じられなかった。


「もしかして、まだなってないのかな」

 朱里だって「水底のレイラ」という物語の範囲内でしか、この世界のことは分からない。

 作中での立場が今いると違うのは、十分に有り得ることだった。


「うーん。聖女になった時期なんて書いてなかったしなぁ」

 ヒロインではないアシュリーのことは、そこまで深堀りされた描写はなかったと思う。

 そうなってくると、いま自分が持っている物語の知識は、あまり役に立ちそうもなかった。


「何を、ひとりで唸っているんですか?」

 不意に背後から静かな声が聞こえて、朱里は「ひゃっ」と飛び上がった。


「リ、リヴァ……」

 驚きで跳びはねる心臓を抑えつつ、おそるおそる振り返ると、先ほどユディファルと出て行ったはずの青年が、扉に寄り掛かるように腕組みをして立っていた。


「の、ノックも無しにいきなり入って来るのは、どうかと思うわ」

 彼が戻って来たことに、まったく気が付かなかった。いつからそこに居たのかも分からない。

 もしさっきの独り言をぜんぶ聞かれていたとしたら、ちょっとマズイのではないかと思いつつ、朱里は焦ったように抗議した。


「……失礼。ディアスがあなたの調をしているかと思ったので」

 にこりともせず、リヴァーはゆっくりと朱里の方へと近づいて来る。

 歩くたびにふわりと揺れる金色の髪が、窓から差し込む陽の光を反射して、眩いくらいに煌めいて見えた。


「まさか、あなた一人でいるとは思いませんでした」

 その表情はとても静かなのに、どこか怖ろしい。髪に見惚れる暇もなく、朱里は冷や汗が止まらなくなった。


「あ、えと。ディアス……さんは、頭を冷やしてくるって出ていきました。リヴァーさんもすぐ戻るだろうからって」

 相手が丁寧に話してくるものだから、自分もそうするべきなのか。朱里はちょっと迷いつつ、とりあえず呼び捨ては避けて状況を説明する。

 この静かな怒りが自分に向けられているのか。それとも指示を無視したディアスに向けられているものなのか。

 それを判断するのは難しい。


「そうですか。あとで彼からはしっかりと話を聞くことにします」

 言いながら、ふうっと大きなため息をつく。

 どうやら彼はディアスに怒っているらしいと気が付いて、朱里は強張っていた表情をほっと緩めた。

 この部屋から監視役が誰も居なくなるのは、やはりマズかったのだろう。


「……座りましょうか」

 ちらりと朱里の顔を見やり、リヴァーは部屋の中央に置かれたテーブルの椅子をすっと引いた。


「ありがとう……ございます」

 自分に座るように促しているのだと分かり、朱里はおずおずと席に着く。

 その肩にふわりとかけられたショールに驚いて、隣に立つ青年を見上げると、緑の瞳が苦い笑みを宿していた。


「その身体は、アシュリーのものなので」

「あ……はい……」

 自分への配慮ではなく、この身体への配慮ということを理解して、朱里は納得したように頷いた。

 作中でも彼は妹をとても大切にしていたから知ってはいたが、実際に見るのは想像以上だった。

 

「アシュリーはあまり丈夫ではない。あなたもそのつもりで行動してください」

 どこかやりきれないように向けられた緑の眼差しが、現状を理解しつつも諦められない心情を表しているようで、朱里は少し胸が痛くなる。

 さっきのように怒りに満ちた目で見られた方が、まだマシだと思った。


「分かりました。気を付けます……」

 応えながら、朱里は少し首をかしげた。


 作中でのアシュリーは特に体の弱い描写もなく、普通に元気に動き回っていたし、リヴァーもそこは心配していなかったと思う。

 ここまで作中と違うものなのかと、驚くばかりだ。


 物語が始まるずっと前なのかとも思ったが、それにしては、見た感じの年齢が作中とそうかけ離れてもいない。


「あの、ひとつ訊いても良いですか?」

 時期を判断するに何が一番いいかと考えて、朱里はひとつ思いあたったようにリヴァーの顔を見やる。

 リヴァーは一瞬考えるように目を細め、そうして微かにうなずいた。


「月……琥珀の月が満月になるまで、あとどのくらいですか?」

 これで時期がはっきりとわかる。

 朱里はちょっぴり意気込むように身を乗り出した。

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