次こそは、君に

一齣 其日

次こそは、君に

 後ろに結った長い髪が、きらりと光る汗とともに靡いていた。

 顔立ちは端正なのに、研ぎ澄まされた目元と凛々しく光る瞳が力強い意志を感じさせて、見惚れそうになった。

 いつまでも釘付けになりそうだったけれど、目の前にきたパンチに思考が飛ぶ。

 腕を咄嗟に固めても、骨まで刺さる拳の味。

 しゅっ、

 りゃっ、

 と息吹が鳴ると同時に、今度は脛と腹に焼けるような痛みが奔る。

 下半身に集中した痛みにガードが下がる。

 安易が過ぎる判断だった。

 しまった、と後悔したのは彼女の脚がこめかみを穿った時。

 上段回し蹴り。

 モロに入った一撃に脳が揺らされ、身体は畳に吸い込まれて落ちていく。


 今日もまた、君に勝てなかった。


 香織さんは、強い女子だった。

 この空手道場に入って二、三年が経とうとするけれど、この女子にだけは勝てなかった。

 初めて彼女に挑んだのは、入門してからそう時間が経たない頃だった。

 香織さんは、汗臭い道場生の中でも、飛び散る汗すら一際可憐で、異彩を放っていた女子だった。

 初めて道場に入った時、僕は彼女しか目に入っていなかったと思う。

 当時ですら誰よりも、それこそ年上の弟子をも手玉に取る身のこなしと技の速さ。凛とした佇まいで最後には必ず立っている。大会だって負け知らずだ。

 そんな彼女に、僕は挑んでいた。

 無謀だ、馬鹿な奴だと陰で囁く声も聞こえた。自分ですら勝つ自信があったのかといえば、そうでもなかった。

 ただ、この空手道場に入って、初めて彼女と出会ってから、ずうっと込み上げていた感情を自制することができなかった。


「僕と、組手をしてください」

 

 真っ正面から堂々と果し状でも突きつけるかのように彼女に言って、そして馬鹿真面目に構えた。

 組手だけど、真剣勝負。

 そう覚悟を決めていた僕を、彼女は笑わなかった。

 真剣な眼差しで構えて、そして僕を容赦なく倒した。

 手加減も無かったから、蹴られた腕や脚がパンパンに腫れた。

 嬉しかった。

 正直、まだ白帯で、てんで実力も大したことない自分が彼女に挑むなんて、笑われても仕方ない。陰での囁きだって当然だと甘んじていた。

 でも、彼女は違った。

 真っ正面から僕を受け止めてくれた。

 拒絶も嘲笑も無かった。

 僕の打った半人前以下の拳ごと、本気で僕を叩きのめしてくれた。

 それから、彼女との組手はずっと続いている。

 いまだに勝てない。数えたら何百ともなる敗戦の歴史が積み重なるばかりだった。

 今日だって、上手いこと彼女の手玉に取られてしまっていたんだろう。

 強くなっているはず、だとは思う。

 彼女と毎日組手することで、彼女の動きを取り入れたり、いつのまにか染み込んだ技術でで強敵と呼ばれた他道場生を下したこともある。

 この道場でもそろそろ僕の相手になる人は少なくなってきた。

 未熟は自覚しているけれど、少しは自惚れてもいいかな、と思う時もあった。

 その自惚れも、彼女と拳を交わすと途端に打ち砕かれるというわけだが。

 実際、今もこうして打ち砕かれてしまった。

 ちょっとばかし、項垂れたくもなった。


「落ち込むなって、君は強くなってるよ。あたしに何度も負けて挑んでもへこたれないのはあんたくらいだよ」


 ポンと背中を叩く声。

 振り返ると、香織さんは笑っていた。

 凛々しかった目つきに今は柔らかさがあって、愛嬌が加わっていた。

 どくんと、また胸が跳ねそうになる。

 不意打ちはきついですよ、香織さん。

 戦っていた時以上の熱さが込み上げてきそうになる。何か言葉を返したかったが、喉まできた熱情を飲み込むのに精一杯で、思わず顔を俯かせてしまった。

「あれあれどうしたん? そんなに悔しかった? かなり落ち込んでる感じ?」

 と、逆に彼女は心配の声をかけてきてくれるのが申し訳なかった。

 ただ、悔しいのは確かだ。

 

 本当に悔しい、何百回もやってこれかよ。


 彼女に勝てない理由は何だろうと探ってみるけれど、答えは出ない。

 僕が進歩するように、彼女も日々己の空手を研ぎ澄ましているからか、と考えるのがそうなんだろう。

 それも、僕が走っても追いつけなような速さで。

 ……それじゃあ、いつまでも届かないのか。

 僕は、いくら手を伸ばしたって彼女に届かないのか。


 そんなこと、あってたまるか。


 顔を俯かせたまま微動だにしない僕を心配しつつも、夜遅くまで帰らない彼女を迎えにきた親御さんと一緒に道場を後にした。

 また明日も、その言葉にほんの少し救われた気がした。

 それでも、一人残された道場はがらんとしていた。

 日もとっくに沈んでいて、そろそろ帰らないとうちも親がうるさそうだと思った。

 早く帰らないと。

 などという胸の内とは裏腹に、僕は徐に立ち上がると吊り下がっていたサンドバックに足を向けた。

 そして、また構える。

 組手で打たれた拳やら蹴りやらに、体がまだ痛む。火傷のような痛さだった。

 構やしなかった。

 僕は、思い切りに拳を打つ。

 拳を打たずにはいられなかった。


「畜生ッ、畜生ッ、畜生ッ!」


 叩く。

 叩く。

 叩く。


「次だッ! 次はッ! 次こそはッ!」


 打つ。

 撃つ。

 撲つ。


「僕は、君にぃッ……!」


 渾身の拳、サンドバックは大きく揺れた。

 だけど、その後の言葉は出なかった。

 まだ、口から溢すわけにはいかなかった。


 誓ったんだ、僕は。

 初めて君が応えてくれたあの日から。

 未熟で込み上げた熱情のまま挑んだ僕に、真っ正面から応えくれたあの時から。

 

 胸を焦がしそうなくらいに焔は、一層盛って立っている。

 先に真っ白に僕が焼け切るか、この焔を乗せた拳が君を焼くのか。

 今はただ、熱情冷めやらぬ拳を、冷たいサンドバックに叩きつけるしか無かった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

次こそは、君に 一齣 其日 @kizitufood

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ