サレマバート領はライラック王国の中心である王都から南西に下った場所にある。

 山々に囲まれたのどかな場所が多く、野菜、穀物といったものを自給し、他領地へと運んで経済を回している。

 田舎と言えば田舎ではあるが、領地の中心にある街は程よく栄えており、今でも賑わいを見せていた。


 フィルの住むサレマバート伯爵家の屋敷はその中心の街に建っており、大きな噴水と膨大な庭を確保できる程の大きさ有している。

 いくら堕落でクズと呼ばれている息子がいても、伯爵家だからこれぐらい───というのがあるのだろう。


 そんな屋敷の中、フィルはメイドのカルアを連れて食堂に向かう長い廊下を歩いていた。


「さて、引き籠りも確定してしまったところだし、今日は無難にお仕事でもしましょうかね」

「あら、珍しく働くじゃない。これはカルアさん直々のお手製紅茶でも淹れた方がいいかしら? 撫で撫でもセットでいかが?」

「なんだかんだ、この領地のお仕事してるの俺な? そんなに珍しい話じゃねぇだろ……撫で撫ではしてほしいけども! 膝枕のオプションで!」

「はいはい」


 堕落、クズ、遊び人と呼ばれていても、結局は貴族。

 両親が不在の今、領地経営の仕事は基本的にフィルに流れてくる。

 放置したいの山々、娼館に行きたいのも山々。しかし、放っておけば領地が回らない。


 故に珍しく働く―――というより、珍しく自分からやるという表現が正しいだろう。

 いつの間にか屋敷を囲んでいる領民というギャラリーの中、大手を振って娼館に行くのには流石に躊躇いというものがあるからだ。


「いくら娼館に行っていても、やっぱり私のお膝が恋しいのね。ふふっ、素直じゃないんだから」

「俺、普通にセクハラ紛いのことを言った気がするんだけど……どうして喜ばれてるんだろうね?」

「さぁ? 少しはお勉強をしたら?」

「科目は?」

「『乙女心』」


 増々意味が分からん、と。

 フィルは横で上機嫌なメイドを見て肩を竦めた。

 その時———


「これはこれは! ゴミ臭い匂いがするかと思えば、兄上ではありませんか!」


 開口一番の罵倒。

 ふと視線を前に向けてみると、そこには肥えた青年がゆっくりとこちらに向かって歩いてくる姿があった。

 傍には、カルアと同じメイド服を着た女性が数名。侍らすような陣形で歩くその様は、貴族らしいというかなんというか……表現に悩むものがあった。


「おぉ、おぉ! 豚の鳴き声が聞こえると思えば弟じゃないか! 屋敷が少し揺れていると思っていたが……もしかしてお前のせいか?」

「こら、フィル」

「き、貴様……ッ!」


 フィルが言葉を返すと、青年は顔を真っ赤にして唇を噛み締めてしまった。

 カルアがその様子を見て、額に手を当てる。頭痛薬が今日も必要かしらと、苦労の多いメイドであった。


 ―――ザン・サレマバート。

 サレマバート伯爵家の次男であり、フィルの一個下にあたる。

 フィルとは違い、お腹には素晴らしい贅肉をふんだんにこしらえており、横暴な態度が特徴的な男だ。


 ちなみに、フィルと同様……巷での評判はすこぶる悪い。


「ふんっ、まぁいい……時に兄上、何やら外が騒がしいとは思わないか?」

「そうだな……どこぞの吟遊詩人が新しい詩でも作ったのかもな」

「ホラ吹きも大概にしてほしいものだな、兄上!」

「ほぉ? では、領民が騒いでいることはホラだと?」

「そんなの、当たり前に決まっている!」


 ザンがフィルに対し、小馬鹿にするような目を向けて口にする。


「あの遊び人でクズな兄上が『影の英雄』? はっ! 寝言は寝て言ってほしいもの! 才能もない、仕事もできない、武に恵まれているわけでもない……こんな人間にどうして英雄たる要素があると思っているのか!」


 あまりの物言い。

 仮にも自分の兄だというにもかかわらず、凄い言いようだった。

 それを周りに控えるメイドは止めもしない。失礼極まりないはずなのに諫めようとしないのは事実だと思っているからか、はたまたザンに反抗するのが怖いからか。


 そして、当の本人はというと―――


「(よく分かっているじゃないかこの弟は! 久しぶりに俺の中での好感度が上がったぞ! 具体的には、娼館で遊ぶお金以外の全財産をあげてもいいレベルだ!)」

「(分かってないから言ってるんでしょ。そもそも、仕事ができないって言いつつやってるのは全部フィルじゃない)」

「(ん? っていうより、なんか怒ってませんかカルアさん?)」

「(怒るわよ、普通)」


 ヒソヒソと話していると、カルアが不機嫌になったと察知したフィル。

 若干膨らんだ頬がそれを表しているのだが、フィルは原因探求などせずにぷにぷにとマシュマロをつつくように遊んだ。

 それに怒ったカルアがかかとを「あぎゃっ!」思い切り踏んづけ、フィルは痛そうに何度も跳ねながら足を押さえる。


「(しっかし、こんな弟と俺をもった両親は可哀想でならんな。後継に恵まれない貴族なんて、お家潰しのいい例だぞ?)」

「(だったら、フィルがもっとしっかりすればいいじゃない。やればできる子だっていうのは知ってるんだから)」

「(ねぇ、カルアって立ち位置的にはどこなわけ? お母さんポジ?)」


 クズと呼ばれる兄に、礼節もクソもない弟。

 確かに、将来が心配になるのも無理はない。

 だが、もしも……フィルが『影の英雄』だと認めれば、違う印象があったのかもしれない。


(それと、隠そうともせずに堂々としていれば、ね……)


 ちらりと、カルアは傍に控えているメイドの顔色を見る。

 そこには疑問と驚き、そして僅かばかりの期待と尊敬の色がそれぞれに浮かんでいた。

 今まで、メイド達が遊び人のフィルにこんな顔をしたことはなかった。

 これもきっと、フィルの正体がバレてしまったからなのだと、カルアは思う。


「それと、いい加減俺のものになれ、カルア!」


 そんなことを思っていると、唐突にザンがそのようなことを口にした。


「なるわけないでしょ、何回も言わせないでよ」

「メイドの分際で、口の聞き方がなってないぞ!」

「私の主人はこいつだけだから。敬う相手と仕える相手は決めてんのよ」

「痛い痛い、カルアさん耳を引っ張らないで」


 主張するかのようにカルアは横にいるフィルの耳をつまむ。

 巻き込まれただけのフィルはただただ「痛い」と口にするばかりだ。


「それに、私は望んでメイドでいるけど……立場的にはだって忘れてないかしら?」

「うるさい! だとしてもメイドなのは変わらんだろうが!」

「……はぁ」


 ザンの物言いにカルアは大きなため息を吐く。

 嫌悪感を隠しきれていないその姿は、確かにメイドとは思えなかった。

 だが、それはそれでいい。

 一番の新参者であるカルアがこのような態度をしていてもザン以外誰も咎めないのがいい証拠だ。


「いいから、俺のものになれ! こんな無能に仕えるぐらいだったら、俺の方が遥かにいいぞ!」


 ピクり、と。

 カルアの眉が動く。

 その瞬間、フィルはカルアから距離を取って少しだけ身を屈めた。


「俺のものになれば、待遇は約束してやる! そこらの人間よりも───」


 ザンがそう言いかけた瞬間、カルアの足が動いた。

 的確にザンの顎を捉えるように、鈍い音が響き渡ろうがお構いなしに振り上げる。

 その速さは、ザンが無抵抗で受けてしまうほどであった。


「あがっ!?」


 そのため、まともに直撃を受けてしまったザンは大きく仰け反り、そのまま仰向けに倒れてしまった。


 ───そして、こので一つ問題がある。


 カルアは他のメイドと同じメイド服を着用している。

 スカートの丈は膝上まで、白いソックスに合わせたガーターベルトは腰まで伸び、きめ細やかな肌が絶対領域の存在を主張していた。


 しかし、絶対領域とは立った状態、及びしゃがんだ状態でも『見えそうで見えない』から絶対領域なのである。

 それが、顎を蹴り上げるために足を上げたとなれば……ッ!!!


「あ、ピンク───」


 ずぷり、と。


「おぉぉぉぉぉぉっ、目がっ、目がぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!???」


 聖域アガルタを拝むためだけに屈んでいたフィルの瞳に天罰が下る。

 先程までザンを蹴っていたというのに、すぐさまフィルに攻撃をするとは、このメイドの身体能力の高さには舌を巻くばかりであった。


「あ、そういえば」


 何かを思い出したかのように、カルアはのたうち回るフィルに向かって口にする。

 仰向けで倒れ、そのままピクりともしないザンには目もくれないその態度は、ザンのことをどう思っているかが如実に現れていた。


 そして───


「今日の朝に聖女様がやって来るみたいよ。フィル宛てに」

「それは予め言ってほしかったけど、先んじて俺の目を労わってほしい……ッ!」


 さり気なく爆弾を落とすのであった。



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