序ー2

 この見慣れない明るい色の髪も。愛らしい姿も。かつらやメイクなんかではないことはすぐに分かった。

 ましてや、目に映る手や指の華奢なこと。

 ずっと中学からバレーボールをやってきた自分の手は大きめだったし、どんな特殊メイクでもあれを華奢に変えるなんてできるわけがない。


 考えられるのは、自分の頭がおかしくなったのか。それとも、ただの夢か。

 もしくは……いわゆる『憑依』というやつか。


 これまでにいろいろな小説や漫画を読んできた朱里としては、その現象を言葉としては知っている。

 もちろん、それは『架空の出来事ファンタジー』としての認識であり、実際にそれが自分自身に起こるなどと思ったことすらない。

 でももし、本当にそうならば。は『水底のレイラ』の世界という事だろうか?


「どういうことなの……」

 もう一度、朱里は呟いた。言葉に出すことで、不安な気持ちを吐き出して、落ち着いて考えたかった。


「ちっ。どういうことかってのは、こっちが聞きたいんだよ!」

 先程たしなめられたせいか、さすがに剣は向けてこなかったが、空色の瞳の青年はやはり怒鳴るように朱里をにらむ。

 もしここが本当に『水底のレイラ』の世界なら、さっきから一人でぎゃんぎゃん喚いているこの青年は、コスプレではなく、本物のディアスということだ。


「……いやいやいやいや。ありえない。あんなに短気で大人げない活火山だなんて」

 朱里は思わず口走る。

 ディアスと言えば、三人の中では血の気が多い方ではあるけれど、世話焼きで優しいというギャップが人気のある登場人物だった。

 それが、実際にはこんな、人の話も聞かずに一方的にわめきたてるような猪突猛進な性格の持ち主だったとは思いたくない。


 くっと、目の前に座っていた黒髪の青年が笑いをこらえるように横を向いた。短気な活火山という言葉に共感しそうになったのかもしれない。

「……ディアス、おまえがそんなでは何も話が進まない。少し黙っていろ」

 朱里がちらりと目を向けると、黒髪の青年ユディファルは軽く咳払いをしてそう言った。

 先ほどから感じていたことだが、怒り心頭な他の二人の様子とは違い、ユディファルはどこか他人事であるように落ち着いている。

 この対応の差は何なのだろうか? 不思議に思いはしたが、それをいま聞くことはさすがに空気が読めないだろうと、朱里はとりあえず黙っていた。

 

「彼の言う通りです。とりあえず話は聞かないといけません」

 丁寧な口調で冷気をまき散らしつつ、リヴァーも朱里を見つめてくる。

 ディアスよりは自制心があるのか、先ほどのような怒りに燃えた眼差しではなく、感情を消したような無の視線だった。

「……ちっ。わかったよ」

 二人にたしなめられて、ディアスは怒りを鎮めるように深いため息をついた。短く切られた赤毛をがしがしと掻いて、どすんと乱暴に椅子に座る。

 朱里を見やるその瞳だけは、やっぱり怒りに満ちていたけれど。


「あなたは、誰ですか?」

 静かに、リヴァーが口を開いた。

 左右、正面とベッドの周りを囲むように座った三人の青年に、朱里は腹をくくったように呼吸いきをつく。

 さっきから手をつねってみても、深く目を閉じて開いてみても、目の前の現実が消える様子はなく、これは夢ではないのだと分かった。

 ならば。本当にここは『水底のレイラ』の世界なのだろう。


「……大江朱里おおえしゅり

 ぽつりと朱里が応えると、それを帳面に書き留めながら、リヴァーは確認するように顔を上げた。

「オーエシュリ、さん?」

「……オオエは姓で、名前がシュリです」

 ぴくりと、脇で聞いていたディアスの眉が上がった。何かを言いたそうに口を開けたものの、すぐに堪えるように唇を噛む。

 それを横目でちらりと見やってから、再びリヴァーは朱里に目を向けた。

が誰か、分かりますか?」

 さっきと同じ質問のようでいて、違う質問。朱里は少し考えるように俯いて、そうして、部屋の端に置かれた鏡を見た。


「アシュリー・シアーズ……さん、かな」

 さっき、彼らがその名前を出してもいたし、鏡に映る自分の姿を見て『水底のレイラ』から連想するのは、やはりその名前だった。

 となりに座るリヴァー・シアーズの妹。そして、物語のヒロインであるセレーネを助ける、この国唯一の『聖女』として愛されていた少女。

 よりにもよって自分が憑依したのが彼女だとは、考えただけでも頭が痛くなる。

 目の前に居るこの男は、たった一人の家族である妹を何よりも大切にし、彼女を護るためなら手段を選ばない人なのだから。


「やはり、分かるのだな。さっきは俺の名も呼んでいた」

 ふと、ユディファルが椅子から立ち上がった。その表情は少しだけ安堵しているようにも見える。

「俺たちを知っているという事は、どうやらから来た存在というわけではなさそうだ。もともとは首都の人間か? そういう憑依例は初めてだが……」

 部屋の中央にあるテーブルの水差しからグラスに水を注ぐと、ユディファルはゆったりとそれを飲み干してから、ふわりと笑った。


でないならば、身柄を拘束する必要はないだろう。もちろん、監視は必要だが、それはおまえでも可能だ。リヴァー・シアーズ」

 その言葉に、リヴァーは深く息を吐き出した。

 中身が誰であろうとも、この身体は妹アシュリーのものだ。

 大切な妹の身柄を拘束などさせるつもりは元々なかったが、彼の許可が出たならば、争う必要もなくなる。

「不幸中の幸い……といったところでしょうか」

 深い森のような緑色の瞳を向けられて、朱里は思わず目を反らした。拘束だの監視だの、物騒なことこの上ない。


 それにしても ―― どうして彼らはこんなにも当たり前のように、『異世界』だの『憑依』だのという言葉を発するのだろうか。

 自分がここで目覚めた時から、彼らは「アシュリー」ではないと分かっていたし、ディアスなんかはすごい剣幕で怒っていた。

 『水底のレイラ』は、そんなものが出てくる物語ではなかったはずだ。夢中になって何度も読んだストーリーを思い出しながら、朱里は大きく頭を振った。


 ただ、さっきのユディファルの言葉からわかるのは、自分が「読んでいた小説の世界に来た」などと言ったが最後。身柄を拘束されるかもしれないということ。

 周りをもう少し把握できるまでは、その事についてあまり口を開かない方が良いかもしれない。

 朱里はそう心に決めた。

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