聖女と懸念

 先の一件があってから翌日。

 修繕が間に合わず、風通しのいい客間になってしまった屋敷ではあるが、今日も今日とてほのぼのとした一日が始まっていた。

 といっても、朝から簀巻きにされるといった日常から少し外れたイベントが起こったのはご存じの通りだろう。


 フィルが初対面の女の子に不必要な誤解を与えてしまったのは、客間の破壊に続き小さな不幸だ。

 聖女が来てから……いや、正体がバレてからロクなことがないなと、思わず内心愚痴ってしまったのは内緒。


 そして領民が変わらず騒いでいる現状、屋敷の外に出るわけにもいかないフィルは朝食を食べ、大人しく仕事をすることになった。


「はぁ……治安の悪化、ねぇ? 衛兵は何やってんだか」


 一枚の報告書を片手に、フィルがぼやく。


「そんなに人手が足りないか? 治安が悪化するほど財政も悪いわけじゃないだろうに。うちの領民は反抗期真っ盛りの思春期ボーイだらけなの?」

「きっと財政がいいからじゃない? ここのところ経済も順調に回ってるし、領民が増えていってるもの。他所から思春期ボーイが流れてきてもおかしくないわ」


 ぼやくフィルの横で一緒に報告書を覗き込むカルア。

 長い睫毛に端麗な顔、桜色の唇に視線が吸い寄せられるが、見慣れたものをチラチラと覗くほど、フィルはうぶな男の子ではなくなっていた。

 それが少し不満なカルアであったが、それはフィルの知るところではない。


「それじゃあ、その思春期ボーイを嗜めるためにお母さんを増やそう。まだ予算には余裕があるし、どこかで衛兵の募集でもしておくよ」

「あと、その思春期ボーイの中にザンもいるみたいだけど……ほら、苦情がきてる」

「ってか、領主のとこにそんな苦情を堂々と持ってくんなよ。あいつの目に入ったらどうするつもりだったんだ」


 素直なのか、馬鹿なのか。

 それとも、そこまでザンの癇癪が酷いのか。

 なんにせよ、領地を治める代行をしている者にとっては面倒事この上ない。


 フィルの口から、自然とため息が零れてしまった。


「フィル様、ため息をついてしまうと幸せが逃げていきますよ? ほら、あーん、です!」


 膝の上に座るミリスが小さな果実を一摘み、フィルの口に持っていく。

 フィルは「あーん」と、報告書に目を通しながら口に咥えていった。


「しっかし、治安が悪いようには見えんかったんだがなぁ。ほら、今も外を見れば仲良しこよしの光景が見えるっていうのに」

「そうね、皆仲良く「『影の英雄』様ー!」って言ってるわね。最近だと、ハチマキやはっぴまで作っては着て来てるわよ」

「フィル様、あーん♪」

「あーん……そこなんだよ。なんで日に日に進化してるわけ? 顔も出してないのに、鎮まるどころか悪化してるんだけど?」

「…………」

「もう一つ食べられますか?」

「あーん……まったく、勘弁してほしいぜ。プライバシーさんはいつになったら帰ってくるんだ」

「…………」


 真面目に仕事をしているフィルの横で、徐々に口数が減っていくカルア。

 その代わりに、額の青筋が増えていく。そんな些細ではない変化に、フィルは一向に気がつかない。


 そして———


「ねぇ……?」

「うん?」

「あなた……いつまで食べさせてもらってるの?」


 ようやく、青筋を浮かべながら指摘することに成功した。

 鋭くなった視線の先には、フィルの膝の上に座るミリスと、何事もなかったかのように仕事をこなすフィルの姿。

 一見してみれば、仲のいいカップルがハートを振り撒くためだけに距離を近くしているよう。

 そして、仲のよさをこれでもかと周囲にアピールするような構図でもあった。


「仕方ねぇだろ、ミリス様が「どうしてもお礼がしたい」って言うんだからさ」

「はいっ! ずっと恩返しがしたいって思っていたので、恩返しさせてもらっていますっ!」

「なー」

「ねー」


 ことの発端は、ミリスが「お礼をしたい」ということがきっかけ。

 特段、お礼をしてもらう必要がなく、何も困っていなかったフィルはそれを丁重にお断りしたのだが、ミリスはそれは嫌だと答えた。


 以前助けてもらった恩が―――それもあるが、今回の襲撃で迷惑をかけてしまったこと。

 そして、屋敷に滞在させてもらったことで「何かお礼をしないと」という義務感に達してしまったのだ。


「滞在の期間も少し長くなりそうですし……何もしないまま好意に甘えるのは、流石に心苦しかったんです」

「まぁ、今外に出たらまた襲われるかもしれんからな。帰りの道中までは流石に面倒が見られないし、それだったらしばらく滞在してもらって様子を見るのが一番だ」

「なので、私にできることを、と! お仕事はお手伝いできないので、喜びそうなことをしようと思いました!」

「はっはっはー、殊勝な心がけだなぁ」


 フィルはミリスの頭を撫でる。

 気持ちよさそうに「えへへっ」と頭を寄せてくる姿は小動物のような可愛らしさがあった。

 妹がいればこんな感じだったのかな? と、フィルの口元が綻んだ。


 一方で───


「むぅ……」

「痛い痛い、カルアさん後ろから抓らないで」

「(あんなに嫌がってたのに……可愛いからってすぐにデレデレしちゃって)」


 ありありと「不満です」とアピールする頬を膨らませたカルアは、フィルの背中を抓っていた。

 絶妙に気になる痛さに調整されているせいか安易に無視ができず、思わずミリスから手を離してしまう。


「(まぁ、そう怒るなカルア。これも作戦だ)」


 目配せで話しかけてきたフィルに、カルアは眉を顰める。


「(作戦?)」

「(あぁ……まずは、ここで思うようにやらせて好感度を上げる)」

「(うん)」

「(それで、仲良くなったところでこう言うんだ───俺は『影の英雄』だと言われて困ってるんだ、って。聖女の影響力は、貴族平民問わず強い。もう力を見せて誤魔化せないなら、せめて周りだけでもどうにかしようって思ったのさ)」


 聖女が一声かければ、全員が全員じゃないにしろ「あいつは違うのか」と思ってくれるはず。

 もう、目の前の女の子には誤魔化せないからこそ、協力してもらうことを選んだ。


(一人ならまだ大丈夫……ッ! この際、聖女は致し方ないと思っておこう! その分、得られる恩恵を先に得てフェードアウトだ!!!)


 失敗をタダでは起きない。

 それこそが、フィルという人間だ。


「(というわけで、まずは仲良くなることから始めようと思う。親密度が増えれば「言いふらさないで!」ってお願いしても聞いてもらえるだろうしな。っていうわけで、目くじらをあんまり立てないでくれよ?)」

「(はぁ……仕方ないわね。あとで埋め合わせはしなさいよ?)」

「(へいへい、分かってますよ)」


 理由を聞いたことで、カルアの不満が少し消えていく。

 乙女心というのも、まったく面倒なものである。


「にしても、ミリス様はいかんせん可愛すぎるな……」

「ふぇっ!? い、いいいいいきなりどうしたんですか!?」


 突然褒められたことに、ミリスは顔を真っ赤に染め上げてしまう。

 その顔には照れに加え、とても満更ではなさそうな色が浮かんでいた。


「聖女様を……ナンパ? さっきのやり取りはどこに行ったのよ」

「違ぇよ、俺をなんだと思ってるんだ?」

「朝晩娼館に行きたがる変態」

「間違ってはいないな、うん。よく分かっていらっしゃる相棒さんで俺は嬉しいよ。だからこそ、ナンパという発想に行き着いたのが悲しい」


 フィルは赤くなるミリスの頭を撫でながら口にする。


「いやな、こんなに可愛かったらザンの奴が何かしそうで……」

「あぁ、そういうこと」

「あいつは気に入った女がいたらすぐに手を出すからなぁ。ただでさえこんなに可愛いし、屋敷にもずっといるし……それが不安でしかない」


 聖女に手を出してしまえばどうなるか?

 互いの合意の上であればまだいいだろうが、無理矢理関係を迫ったとなれば清きを重んじる教会から敵対視されてしまうだろう。


 更には、教会と友好的であろうという姿勢を見せている自国からも罰が下される。

 何せ、教会の影響力は無視ができないほど───教会と敵対してしまうぐらいなら、いち貴族を擁護することなく処罰すると考えるのは分かりきっていること。


 ザン本人だけであればまだいい。

 しかし、飛び火が両親や俺に来る可能性も充分にあり得るのだ。


 故に、フィルは願う。

 不安はあるが、どうかそこまでの馬鹿じゃありませんように、と。


「いいですか、ミリス様……子豚ちゃんみたいな汚らしい男に飴ちゃんを渡されても、絶対について行かないように。お兄さんとの約束です」

「私、子供じゃありませんよ!?」


 プンスカ、と頬を膨らませるミリス。

 こんなに愛苦しい姿を見せておいて何を、と思ってしまったのは、仕方のないことであった。




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