影の英雄の朝

 カルアの一日の始まりは、寝坊助な主人を起こすところから始まる。


「フィル、入るわよー」


 早朝にもかかわらず、カルアはしっかりメイド服を着ている。

 それだけではない、汗をかいていないにもかかわらず水を浴びて身を清め、髪を梳かし、薄く化粧を施していた。


 それは、主人の傍にいる者として恥ずかしくない格好をするためが故。

 メイドのイメージは、仕える主人のイメージにも影響してしまうからだ。

 あとは多分に含めた乙女心もあるだろう。


 そんなカルアは、ノックもすることなくフィルの寝室に入る。

 寝室には大きなベッドと、テーブル、クローゼットが一つ。派手な装飾や、高価な芸術品といった類いのものは何一つない。

 貴族らしからぬ簡素っぷりだ。貴族であれば、そこらかしらに風格と気品と身なりのアピールをするようなものを置いていてもいいのに、そう毎回思ってしまう。


 だが、主人がものに頓着しないのは分かりきっていること。

 性欲と少し眩しい優しさが根源にあるだけのフィルに、金ピカに光った金銀財宝を見せたところで関心なく一蹴され、すぐさま売り飛ばして娼館代に漬け込むことだろう。


 カルアは部屋に入ると、そのまま主人の寝ているベッドへと向かった。

 ベッドの上には、敬愛する主人の寝顔が一つ。捲れた服からは、男らしいがっしりとした腹筋が見え隠れしている。

 そこに思わず視線が向いてしまったのは、女の子故に仕方ないことだ。


「相変わらず、可愛い寝顔しちゃって」


 どこか幼さが残る顔。

 普段のおちゃらけた変態っぷりはどこに行ったのか? ギャップというものがあるなら、正にこのことを指すのだろう。


 カルアは「起きてるー?」と口にしながらも、ベッドに頬杖をつくだけで何もしない。

 瞳は柔らかく、ただフィルの顔を覗くばかり。

 メイドとしての生活の中で、最も至福の時間はこの瞬間であるとカルアは思っている。

 この瞬間だけは、フィルの寝顔をいつでも見ていられる。

 誰にも見せないこの瞬間は、全て私のもの───そんな独占欲が満たされる時間。


「ふふっ、この」


 カルアはフィルの頬を指でつつく。

 その度に「むにゃむにゃ」と動く口元が更に可愛くて仕方ない。

 しかし───


「おっきな……おっぱい、さいこー」

「…………」


 その寝言が聞こえた瞬間、カルアの額に青筋が浮かんだ。

 そして、その閉じられた瞳に容赦なく二本指を突き刺した。


 ズプリ、と。


「目がっ、目がぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!???」


 中々起きてくれない人が多いのは、全世界共通の悩みだろう。

 もしかしなくても、この起こし方は画期的な案かもしれない。寝ている人間を一発で起こしてみせる優れものだ。

 しかし、寝ている人間の人体に影響が出そうなのは言わずもがな。


「おはよう、フィル」

「えぇ、おはようございますね、カルアさん!? 随分とまぁ眠気の吹っ飛ぶ起こし方をしてくれたもんで!」

「あら、褒めても何も出ないわよ」

「皮肉って言葉を知らないのなら、今から学園で学び直してこいやゴラァ!!!」


 充血した瞳を押さえながら、フィルは体を起こす。


「おぉぉ……目がぁッ、マジでお前……俺に何か恨みがあるの!?」

「そうねぇ……女性的に『クソ野郎』と言ってしまうぐらいには」

「何もやってねぇだろ……」


 瞼を揉んで痛みを軽減させているフィルを他所に、カルアは自分の胸に視線を落とす。

 そこには、お世辞にも大きいとまで言えないほどの実った果実がついていた。


「……大事なのは形だし」

「なんだって?」

「なんでもないわよ」


 目潰しをくらったフィルの視界が徐々に回復すると、ぼやけて映ったのは拗ねた顔を見せるカルアだった。

 普段から美人な女の子がこういう姿を見せると、妙に胸にくるものがあるのは男の自然現象だろう。

 ただし、それは瞳に与えられた痛みの元凶が目の前の少女でなければだ。


「まぁいいや……っていうか、起きたくねー」


 よく分からない反応を見せたカルアのことを気にせず、憂鬱そうにフィルはもう一度ベッドに横たわる。


「そんなこと言ってないで、起きなさい。そろそろ朝食の準備もできるんだから」

「だってよ、これ以上憂鬱なことはないぜ? 昨日のことが夢だったらよかったのに、やってくるのは純粋な男の子がお涙する非情な現実なんだもん」


 昨日の一件と言えば『影の英雄』の正体がフィルだとバレてしまったことだ。

 あれから日を跨ぎ、外に出ることを恐れたフィルはなんの解決もないまま二日目を迎えてしまった。


「……皆の様子は?」

「変わらないわね」

「そうか! 皆いつもと変わらないか! やっぱり昨日のことは夢で、誰もが幸せなのほほんとした日常を謳歌して───」

「皆、

「……少しぐらい夢を見させてくれてもいいじゃない」


 フィルは立ち上がり、窓を恐る恐る開け放つ。

 すると「『影の英雄』様が起きたぞ!」、「きゃー! こっち向いてー!」なんて言葉が聞こえてき───


「……俺、引き篭ろうと思うんだ」


 ───たので、そっと窓を閉めた。


「……きっとさ、もう一回寝たらプライバシーさんが戻ってきてくれると思うんだよね」

「プライバシーさんはしばらく出張中なのよ」

「帰ってきてほしいなぁ……ッ!」


 フィルは両手で顔を覆いながらさめざめと泣く。

 朝からプライバシー度外視の張り込みで騒ぐって、どれだけ人気があるんだよ『影の英雄』のクソッタレと、自分で自分を愚痴ったフィルであった。


「そもそも、何を嫌がってるのよ? 堂々と手を振ればいいじゃない。どうせ騒いでるだけで無害なんだし」

「じゃあ、お前は娼館に行く時も満面の笑顔を浮かべてパレードのように手を振れって言うのか? 見たことねぇよ、観衆に見送られながら娼館に行く構図なんて」

「だから娼館に行くのをやめなさいよ」

「だったら、この有り余る性欲はどこにぶつけろって言うんだ!?」

「壁でいいんじゃない?」

「……ねぇ、主人を虚しくさせてなんの得があるわけ?」

「知らないわよ」


 頬を膨らませてそっぽを向くカルア。

 どうしてそんな顔をするのか? 不思議であったフィルだが、諦めのついたように大きなため息吐いた。


「まぁ、仕方ねぇか……それより、これからだな」

「どうするの?」

「もちろん、全力で誤魔化す! 持っていた仮面も「ファンだから似たようなものを集めてただけなんですぅ!」って言えば、なんとかなるだろ!」

「そ、誤魔化せたらいいわね」


 起き上がり、部屋の外へ向かうフィル後ろを歩くカルア。


「素っ気ないな、カルア?」

「だって、どうせ信じてもらえないと思ってるから」

「はっ! 俺の処世術なめるなよ! これでも、伯爵家の嫡男にもかかわらずのらりくらり面倒事を避けてきた超絶不良児なんだからな!」


 確かに、今まで自由気ままに生きてこれた。

 貴族としてのしがらみに囚われることなく、クズ息子としてのレールを逸れることなく歩いてきた。

 でも、しかし───


「そう言いながらも、フィルは誰かを助けに行くんでしょ……?」


 結局、誤魔化したところで『影の英雄』になりにいく。

 ファンだと誤魔化したところで、誤魔化しきれない要因をこれからも増やしていくのだから変わりない。


「それは、いつも通り……バレないよう立ち回る方向で頑張ります」

「なら今度から、お酒は控えることね」


 意外と容赦のないメイドに、主人はもう一度大きなため息を吐くのであった。

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