序ー3

「では、俺は本部に戻る。……このアシュリー嬢は憑依者ではあるが異邦人ではなかったと報告しておく。あとの調書は後日改めて本部に提出してくれれば良い」

 無造作にソファに置かれた黒い上着を取り上げながら、ユディファルは淡々と命じるように言う。

 その月光のような銀色の瞳に大きな感情の波は見えず、ただ静かにこちらを見やっていた。


「分かりました。……調査に来たのが、あなたでよかった」

 ふっと表情を和ませて、リヴァーはゆっくりと立ち上がった。

 もし頭の固い調査員だったなら、先ほどの会話だけで彼女が「異邦人ではない」と判断することはなかっただろうし、規定通りに身柄も拘束しようとしたはずだ。

 目の前に居るこのユディファルが重要事項にも決定権のある上層の監査役であり、柔軟な思考の持ち主だったことも幸いだった。


「他の者ではおまえと揉め事になった際に、太刀打ちできないと思ったからな」

 ユディファルはちらりとベッドに座る朱里を……リヴァーの妹であるはずの少女に銀の瞳を向け、ふっと笑った。

 リヴァー・シアーズが妹を掌中の珠のごとく大切にしていることは、ほとんど親交のない自分でも噂に聞くほどで、この街で知らない人間はいないだろうと思う。

「……うちとは縁もゆかりもないあなたが来たのが意外でしたが、そういう理由があったのですね」

 揉める前提だったのかと、苦笑するようにリヴァーは口端を上げた。 


「そっか。リヴァーがアシュリーの身柄を簡単に引き渡すはずがないからな」

 今まで黙っていたディアスは、ここぞとばかりに口を開く。

「今は中身がだったとしても、いつアシュリーに戻るかもしれないわけだしな」

 憎々しげな表情を隠そうともせずに、ディアスは空色の瞳を朱里に向けた。さっきより怒りが抑えられてはいるが、嫌悪はありありと現れていた。


「……ディアス、少し彼女と話をしていてください。なにか気付いたことがあれば、その帳面に記入するように。あとで私が調書としてまとめるので」

 ディアスに指示を出しながら一度だけ朱里を見やり、リヴァーはそのまま扉の方へと向かっていく。

「なんで俺が!?」

「彼にまだ少し話したいこともあるので、見送りがてらエントランスまで一緒に行ってきます。すぐに戻りますよ」

 深い森を思わせる緑の瞳をわずかに笑ませて、リヴァーは帰り支度を終えたユディファルと共に、部屋から出て行った。


「……ったく。こんなのと話す必要なんかないだろうに」

 二人が消えた扉をしばらく睨むように見ていたディアスは、ぶつぶつと文句をひとしきり吐き捨てる。

 そうして諦めたように深いため息をつくと、じろりと朱里を見た。

 怨嗟のように突き刺さるその眼差しは鋭い刃となって、相手の心を抉るように重苦しく届く。


「……私だって、望んでここに居るわけじゃないのに。さっきからちょっと酷いんじゃない?」

 朱里はうんざりしたように頭を振って、抗議の声を上げた。

 確か、ディアスはアシュリーより二歳年上の幼馴染だったと記憶している。それを思うと彼の怒りや嫌悪が理解できなくもない。

 だからといって、訳も分からずここに居る自分に対して、そんなふうに接してくるのはあまりにも理不尽だと思うのだ。


 一瞬、空色の瞳が大きく見開かれ、そうしてどこか苛立たしげに視線が揺れる。

「……おまえがアシュリーの……」

「確かにアシュリーさんの中に他人が入ってるなんて不愉快かもしれないけど、私だっていきなり他人の外見になって驚いてるの。しかも目が覚めたら知らない人たちに囲まれてるし、混乱の真っ最中なんだから!」

 これまで抑えていた恐怖や不満が爆発したように、朱里は思いっきり叫んでいた。

 ずっと自分に敵意を向けてきた相手と二人だけになったせいか、泣きたくなんかないのに、箍が外れたようにぽろぽろと涙がこぼれた。


 最初は拉致されたと思って怖ろしかった。

 大好きだった小説の世界に憑依したらしいと気付いてからも、喜びなんてものは欠片もなくて。ただ動揺と不安だけが自分の精神なかを埋め尽くしている。

 それなのに、周囲から与えられるものは怒りと嫌悪ばかりで。

 もう、どうにかこの感情たちを吐き出さないと、発狂しそうだった。

 

「そ、それは、そうかもしれないが……」

 ディアス自身も、感情の赴くままに八つ当たりをしているという自覚はあった。

 目の前に居る少女がアシュリーでないなどと、とうてい受け入れがたい事実だったし、許せなかった。

 しかし ―― こうして怒りながら泣く少女を見ていると、己の態度がかなり酷かったのだと認めるほかはない。

 ぐっと、己の怒りを押し殺すように両の拳を強く握り、深く目を閉じる。

 考えようによっては彼女もまた、だったことに気が付いた。


「……悪かったよ。だから、アシュリーの顔で泣くな」

 困ったように赤い髪をがしがしと掻いて、ディアスは手近にあった布を彼女の目にそっと押し付ける。

「……これ、何の布よ……」

 涙を拭きながら、朱里はハンカチとは違う大きな布に軽く首を傾げた。

「おまえがさっきまで使ってたキルトケットだな」

 にやりと、ディアスは笑った。

 いままで嫌悪や怒りに満ちていた空色の瞳は、いまは静かな彩を浮かべて朱里に向けられている。

 そのことに少しだけ安堵して、朱里はほうっと長い息をついた。


「……ハンカチも持ってないなんて、信じられない」

 想定外に泣いてしまったことが恥ずかしくて、朱里はそれを誤魔化すようにそのままケットで顔を隠す。

 ディアスはちょっとばつが悪そうに、「今日はたまたま持ってなかった」などと言い訳するように呟いた。

 そうして軽く朱里の頭に手を置くと、なだめるようにぽんぽんと手を弾ませた。


「俺はちょっと頭を冷やしてくる。すぐにリヴァーが戻ると思うから、これでも飲んでおまえも落ち着いておけ」

 さっきユディファルが飲んでいたのと同じ水差しから違うグラスに水を注ぎ、ひょいと差し出してくる。

 温かいお茶などでもなく、本当にただの水を手渡してくるディアスに、思わず朱里は笑ってしまう。

 なんとなく、今のディアスは朱里が「水底のレイラ」を読みなが抱いていた、彼のイメージにぴったりだった。

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