視界不明瞭、でも出発進行

 人付き合いの少ない誑伽は自身に害を及ぼす他者に対して嫌悪や軽蔑することはあれど、目にも入れたくないといった様な拒否反応を起こすことは少ない人物であった。



 それは3日前のこと。


 彼女は酷い風雨の中で外出した際の昼食中に、宗教の勧誘をされる。

 パーソナルスペースを無視した初老の男性にまくし立てられた彼女だったが、その時よ彼女の鋭い視線に宿った感情は、見るものを萎縮させ心を底冷えさせるような侮蔑に過ぎなかった。




 さて、誑伽の記憶には夏煤なつめという女性が色濃く根づいている。


 既に仏間に立てかけられて供養された人間であり、大学二年の齢20で亡くなった悲劇のヒロインとして時の人となった有名人だ。



 そして、誑伽が本能的に嫌っている人間でもあった。




 液タブから大きく椅子を回転させ、手のひらより一回り大きい長方形の白い紙を振りかぶって朝から荒れている誑伽。


 筆文字で大きくの文字が書かれた手紙がゴミ箱に投げ込まれ、底のある円筒の中で小気味よい音をたてた。

 既に今日だけで葉書が30枚届いた事になり10日以上も関わらなかったという事に裏づけられた妄執を、全て細々と連なる文章の内容が違うらしい葉書から感じ、目眩を伴って誑伽は額を抑えた。



 ピンポーン、とチャイムが鳴り響く。



 ショゴスが男性の声でいつものように宗教勧誘の女性を流していく声が仕事部屋にも聞こえ、それを誑伽が気にする事はもう無かった。


「クソ……」


 何故か頭の上に落ちてくる手紙によって彼女の精神は沸騰しており、殺意を垂れ流しながら液タブに向かい仕事を続けていた。


 少し服が引っかかるだけでも気分のままに腕を振り回す誑伽はそれでも仕事に支障をきたしてはおらず、張力でもって溢れかけた怒りを抑えて普段のパフォーマンスを維持していた。


「……クソ!」


 盛り上がった感情の表面に、更に手紙が投下される。

 誑伽の器に、暫くは直らないであろう明確な罅が入る。


「はぁぁ……!」


 ため息を繰り返し、いつしか誑伽は机を指で叩き始めていた。

 それから仕事画面よりも部屋の暗がりの角を視界の中心に入れている。

 手櫛をしながら誑伽は今の状況で仕事に手につける行為は余り良くないとして気分を区切り、リビングに居るであろうミ=ゴに触れるため席を立った。


 リビングではミ=ゴがノートパソコンを開いていた。丸椅子に座って両前足の3つの爪を使っている。


 誑伽は人間の頭程の太さの首に後ろから抱きつき、今は折りたたんでいる羽の間に体を預けた。


『ん……』

「舐めていい?」

『いいよー。』

「いただくね……あー、んん……」


 皮膚とも筋肉とも判断のつかない太い首に口を押しつけて美味しくもない彼の味のたんのうする誑伽は、首の後ろから彼のノートパソコンを覗きこむ。


 そこに写っているのは黒色に緑文字が走っているウィンドウと、誑伽の裸体が大きなカプセルの中でホルマリン漬けにされている様な画面だった。

 ミ=ゴは忙しなくキーを叩き続けている。


『……美味しい?』

「好みの味。」


 誑伽はショゴスの人頭に視線を向ける。


「ショゴス、豪雨の日から何回来た?」


 ショゴスは頭の皮を捲りあげるのを止めて、所謂イケメンと呼ばれる童顔に変形しながら誑伽の方へ向いた。


「26回です。」

「やっぱりそうか……うん、戻っていいよ。」

「テケリ・リ!」


 ゴミ捨てを早朝の間に行う他は外に出なくなった二人、そしてインターホンを鳴らし続ける勧誘集団。

 マンションの中に入り文字通り扉を叩くことが時々行われるようなった以外には、彼女が危機感を覚えることは無かった。


 誑伽は一つ、結論を出していた。


「無視だね、やっぱり。」


 断固とした無視。

 しかし、奴らの自己満足の悪意がつけいる隙を与えない、それを徹底するとそう考えていた。


『風に飛ばされそうになってまで情報を手に入れようとしていたのに、それでいいの?』

「うん。嫌がらせが無ければ特に気にしないことしたよ……ミィ君はどうしたい、とかあるの?」

『ショゴスが追い返してるから、気にしないかな〜。』

「じゃあ、そうしよ。」


 再度首筋に吸い付く誑伽。

 その彼女の頭に何処からか回転しながら飛来した手紙が衝突して、ミ=ゴの首から不快そうな呻き声があがった。




「インタビュー、ですか?」

『はい。私の元に拝死の会の勧誘リストを頂きまして、是非、この歪な世界を記事にさせて頂きたいのです!』

「…………」


 固定電話に耳を当てて頭を捻る誑伽。


 時間は昼食後の1時過ぎであり、仕事に戻ろうとしていた誑伽の足を止めるタイミングとしては最適だった。


『ええ!』


 キンと鼓膜を打つように響く女性の声。

 無垢にさえ感じる音に誑伽は返事を行う。


「それって私が今現在、あの人々に囲まれている事を分かった上で言ってるのですよね?」

『はい!』

「分かりました、一応、何故対面を選ぶのか教えて頂けますか。」

『はい、その後で宗教関係者にもお話を伺うので。』

「そうですか……」

『では、今から向かいます!』


 通話が切られ、誑伽は手櫛をしながら受話器を置いた。




「失礼します、本日はありがとうございます!」

「いえいえ、ワンクッションをおいて頂けただけでも勧誘集団の方々とは全然違いますよ。」


 挨拶をしながら片手を壁に当てて靴を脱ぐ女性は成人しているのか怪しいと思わせるような容姿をしている。

 快活なスポーツ少女、寒い中にも関わらず日焼けらしき褐色の肌と満面の笑みは大人の会釈とかけ離れている。


「失礼ですが、ご年齢を聞いても……?」

「はい!」


 パンチング帽に手をかけ、脱ぐのではなく整える女性。茶葉を揺らしながら誑伽の後をついていってリビングへ向かう。


信濃 美優しなの みゆ、年齢は17です!今はで記者をさせていただいてます!」

「ペンネームで良かったのですが……」

「ペンネームは大河たいがです!」

「……そうですか。そこの机にどうぞ。」


 一人が通れる程度の広さしかない廊下、そして身長差。誑伽は何気ない様子で自身の前を通り過ぎて座るよう誘導し、一瞬だけ美優が肩にかけているバッグを覗く。

 銀色に鈍く光る金属物質がバッグの内部に設けられた網に入っていた。


 お茶を対面した少女の前に置き、誑伽も席に座る。


「こちら、私の名刺です。」

「あぁ、と……すみません、コミケ用の名刺ですがお受け取り下さい。」

「あぁっと……やはりイラストレーターさんでしたか!時折SNSで見せて頂いてます!」

「お見苦しい物を見せてしまい、申し訳ありません。」

「いえいえ!確かに私はグロいのは苦手ですけど、それでも魅力を感じずには居られませんよ!」


 受け取った名刺は、誑伽が過去に見た東本新聞の記者と同じ柄の名刺をしていた。

 薄く青い背景に緑の線を横切らせ沿うような形でペンネームが刻まれていた。


 大河というペンネームは信濃川から連想したのだろう、と美優の話を聞き流しながら誑伽が推測していると、両手を合わせたことによる乾いた音が誑伽の注意をひいた。


「それにしても、木平ってとても住みやすい町ですよね!大きい商店街、少なくないバス、そして綺麗な木平川……やはりインスピレーションが湧くからここに住んでいるのですか?」

「ええ、あー、はい。」

「そうですか!」


 誑伽の目元はドンドン暗くなっていくが、美優はあたふたと新品のメモ用紙、古びたペンを取り出す。

 そしてメモ用紙の表紙を開いて誑伽を見る。


「ところで……宗教勧誘さんは日に何度来るのですか?」


 誑伽の様子を伺っていた美優は部屋の状況やゴミ箱周辺を観察し、しつこい勧誘を受けていても殆ど動じていないと決めつけて突撃する。

 その予想は当たり、誑伽はその話題に対して低いトーンのままに声を出す。


「ここ2日は一時間に一回、朝8時から夜8時までですね。」

「同じ人が日に何度も来ると?」

「はい。」


 一瞬の沈黙。

 美優は、排他的な人間に見える誑伽の口から特定個人への罵詈雑言を期待したものの、彼女の口は閉じられる。


「……?」

「……あぁえっと、その人ってどんなことを喋ったりしてますか?」


 誑伽は目玉を動かし、瞳孔に美優の姿を写す。


「……えっと、知らないのですか?」

「いえ、事前調査で多少の決まり文句は既にメモに記載されてますが……」




 そう話しながらメモ用紙を閉じて撫でる美優に、誑伽は淀んだ黒い目を向けている。

 空気が冷えて、その事に気づいた美優の口は即座に乾いていく。



 細くなった目が美優を捉え、据わっていた。



 何かしらで彼女の地雷を踏んだのかと焦り、美優は肉体的な言語をつけて喋り出す。

 しかしこの状況でその目を向けられることに関して、緊張して固まった脳では振り返ったところで思い当たらなかった。




「あぁ、ああっとえっとその、私は宗教の回し者とかじゃないですよ!」

「…………」


「私は、拝死の会の危険性を世間に認めてもらって、皆さんに警戒を、警察も警戒をしてもらいたいからでして」

「…………」


「宗教より漫画が好きでただ宗教って、えてして表現がなんとかかんとかって言って蔓延る場合もありますし、逆に宗教に私の表現を浸透させて気づいてもらいたいとか、マトモな人助け集団に戻って欲しいからという感じで与してなくて」

「…………」


 美優は弁明する様に口車を回す。しかしその言葉はコップと共鳴し続け、ただただ明るい声が先細りしていくだけだった。


 しかし権力のある人間の前で責任を逃れる様な形で呟きを止まることはなく、自分に対して羞恥心を覚え始めた頃だった。


「でも、私は間違ってなくて……仕事だから、私の……やらないと……」


「​─────」


 目の前の彼女が息を吸う。

 いつしか伏せていた顔をあげ、美優は誑伽の方をじっと見た。


「お節介ですみませんが、貴女はこの宗教に一切関わらない方が良いですよ。」


 音を立てて何かに亀裂が入った。


「な、んで、そんな事を……言うのですか……?貴女は何か知ってる、のですか?」

「いえ。ですが事前調査が足りていない方がこういう類に触れるのは、冗談ではなく命がいくつあっても足りませんよ。」


 美優は机を叩いて立ち上がり、自身をコケにしてくる人間を精一杯睨みつけた。


 対して、一瞥。


「一緒に帰りましょうか?この後の予定はキャンセルした方が良いと思いますよ。」


 その目を見て、美優は誑伽を説得出来ない事を悟り未だに脱いでいないベレー帽を深く被ることで諦めを示した。

 だが最後に、もう一度だけと話しかける。



「……インタビュー、続けても?」

「お断りします。」


 にべも無い返事に何故か安堵した美優は玄関へ向かった。その足取りはとても重く、だが迷いは無かった。




 ピンポーン、バギャッン!!



 インターホンが鳴り響くと同時に、二人共が肩を跳ねさせる程の大きな音が響く。


 美優はリビングにある扉に対して内側から何かが衝突し、中を確認していない誑伽の仕事部屋から鳴り響いているのだと気づいた。



 不審な物音に眉をひそめて足を止めた美優は、冷静さを見せるためゆっくりと振り向いた。

 美優は誑伽が青ざめていると予想していたが、彼女は顔色一つ変えていなかった。


「お帰りください。」

「えっと、今の音は?」

「お答え出来ません。」


 一歩、誑伽が近づく。


「……ひっ。」


 短く悲鳴をあげた美優は、何を思ったのか踵を返して仕事部屋の方向へ駆け出してしまった。


 帽子が脱げることも厭わずに、誑伽の脇を通りぬけようと足を回す。


 だが回避を想定していなかった彼女の前に、緩慢な動きで伸びてきた腕は立ちはだかる有刺鉄線の柵と同じ脅威だった。


「ぐぅっ!?」


 誑伽の腕が少し回転すると、丁度美優の喉が嵌り掴まれる。


 一瞬で走りを止められた美優は、酷い吐き気を催しながら喉を軸にして全身を前方へ投げ出す。


「おぶ、ぅっ!?」


 バキリと嫌な音が美優の鼓膜を揺らしたものの、それは自身の肩が普段とは違う角度に動いたから鳴り響いたものであって喉が潰れたのではない分析する。


 しかし褐色の少女の足は、前方に投げ出されてから地についていない。

 その事に気づいた美優は急いで誑伽の腕と手を掴んで引き剥がそうとする。


「ゔ、ゔぁ!?」

「…………」


 美優からはどう見ても誑伽は女性であり、細腕で長身、太腿も服の上からだと外側の輪郭しか分からないほどに痩せている。


 だが彼女の左手の指は美優の首に深くくい込んでいた。白と淡いピンクの靴下が暴れて蹴りかかるが、動じていないどころか蹴ったタイミングで握力が増す。


「お゙べぃなざ、ごべんぁぁ!!」

「…………」


 首を絞めている手を外そうと両手両足を使って暴れふためいている助けを求めている美優の潰れた絶叫。反対に、誑伽は品定めするような目を掴んだ相手に向けていた。


 誑伽は伝える事を目的にしていないような、聞き取りにくい程にため息が混じった声で美優に問いかける。


「お前の同僚は突撃するのか?」


 荒い言葉に変わっているが怖がらせる為の迫力を伴うような声ではない、そのことが少女の中の恐怖心を一層煽っていた。

 褐色の肌を脂汗が伝い、段々と足の振り幅が小さくなっていく。


 しかしそれと同時に、白髪で片目を隠した女性を殴ったり蹴り飛ばしたりする勇気は無く、ただ謝り倒すことしか頭に浮かばない。


「ごべ、うるい゙で……」

「答えろ。お前の仲間は情報があればすぐ首を突っ込むのか。」

「ゔ、ぅぅ……っ!」


 首を締められているがまだ呼吸が出来ているところで手加減されている事に気づいた美優は、まだ殺される訳では無いと気づいて湿った声を震わせる。

 だが誑伽は顔から手首に伝う塩水を意識に介さず、美優を揺らして答えを促した。


 泣きながら美優は混乱した頭で思考する。


(同僚は突撃する。これは本当、でも私が殺される。それをしないと言う、嘘、でも後で殺される?)


 そこで美優は、メモを見つめる誑伽の顔を思い出す。もしかしたら嘘が通じないという疑念が湧いて、それは首を絞めてくる女性の迫力と重なった。

 肺から空気を押し出すようにして声を捻り出した。


「ぃます……します……!」

「…………」


 こくこくと頷いた美優。


 その言葉を聞いた誑伽は、美優を顔によせ、背中に右腕を回して、更に互いの呼吸の温度が分かるほどに近づけた。


「ヒッ!?」

「私の目を見て言えるのか?」


 焦点が定まらない程の近距離に広がる誑伽の顔、そして何処までも暗く黒い目。

 美優がそれを恐怖のままに見ていると段々と体から力が抜けていくのを感じ、本格的に意識が混濁し始めたのを感じる。

 もはや四肢は鉛をつけられたかのように重く、回された右腕に身を預ける形で脱力していくのを感じながら眼球を震わせる。



 囁くように呟かれた一言が頭の中をやまびこのように響き続け、美優は思考も記憶も掻き乱されながらガックリと頭を後ろに垂らした。




 インターホンは鳴り続けている。


 気を失い倒れた美優をキッチンに隠した誑伽はインターホンを覗き、ソレが玄関先のインターホンを鳴らしていることを確認してから通話ボタンを押す。


 ボタンを押してからカメラをみると、映りこんだ映像に人の姿は無くただ無機質で冷たい廊下が光に照らされているだけだった。


「チッ、まぁ長時間無視すれば消えるか。」


 それより、と誑伽は目下の問題を見た。


 今は仰向けに横たわっている美優の首は赤くなっており、気絶の直接的な原因とは結びつかないとはいえこの状態で他人に渡すと首を締め上げた事がバレてしまうと誑伽は危惧する。


 自身の右前髪を頭から胴の高さまで手櫛を通し、立ち上がって仕事部屋に向かう。


「何があったの?」

『あはは、命令の優先度を決めてなかったから。』

「……申し訳ありません、申し訳ありません、申し訳ありません、申し訳ありません……」


 薄暗い部屋の中、ショゴスはミ=ゴにハサミで軽く頭を叩かれていた。

 ショゴスの声色はこれでもかと暗くなっており失態に対する指摘や注意をされたという事よりも、奉仕種族としての本能が自責の念という形をもって激痛に苛まれているようだった。


「いいよ、私の方でどうにかしたし。ショゴス……今回は許すが、次は許さない。」

『知能補助トークンを貸与したのは最短の道で、別の方法が無いわけじゃないからね?』

「……申し訳ありません。」


 謝るショゴスに向かって、観葉植物を演じて美優の監視をするように指示を下して部屋から追い出す。

 誑伽は僅かに憐憫をこめた視線でもって見送り、扉を閉めてからミ=ゴの様子を窺う。


 脚を畳んで正座をしているミ=ゴは触手を水色に光らせながら誑伽の方へ向く。申し訳なさそうに4本の触腕が力なく垂れた。


『鳴った瞬間に扉を開けようとしちゃってさ……僕の失敗だよ。』

「むぅ。」


 少し不機嫌そうな表情に変えてミ=ゴの頭を抱えて胸に抱きとめた誑伽は、それから頭を撫で始める。


「トークンを使ったショゴスの管理は難しいって、過去にミィ君が言ったことでしょう?気にしないでいいよ。」

『……うん。ありがとう。』

「じゃあ心機一転してさ、問題があるんだけど……」


 美優をどうするかと相談すると、ミ=ゴは解決方法を即座に思いついたようだ。


 リビングで待つ様に言われた誑伽に向かって、キッチンからミ=ゴが二本脚で歩いてくる。


『うん、ちょっと薬を取ってきていい?』

「門の創造する?」

『飛んでいく。ほら……なんか宗教怖いし。』


 誑伽がワープを行う為の魔法を詠唱しようかと持ちかけると、ミ=ゴは頭を振って拒否する。

 この魔法はかなり大規模な事象であり使うとかなり体力が消耗するということ。そしてミ=ゴの懸念として教団に同族や同等の知能を持つ対象がいることがあり、規模の大きい魔法は探知される可能性があることを思慮しての判断だった。


『急いで行くけど、大丈夫。バレないようにするよ。』


 そう言いながら首にプラスチックの操作板がついたベルトを巻くミ=ゴ。

 最中に彼の姿は段々と薄れていき、ベルトをつけ終わった彼が操作板のスライド式のスイッチを入れると誑伽の視界から彼の姿は消えた。

 唯一の存在を確認する方法は地面との接地面である脚裏だけ、赤みがある影として見えることだった。


 誑伽が窓を開け、カーテンを掴んで避ける。


 ベランダの手すりに登ったミ=ゴはその姿を見せていないものの、小柄な成人程度には大きな翼を広げて風を起こす。

 日に当たっている洗濯物を背景にしてミ=ゴは滑空するように飛びたった。





 誑伽がショゴスと一緒に、美優の近くでボーッと呼吸音を聞いているとインターホンからチャイムが響く。


「ショゴス。」

「テケリ・リ。」


 ショゴスを呼びながらインターホンの方を顎で指し示すと、黒い塊となりながら頭を下げて移動していった。


『もう私達は顔見知りじゃないですか、一度だけでもこちらのコミュニティと関わりませんか?』

「お断りしますー。」


 といった様な会話をしている最中に、次は鍵のかかっていないベランダが開いて何かが入ってくる。


 何かはキッチンまで歩きながら装置を外して色味を取り戻す。

 ミ=ゴが中脚にあたるハサミを取り出すと、そこには白い箱が挟まっていた。


「お帰り。」

『治すけど……うぅん、誑伽がやってくれるかな。手袋はこの中に用意したから。』


 誑伽が白い箱を受け取って上面についた半円状の黒い液晶を自身に向け、人差し指を押し当てると小さな音と共に後方へ空気が漏れだした。


「あ、窒素だから危ないか。」

『いやその程度なら大丈夫だと思うけど、まぁ、うちわうちわ……』


 何処かにいったミ=ゴは、夏に配られる青い広告用団扇をパタパタと鳴らしながらベランダを再度開いた。

 キッチンで窓が開く音を聞いていた誑伽は白い手袋を両手にはめて、箱の中に入っていた誑伽の読むことが出来ないラベルが貼られた瓶を取り出す。


 蓋が緑と青の二種類があり、誑伽はミ=ゴに問いかける。


「どっちがどっちだっけ?」


 団扇を扇いでいたミ=ゴはキッチンまでやってくると、廊下側にある美優の頭を扇いで窒息してない事を雑に確認しながら顔を団扇で扇ぐ。

 そして、誑伽の横に雑巾を置いてミ=ゴは頭を光らせる。


『青を先にしてー。生きてるね、よし……青が老化防止だから。』

「分かった。」


 そう言い残し、ミ=ゴは団扇を振りながらリビングの方へ歩いていった。

 誑伽が青の蓋を回して開いて床に置くとトロリとしたクリームの中から、手をかざすだけでアルコール消毒液を吹き付けるオートディスペンサーの上半分だけが出てくる。

 銀色に反射するその装置にはクリームのシミが一つもついておらず、だが周囲の光景を映してはいなかった。


 誑伽が片方の手袋に親指の先程度のクリームを乗せて美優の首に馴染むようにつけて伸ばすが、赤くなった首元は塗る前と色が変わらなかった。


 様子を観察して手袋を雑巾で拭いた誑伽は青の蓋を閉じ、緑の蓋を開いて同じ様な行為を繰り返す。


「う、うぅ……」

「しまった、起きるかもしれないな……」


 首を撫でていた誑伽は、手袋越しに美優の高い体温を感じていた。雑巾で手袋を拭いて蓋を閉めて様子を眺める。


 異常な代謝。


 美優の首は瘤のように腫れ上がり、彼女の顔の大きさを越えて太くなる。

 褐色だった皮膚はちぎれることなく引き伸ばされ、白く霞みがかった肉色に染まっていく。


 膨れ上がった首は、美優の頭を浮かして更に膨張する。


「う、う……」

「……」


 膨張が止まるとウゾウゾと首が波だつ。

 その動きは唾を飲み込むようなタイミングで拍動しており、水風船がいつまでも跳ねている様に見える。


「かはっ、かふ……」

「あっつ!?」


 口から漏れ出る唸りが苦しげな呼吸に変わった途端に、給湯器の如く白い息が覗き込んでいた誑伽の顔に目がけて放たれる。

 尻もちをついた誑伽は手櫛をしながら服の袖で顔を拭う。


「あつ……そりゃミィ君なら問題ないもんね……」


 彼との耐久の違いを思いながら誑伽は立ち上がり、コップを取り出してスポーツ飲料を注いでからキッチンの上に置く。


 瘤は蒸気が吐かれる度に小さくなっていき、生肉の色は少しずつ白く、そして褐色を取り戻していった。


「く、う……」

「……戻った。」


 美優の首元に締め上げた跡は無く、また異常な現象が起きていた事を示すのは床についた彼女の汗だけだった。

 誑伽は箱に瓶を戻し、それに雑巾と手袋をのっけてリビングの方へ持っていく。


「ミィ君、終わったよ。」


 その声を聞いたミ=ゴは回収していた洗濯物を脇に置き、何処に置こうかと思案しながら白い箱を受け取った。


『よかったよかった、じゃあ僕はまたショゴスと一緒に仕事部屋に隠れるね。』


 インターホンの前で上半身のみのストレッチをしていたショゴスは体だけ黒い犬のような形に変わり、跳ねるように移動してミ=ゴより先に仕事部屋へ向かう。

 それから頭だけ出したショゴスはミ=ゴの入室を待つ。


『それじゃーねー。』

「うん、頑張るね。」


 扉が閉まった事を確認した誑伽は、髪を広げるように首から方向を変えてキッチンまで足を進めた。






「……うぁ?」

「あ、おはようございます……突然気絶されましたけど大丈夫ですか?」


 美優が体を起こすと、スマホから目を離して僅かな微笑を湛えながら声をかけてくる誑伽の姿が後ろにあった。


 振り向き間近で彼女の姿を見ると、美優は少し驚く。

 顔の半分を隠す白くて長い髪と、半開きの目とその下を覆い尽くす酷い隈で気づいていなかったが、誑伽の顔は目も鼻も口も、輪郭に至るまでの全てが理想の形として非常に整っていた。


 美優は一瞬だけ無自覚に観察へ専念し、不自然な体勢のまま時を忘れる。


 と、意識を取り戻した途端に体を起こした反動が彼女を襲い、目を瞬かせ正座に座り直しながらふらつく頭を抑える。

 それから体を多少動かして、何故か肩こりが消えている事に違和感を覚えながらも誑伽の方へ向いた。


「あたた……いや、痛くないので大丈夫です。すみません、突然気を失っちゃって……って私、気を失ってたのですか!?」

「ええ。突然崩れる様に倒れましたので……救急車を呼んだ方が良いと分かっていたのですが、余りにもすんなり気絶されまして対応が混乱しちゃいまして。こちらもすみません……」


 誑伽がバツが悪そうに目を流すと、美優は手を振って否定する。美優は自分の腕時計を見てそこまで時間が経っていないことを知り、焦燥感から開放された。


「いえいえ、こちらこそ……本当におさがわせしました、もっと感謝をしていたいのですけれども次の取材の準備に向かいますのでお暇させていただきます。」


 だが美優の記憶は、インターホンが鳴る前に起こった回答拒否の流れのみしか思い出せず、いたたまれなくなった彼女は早々に立ち去ろうと膝を立てた。


「待ってください、そこに飲み物を用意したので是非水分補給をしてからでお願いします。」

「えっ、本当ですか?あぁ、ありがとうございます!」


 そう言ってから誑伽が後から立ち上がる間に、ざっと見渡して飲料を見つけた美優は感謝もそこそこに勢いよく掴み、一気に煽る。

 喉を鳴らして鯨のように豪快に飲み干すその様は、誑伽にスポーツを嗜んでいる人間だと思わせる姿だった。


「ぷは、ご馳走様でした!」

「……はい。帽子です。」

「ありがとうございます。」


 そして誑伽は帽子を渡しながら、彼女への眼差しを胡乱な物に変える。頭を下げながら横を通る彼女に向けて、呼び止める様に口を開いた。


「美優さん。どうしてそこまで急ぐのですか?目的達成までの過程の一つに、急がば回れという言葉がありますよ。」

「……えと、その……目的は向こうでも最短しか道が無いというか……大丈夫です。私は大丈夫ですからすみません、次の所へ行きますね!」




 お邪魔しました、という高い声の残響。


 立ち振る舞いの危うい少女はのろい女性の忠告を反故にし、輝ける理想を追って行ってしまった。


 置いていかれた誑伽は少しだけ彼女の身を案じ、しかし仕事部屋の扉を開く頃には気にする必要のない顔見知り程度の扱いに戻っていった。


『お疲れ様。』

「あの記者が解決してくれるといいね。」

『きっと出来るよ、元気があるし!』


 ミ=ゴが何気なく美優を応援すると、誑伽の眉が妬みで曲がる。


「……むぅ。」






 深夜。



 ミ=ゴの行動以外は物音一つしない静かで、光源も窓も無い完全な暗闇の中で目を閉じている誑伽。


 ベッドに横たわり、見えない天井を背景にしてとある事を考えていた。


 宗教勧誘に対してこれまでのらりくらりと躱してきたと思っている誑伽は、これから暫く警戒を強めなくてはいけない事に対して強く憤りを感じていた。


 しかしそれと同時に、数日前に起こった誘拐の前兆といった犯罪として断定できる程の事件は発生していない。


「無視……無視というよりはあしらう……いや、まともな会話はしないから無視か……」


 誑伽は呟く。


 を続けようと、彼女は心に決めて大きく息を吐いたのだった。




 だが。


「……なんで睡眠時まで教団の事を考えないといけないんだ?クソ、クソが……」


 怒りを覚える。


 拝死の会が一過性の災厄ではなく、二人の日常を侵食する弊害であること。

 二人で出かけると決めた以上、サプライズプレゼントがほぼ不可能であること。




 にとって教団の存在は、24時間いついかなる時も邪魔でしかないこと。




 目が冴える。


 誑伽の瞳は闇の中で、見えない何かを睨みつける様に鋭く尖っていく。

 鬱憤が溜まった誑伽は布団をどけて、部屋の扉の前に仁王立ちして右前髪に手櫛を通した。


 そしてミ=ゴの足音が近くにきた時、彼女はゆっくりと扉を開いた。


『あれ、眠れない?』

「……こっち来て。」


 誑伽は本気でミ=ゴの脚を掴む。

 強固な外骨格は人間の骨と同等以上であって彼女が全力を出しても傷が殆どつかず、更に短期の再生能力に至っては人知を越えた速度に至る。


「眠れないから付き合って。」

『……ん。ショゴスの飯の皿洗いしたら​────』

「今すぐ。」


 誑伽は近場の壁を足場にして、綱引きの要領で体を後方に倒しながら全力でミ=ゴの体を引く。

 彼は少しバランスを崩して慌てるものの、誑伽の力に対して抵抗はしなかった。


『おっけー。』

「うん。」






 早朝、洗面所からシーツを抱えた誑伽が廊下に現れる。より深くなった隈と隠しきれていない笑みが、徹夜による不思議な高揚感を周囲に漏らしていた。



 リビングに着くとシーツを一度、広がらない様に絞りながら床に置く。そしてカーテンに手をかける。




 ミィ君とならどんな世界だって怖くない、私はそう確信してる────




 柄にもなく、中央からカーテンを左右同時に開いた。

 不意の強い光を警戒して目を閉じる。





 しかし、彼女の瞼を焼く光は無かった。


 それどころか、光を感じない。


 不可解に思いながら、誑伽はゆっくり目を開ける。






『貴女を救う、神の御力!』『貴女を救う、神の御力!』『貴女を救う、神の御力!』『貴女を救う、神の御力!』『貴女を救う、神の御力!』『貴女を救う、神の御力!』『貴女を救う、神の御力!』『貴女を救う、神の御力!』『貴女を救う、神の御力!』






「…………」


 一面の紙、紙、紙。

 折り重なり、リビングの照明がついていない事によって昏くなった中でも読める、大きな文字。


「……ッ。」


 誑伽はサンダルを履いてベランダからチラシの裏面へ一歩一歩、苦虫を足で潰しているような物騒な足音と共に歩く。

 何層にも重なったチラシは全て両面テープで貼り付けられていて、全てを剥がすのには骨が折れそうだった。


 誑伽は纏めて破って範囲を丸ごと剥がせないか試しながら、目を爛々と光らせる。










「殺す。」


 彼女はそう呟いた。




 晴天の空に登る朝日が、大きな木平川から闇を祓っていく。

 爽やかな朝の訪れを、鳥のさえずりと共に伝播させていく。


 しかし皮肉な事に、チラシによる影は朝日によってその輪郭を一目瞭然な段階まで濃くした。

 誑伽とミ=ゴが住んでいるマンションの一室を、端から端まで侵していくのだった。

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砕ける音 ほいこうろう @Hoikoro

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