第2話 巡り、訪れる
四月二十日、午前十一時二十分。
赤崎の吐き出した煙草の煙はゆっくりと空へと上っていった。
煙草の煙はすぐに空気へ拡散していき、頭上を越えた頃には視覚でとらえることはできなくなった。赤崎が煙草を吸い始めてからもう干支が二周している。吐き出した煙がどうなるかなんて見なくても分かっていた。
だから赤崎本人はその行方を追わずに視線は眼下の公園に向けられていた。
赤崎は北可士和浄水場の職員である。今は自発的な休憩の時間だった。喫煙者に厳しい世の中になってから、煙草を吸う場所を確保するのが大変だった。
事実、この屋上ですら、本来は喫煙可能な場所ではない。
かつては灰皿も置かれており、公認の喫煙所が設置されていたが、今は取り払われている。さらに所内でも煙草を吸っている人間が赤崎しかいない。つまり、誰も困る人間はいないのである。赤崎以外は。
それでも、しれっと屋上に上がってこうして喫煙していることは黙認されていた。
注意しても赤崎が聞く耳を持たないので意味がないと考えているのか、他の理由があるのかはわからなかった。
浄水場の立地として、山の麓から僅かに高さのある位置に置かれているため、眺めが良く、僅かだが街を見下ろせる。だから赤崎本人にとって屋上は喫煙以外でも気分転換に最適な場所であることに間違いはない。
煙草の灰を携帯灰皿に落とすと視線を眼下の公園に戻す。屋上の手すりに身を預けながら、そこに集まっている人々を眺める。
四月後半の平日、そして午前中である。家族連れが多いのは自明である。公園にしては広く、遊具も程よく散らばって置かれている。密集しているというわけではなく、子供たちが元気よく全員走り回っているくらいの密度である。
こうした子供の声で苦情があるという話を聞いたことがあった。
小学校や幼稚園などの周囲の住民が子供の声が煩いという。赤崎には理解しがたいことだった。自分の真横で大声を出されればそれは煩いと思うだろう。クレームを入れる住人にとってはそれほどのことなのだろうと考える。ならば引っ越せば良いのである。さらに極論を言ってしまえば住人側の問題ではないだろうか、と思っていた。
紫煙を吐き出して再び公園を見ると、走り回っている一人の男の子が目に入った。
笑顔で滑り台の階段を上っている。
滑り降りたと思ったら、滑り台の支柱の周りをクルクルと回る。
その傍のベンチで母親らしき女性が笑顔で手を振りながら見つめている。
「これでいいじゃんなぁ」
坊主頭を撫でるようにしてそのザラザラした感触を掌に刻むと身体を回転させる。
手すりに背中を預けるような姿勢である。
浄水場を挟んで公園の反対側には川が流れている。利根川水系の支流である。そしてこの浄水場の取水源でもある。
携帯灰皿に四分の三まで吸った煙草を入れて潰すように消すとケースからもう一本取り出して火を点けた。時計を見ると午前十一半を回っている。
そろそろ仕出し弁当が届いている頃である。
再び身体を回転させて公園の方を向く。
穏やかな気持ちのまま昼食の時間を迎えたかった。
「やっぱりいた」
屋上へと続くドアが開いたと同時に気怠そうな声が聞こえる。
「赤崎さん、戻ってくださいよ」
長身で細顔の青原学がゆっくりと赤崎に向かって歩いて来た。
「ワシの唯一のリラックスできる時間を邪魔せんといてくれるかな」
煙草の煙が目に染みたので赤崎は目を細めた。
青原は暫く赤崎を見つめた後、黙って横に立ち、赤崎と同じように視線を下に向ける。
「どれを誘拐するか品定めですか?」
「お前な、この顔でそんなこと考えてたらそれだけで捕まるわ」
語気は強いが顔は笑っている。それは赤崎と青原の間で通用する会話だった。
「煙草吸っていたら昼休憩って社会人としてどうなんですか?」
「まだ昼になってないやろう?これ吸ったら戻るわ」
「美弥ちゃん、怒ってましたよ?いつもいないんだからぁって」
青原は裏声で言った。裏声を出した部分は二人の上司である柚咲美弥の真似である。
「ええやろ別に。言わしておけば良いんや」
「管理職舐めないでくださいよ?」
「お前が言うな。あいつが言うならわかるけどな」
「代弁ってやつです。日頃言いづらいしょうからね」
赤崎は鼻から煙を吐くと正面を向く。
青原が言いづらいと言ったのは柚咲が二人より大分年齢が低いからだった。三人の中で順位を付ければ、一番年齢が上なのが赤崎、次に青原、そして柚咲になる。若くして管理職に、しかも女性で就いたことには素直に赤崎も評価しているし、それ以外の感情は持ち合わせていない。
上司が女性だから、とか年齢が若いというような理由で相手への対応が変わることは、少なくとも赤崎にとってはあり得ない。
言いたいことがあれば言えば良いのにと思うが、それを直接柚咲に言うことはなかった。彼女の意思を尊重する、と言えば聞こえは良いだろうが、組織を回す立場の人間にそれ以上の事を求めることはただの負荷になることが経験上分かっていた。
「やめないんすか」
青原の発言で我に返る。青原の方を向くと、赤崎の煙草を指差した。
「ああ、やめんな。俺はこれが無いとあかん。息抜きみたいなもんだ」
「体に良くないでしょう?」
「ガキに説教しているみたいやな。んなことは知ってる。そうじゃないんよ」
このやり取りも何回目か忘れていた。青原も知っていて発言しているのである。
「俺なんかにごちゃごちゃ言うより、新人をもっと教育せえよ」
青原は四月から配属になった新人の教育係を任されていた。今月に配属されたばかりである。赤崎が文句を言うにはまだ早い。これが一年目でなければまだ至らないところなどが目につくだろう。赤崎の発言はただ話の流れを変えることが目的だった。
「そんなに駄目っすか?まだ間もないでしょう」
「そんなだから、あかんのよ。今から仕込んでおかんと。鉄は熱いうちに打てっていうだろう?」
「それは赤崎さんのやり方でしょう?俺はじっくり時間をかけて教えるんですよ。ぬか漬けの様に、時々突いてやれば良いんです」
無事に話が変わったことを確認するかのように赤崎は煙を吐き出す。
その間も子供たちは公園で元気に遊んでいる。そろそろ昼飯の時間だろうかと眺めていると青原が口を開く。
「お子さんは元気ですか?」
赤崎にとっては不意を突かれた質問だった。それは青原の方を振り向く速度に現れていた。
「なんでそんなこと聞くん?」
「聞いちゃダメでした?」
深く煙草を吸い込み、灰を携帯灰皿に落としながらゆっくりと煙を吐き出す。
「元気よ。嫁さんも。別に変わりないわ」
赤崎は現在別居中だった。夫婦仲が悪くなったわけではない。離婚もしていない。
特に理由は無かった。
他人に説明する時は、夫婦ともに不規則な生活であることを理由にしていた。
青原の意図は分からないが、これまでの付き合いで悪い意味で言う人間ではないことを知っていた。
だからこそ、何故このタイミングで聞いてきたのか、赤崎には不思議に思った。
「なん?お前、結婚するんか?」
「予定ないっすよ。彼女下さい」
「ワシをどんなコンビニと間違えてるん?それで女が出てくれば世話無いわ。あ、ちょうどええやん、ほら。新人の女の子。あの子ええんやないか?」
「黄田っすか?無理無理。俺、背が小さい女の子が好きだから」
青原は大げさに顔の前で手を振って言った。赤崎は携帯灰皿に二本目の煙草を放り込んだ。しっかりと潰して火を消す。
「ほんなら戻ろうか。お前の顔を立ててやらんとな」
「そんなこと思ってないでしょう?」
「お前が来んかったら三本目に火つけてるとこよ」
足早に階段へと向かう赤崎を青原はうんざりとした顔で見送る。
「素直じゃねぇなぁ」
しかし、嫌な顔はせずにその後ろを追って走った。
同日、午前十時半。
環境工学研究室の実験室は原田正嗣の想像していたものよりずっと静かだった。
R大学五号館はキャンパスの中で土木工学科の研究室が集まっている建物である。
私立大学だが、理工系の単科大学であり、かつ土木工学という名称を残している数少ない大学である。
原田がR大学を目指した理由として、土木工学科の存在があり、さらには水環境のテーマで原田が興味のある研究をしている研究室があったからである。
だから、無事にこの研究室に配属されたときに原田は心から喜んだ。
実験室はまるで高校や中学の理科実験室のような雰囲気だった。
置かれている分析装置が高度な物であること以外は、そのままだった。
遠心分離機が稼働している音が、今の実験室内で最も音が大きい。講義室一部屋分くらいの大きさの実験室に十人ほどがいるが、誰もが無駄口を叩いていない。
必要最低限の会話くらいで黙々と作業をしている。他の研究室ではこうではないらしい。研究室に所属した四年生たちは大学院生の先輩の下について、実験器具の使い方やルールといった研究室でのルールを覚えていく。これはどこの研究室でも同じである。
原田にとって希望している研究室に配属されたことは、幸運だったが、それで運が尽きてしまったようだった。
この研究室では、最初のゼミで指導教員の教授からいくつか卒論のテーマが挙げられ、その中から好みのテーマを選択し、それを修論のテーマにしている大学院生について一緒に研究をする、ということになっている。
希望したテーマは原田以外のもう一人希望者がいたが、二人共そのテーマで卒論を書くことに決まった。
しかし、上についた大学院生が問題だった。無津呂風音という修士一年生が二人の担当になったが、この上なく変人だった。
テレビドラマに出てくる、所謂変人は、イケメンであることが多く、変人の要素が薄れているが、無津呂風音は変人に加えて容姿も芳しくない。
原田が抱いた第一印象は蛙である。
背が低く、小太りだった。加えて、実験室で作業をすることがほとんどない。
日頃いる場所は五号館の裏手に立てられたプレハブで一人籠って実験しているのである。教授から鍵まで預かり受けており、信頼されているのかと最初は考えていたが、後に別の先輩から教授含めて誰からも嫌われているらしいと知って、原田は心底落ち込んだ。
とんでもない先輩に当たってしまったと思った。
しかし、それなりに成果は上げているらしく、その点で教授も無視はできずに、着かず離れずの関係を保っているらしい。
無津呂の同期や先輩となる修士二年生は全く関わらないようにしているらしく、実験もほとんど無津呂一人で進めているようである。
二日ほど落ち込んだが、非生産的な行動だと考えなおして前に進むことに決めた。
一緒に無津呂に着いた同期の四年生は大原沙織という女の子で原田と直接接点は無い。八方美人で無津呂以外にも愛想を振りまくような性格である。それも彼女なりの生き方であるから否定や肯定の意見はなかった。
その大原は今就職活動をしているらしい。
原田は大学院に進学することを考えていたのでその必要は無かった。
だからもう卒業研究に入ることができるが、無津呂から何も指示がないので他の先輩にお願いして実験の手伝いをしていた。
原田が試料片を蛍光分析装置にセットしていると、お疲れ様です、と実験室のドアが開いてスーツ姿の大原が入ってきた。
他の学生達がそれに返事するより早く、原田の元に近寄ってくる。
「ねぇ、原田君、風音さんから何か連絡あった?」
原田はすぐに返答することなく、手元のメモを見ながら分析条件を装置備え付けのPCにセットする。
条件を確認してからマウスで画面上の『測定開始』をクリックする。
「何もない。あの人が連絡する人だとは思わないけどな」
白衣のポケットからスマートフォンを取り出して画面を確認する。
通知は何も来ていなかった。
「そっかぁ。早く方針とか決めたいんだけれどなぁ」
「顔合わせの時に挨拶だけして解散だったからね」
「え?そうじゃないでしょう?何かあったら連絡するって言ってたじゃん」
「そうだっけ?いや、もう覚えてないな」
「ああ、具合悪そうだったもんね。真っ青になってたし」
顔が真っ青だったのは体調が悪かったからではないが、訂正はしなかった。
本質的にどちらも変わりはしないだろうと思っていたからだった。
「そう言えば、なんでスーツなの?」
研究以外の会話をしているのが自分達だけであることに後ろめたさを感じながら原田は言った。他の先輩方が聞き耳を立てているとは思わないが、違う話題にしたかった、と言うのも本心だった。
「うん。就活。説明会に行ってきたんだ」
「あれ?公務員じゃなかったっけ?」
「そうだけど。四年生って一回だけだし、せっかくだから就職活動をしておこうって思ったの」
四年生が一回しかない、と信じているのだろうと原田は思った。
卒業できなかったらどうするつもりなのか、と発言しそうになったが抑える。
公序良俗に反しない限り、口に出す必要はない。
「記念受験みたいなやつか。凄いね。公務員の試験勉強は大丈夫なの?」
「うん。それは毎日やっているから」
右手でピースサインを出す。原田もそれに頷いた。
実験室のドアが開いたので視線を向けると、そこに無津呂がいた。
部屋にいる他の院生や学部生も一瞬そちらに視線を向けるがすぐに元の会話や作業に戻る。それほど毛嫌いされていたら、自分だったらどう思うだろうかと原田は考える。
蛙顔の無津呂はヒョコヒョコとした歩調で二人の元へと向かう。
背が低く薄緑色の作業着を日常的に着用していることも蛙に見える一因だろうと原田は考える。他の研究室とは異なり、どちらかと言えば化学的な実験が多いため、学生は白衣でいることが多い。特に大学院生ともなれば白衣しか着ていない。無津呂を除いて。
「あ…う…おはよう」
二人は頭を下げた。原田が無津呂を好きになれない個人的な理由がこの喋り方である。ぼそぼそとした、口籠るような喋り方である。話始めると、声は小さいが比較的流暢に話すので気にならない人もいるだろうと原田は考える。
しかし、原田には何か気になって仕方がない。
「ちょっと…時間…あるかな?」
「自分は大丈夫ですよ」
分析結果は装置から自動的にPCのファイルに書き込まれる。一言先輩には伝えておけば時間はあるし、そもそも自分の直属の先輩である。そちらを優先するに決まっている。
「私も。大丈夫です」
無津呂は二人の顔を交互に確認する。
「じゃあ…ちょっとついてきてくれるかな」
それだけ言うと背中を向けてドアに向かって歩き出す。
二人は顔を見合わせるとそれに続く。
五号館から出たところで原田には行く先が分かった。
無津呂のプレハブである。話には聞いていたが実際に入ったことは無い。
何も言われることなく放置されていたし、自分から聞きに行くこともないだろうと考えていた。
相変わらず、ヒョコヒョコとした歩き方で歩く無津呂と共にプレハブの前に到着する。このプレハブは平屋形式のもので、一つの大きなプレハブを三つに区切り、それぞれ別の研究室が使っている。向かって左が地盤研究室の実験室、中央が無津呂の個人研究室、右手が計画学研究室の測量器具が入った倉庫になっている。
無津呂がプレハブのドアの鍵を外そうとしていると、後方から無津呂を呼ぶ声が聞こえてきた。
「おーい、風音、プレハブに人を連れ込むって珍しいな。しかも白衣とスーツかよ。エロいな」
背丈だけではなく、体格も良い男が三人に近づいてきた。夏にはまだ早いのにアロハを着用してビーチサンダルを履いている。一歩一歩がまるで地響きが聞こえるほど力強い。そして、原田と大原の姿を確認した後の発言から知能の程度を推測した。
「要、実験?」
無津呂は見上げるようにして言った。要と呼ばれた男は左手の親指でプレハブ長屋の左手を示す。『要』が名字か名前か原田には判断できなかったが、無津呂と気兼ねなく会話できていることから学科の同期だろうと原田は考えた。
「お前は?他の男と女を連れ込んで、さん…」
「それ以上は言うな。まだ嫁入り前の女の子なんだ」
原田も大原も同じタイミングで無津呂に視線を向けた。まず淀みなく発言できていることである。大原が要の発言の先を予測できていたかはわからないが、原田には目の前のがさつな男の発言が予測できていた。それは無津呂も同じだった。
その内容が大原には失礼であると判断して制したということになる。
そしてその考え方がまるで英国紳士の様だと原田は意外に思った。
「お前な、もう…二十歳超えているんだぞ?今時の女の子だって知ってるって。ったく相変わらず、硬い奴だな。硬派な奴なんて絶滅危惧種だぞ」
「そんな、ガサツさで生きていられることの方が俺には不思議だよ」
そうかよ、と不貞腐れたような表情を浮かべた要は振り向くと片手を挙げて左手のプレハブに入って行った。
原田には要が本気で不貞腐れているとは思えなかった。
「あ…ごめん…悪い奴じゃないんだ…」
無津呂は申し訳なさそうに大原に謝る。大原は大丈夫です、と笑って言った。
原田は暫く無津呂の顔を見つめていたが、無津呂が原田の方を向くと同時に視線を逸らせた。
入ろう、と無津呂が言うとそれに二人は従った。
少なくとも五分前とは違った印象を二人共感じ取ったのは間違いなかった。
始めて入ったプレハブ内は思ったよりすっきりしていた。
入口向かって正面の壁、その前に簡易的な机が置いてあり、そこにデスクトップPCが置いてある。机の脇には隙間なく詰められた本棚が置いてあった。
そして左手には来客用かと思われるソファセットとテーブル、その脇に冷蔵庫まで置いてある。右手の壁には作業台が置かれており、そこにポンプに繋がれた水槽が二つ、塩化ビニルのパイプで繋がれている。その机の下にはバケツやカラーボックスなどが置かれていて、ここで実験をしているということが分かった。
「あ…じゃあ、そこの…ソファにどうぞ」
入口付近で立ち尽くしている二人に無津呂は言った。
素早い動作で机に移動すると用紙を手にとって再び二人の元に戻る。
それでもまだ入口に立っていた二人をソファへと誘導する。
「えっと…あ…何か…飲む?でも…炭酸水しかない…」
無津呂が冷蔵庫を開けると炭酸水のペットボトルが並んでいた。それ以外に入っていない。炭酸水を好むのかと頭に入れたくない情報が勝手に原田にインストールされる。
「大丈夫ですよ。風音さん。気を遣わないでください」
笑顔で大原が言う。こうした発言は原田にはできない。
じゃあ、と言うと無津呂は背もたれのない丸椅子を転がしながらソファセットの前に運んだ。着席すると二人を一切見ずに手に持ったホチキス留めの用紙を二人の前に差し出す。
「…実験…というか調査の話なのだけれど…研究テーマは分かっているかな?」
用紙に目を落としたまま尋ねる。
「えっと…水処理でしたっけ?テーマの説明の時に言ってたような気がしますけど…ごめんなさい。よくわかってないです」
大原は元気な声で自分の無知を告白した。
「俺はある程度分かっていると思います。下水処理場における水処理の高度化…でしたよね?」
これで間違いはなかったが、原田は自信なさそうに言った。
謙虚さを見せることは悪いことではない。
「…うん…そう。そうなんだよ」
無津呂は表情を変えずに言った。
大原は音を立てずに拍手する真似をしていた。
「…詳しくは概要にまとめたから見て欲しいんだけれど…その前段階としていくつかの処理場に出向いてサンプルを採取しに行きたいと…考えてます」
声が小さかったが、何とか聞き取れたのは三人以外に誰もいないプレハブだからだろうと原田は思った。
「その前にちょっと良いですか?」
原田は小さく手を挙げる。無津呂はゆっくりと顔を上げた。
「今まで何も連絡が無かったのは何故ですか?大原さんは就活があるから仕方がないとしても僕は大学院進学です。それは知ってました?」
無津呂は目が泳いでいたが微かに、うん、と言った。
「なら無津呂さんのお手伝いもできたと思うんですが…。まあ他の先輩の手伝いができたのでいろいろ教えてもらいましたけど…」
少し陰湿だっただろうか、と原田は思ったが、言っていることに間違いはない。
「それは…申し訳ない。今度からちゃんと連絡する」
無津呂は先程よりも声に元気がなかった。
原田は、わかりました、とだけ言って書類に目を落とした。
「へー。下水処理場に行くんですかぁ?凄い。私、始めてかも」
大原が屈託ない笑顔で無津呂に笑いかける。
本人の意図したものかどうかは分からないが、場を和ませようとしているのかもしれないと原田は感じた。同時に大原に罪悪感もあった。
「…日程はそこに書いてあるんだけれど…」
問い詰められて元気がなくなったのか、デフォルトなのか、判断がつかないほど声量が無かった。
「あ、明日からなんですねー。えっと…可士和…水処理センタが初日なんですね」
「…そう…場所…わかる?」
「内房に近いですよね?」
原田なりに明るい声で問いかける。
「…うん。なぜかわかる?」
無津呂は大原に向けて問いかける。原田はまだ無津呂が根に持っているのかと思った。しかし、研究テーマについての無津呂との問答から、原田は内容を理解しているだろうと考えたのかもしれないと、良い方向に考える。
「え?うーん…ちょっとわかんないかも」
満面の笑みの大原を見て、自分だったら苛立つだろうな、と原田は思う。
「そう…。下水処理場が…海に近かったり…川の傍にあるのは…処理水を放流するためだよ。…ちなみに浄水場は川の上流にあるね…」
「下水処理場が上流にあるってことはないんですか?」
そこで初めて無津呂は笑った。原田が今まで見たことない含み笑いだった。
「…それは…無いね。浄水場が処理場の水を採水してしまうでしょう?」
「ああ…そうか…」
大原の顔は本当に感心している顔だった。
学部の時の講義はあまり真面目ではなかったのだろうと原田は思った。
「…浄水場は…川の上流に位置することが多い…。…山中とかも…。水源が…なるべく川の起点に近いところに…立てられる。立地や環境条件にもよるけれどね」
大原は、ふーん、と大きく頷いている。
彼女がちやほやされている理由が分かった気がした。
「じゃあ、明日その…水処理センタに行く…と」
「どこで待ち合わせますか?」
「…現地集合で良いかな?」
大原も原田も異論はなかった。二人共実家から大学に通っている。
実家からの方が近いかもしれないと原田は考える。
「研究費から移動費は出るっていう話だから…気にしないで」
無津呂は笑わずに言った。
「何か持っていくもの、ありますか?」
「…こちらで準備するから…大丈夫。あ…ただ動きやすい…作業着があれば…。…今日の二人の格好は…どちらもアウト」
大原は仕方がないとはいえ、白衣姿の原田もダメ出しされた。
ここは従っておこうと思い、調査概要の用紙にメモを取った。
「風音さん、どこかの駅で待ち合わせてみんなで行きません?その方が確実だし楽しいじゃないですか?」
ニコニコとした笑顔で大原が提案する。
「…僕は車で行くから…荷物もあるし」
静寂。プレハブ内に換気扇の音だけが響く。
「じゃあ…明日からよろしく」
無津呂はいつの間に持ってきていたのか、炭酸水のペットボトルのキャップを捻る。
行き場を見つけた炭酸ガスが噴き出し、プレハブ内の二酸化炭素濃度を僅かに上昇させた。
同日、午後十二時半。
「なあ、セブ島…七泊八日で三十万って安いの?」
穴吹小吹の発言は彼の隣に座っていた有馬塁だけがかろうじて聞こえるような声量だった。うつろな目で机に両腕を乗せており、旅行会社の広告が無ければ寝ている姿勢である。
「え?あーそんなもんじゃない?何?セブ島行くん?リッチだねぇ」
その隣の有馬はしっかりとした姿勢で座っているが、手にはスマートフォンが握られている。画面にはゲームアプリが映し出されている。
可士和市水処理センタの管理部、そのオフィスの昼下がり、ほとんどの職員は昼休憩を取っている。時間的には昼休みだが、全員が一斉に休憩時間となることはない。当番制で数人は待機している。今、オフィスにいるのは穴吹と有馬、そして狩鷺鷲巣の三人だけである。この三人は同期であり、たまたま留守番が重なった。
その二人を離れた席で狩鷺が睨み付けるように見ていた。
狩鷺はこの二人を好ましく思っていない。人として最悪だと考えていた。仕事はそれなりにこなすし、内容はともあれ、普通にコミュニケーションもとっている。
ただ、狩鷺が生理的に受け付けないのである。それには理由をいくら挙げても理解してもらえるものではない。
「華葺遅くねぇか?」
穴吹が壁掛け時計を見て言った。表情は苦々しい。華葺伊草は三人より一年後輩の技術者である。小太りで弱弱しく、身体が大きい割には気が小さい。
穴吹と有馬とよく一緒に行動しており、仕事終わりで時間が合えば、決まって飲みに出かけている。
狩鷺が生理的に受け付けないもう一人の人間である。
先の二人に比べれば少し大人しく、コミュニケーションも得意な方ではないだろうと狩鷺は思っていた。
「お疲れ様です」
良く響く声がすると同時にドアが開く。そこに立っていたのは設楽昭人だった。
「お疲れ様」
狩鷺も腹に力を入れて返事する。
設楽はこの課の中で一番の若手である。
若手と言っても三十代後半であり、この業界では若手に属する。狩鷺は好印象を持っていた。真面目に仕事に取り組むし、誠実である。先の三人と比べてはいけないことは理解していたが、どうしても比較してしまっていた。
現に、今も早々に昼食を済ませて一番に帰ってくるということにその気遣いが見られる。
「皆さん昼食に行って下さい」
狩鷺たちに清々しい声で提案する。
「え?お前一人になっちゃうぞ?」
穴吹は設楽を心配するように言ったが、すでに席を立っている。隣の有馬も同じである。
「もう他の人も帰ってきますよ」
設楽は右手の腕時計を見る。
「そうか、じゃあ、飯行くか」
おう、と有馬も威勢よく言うと、だらだらと部屋を出て行く。
「狩鷺さんもどうぞ」
設楽の向かいに座ると笑顔で言った。
「ああ、ありがとう。でも交代が帰ってくるまで待つよ」
わかりました、と笑顔で返答すると仕事に戻る。
「設楽君、娘さんは元気?」
設楽と狩鷺は妻帯者である。狩鷺の子供は二人とも高校生になっている。設楽はまだ幼い娘が一人いる。
「ええ。もう三歳です。いや、やんちゃですね。娘だから大人しいと思っていたら。とんだ思い違いでした」
「男女関係ないよ。一番エネルギィが有り余っている時だろうからな」
「狩鷺さんの所はどうなんですか?」
「うちは二人共男だったけれど、小さいころはまあ、休日の度に身体が筋肉痛だったよ」
ドアがゆっくりと開く。次に帰ってきたのは華葺だった。
じっとりとした目で室内を見渡すと、鼻から息を吐いてゆっくりと歩く。何も発言することなく、席に座ると、何か作業を始めた。
狩鷺の位置からは何をしているか見えなかった。
五分と待たずにぞろぞろと他の職員たちが帰ってきた。
「じゃあ、昼、行ってくるわ」
立ち上がった狩鷺を設楽が呼び止める。
「狩鷺さん、明日ですけど…」
「ああ、明日の午後だね。来年度からお願いしたいから。今回は特別に何かするってことは無いので、どんなことやっているかってことを分かってもらえれば」
「ええ。それで頂いた資料でちょっと良く判らないところがあって。教えていただけますか?」
「もちろん。どこ?今教えようか?」
「休憩後で大丈夫です」
ゆっくりと食べてきてください、と設楽が快活に答えたのを確認してから狩鷺は昼食に向かった。
明日の午後から、打ち合わせがある。
それも来月に開催されるイベントの打ち合わせである。このイベントはこの水処理センタと北可士和浄水場の共同で開催されるイベントであり、毎年恒例となっている。
明日の打ち合わせは浄水場の職員とこちら側の職員との合同の打ち合わせである。
狩鷺はこのイベントに関わって五年目になる。このイベントの担当は持ち回りでセンタの職員が担当する。任期は五年。つまり今年が最後になる。もちろん本来の業務の負担にならないような規模ではあるが、どちらの組織のトップも力を入れている。
とは言ってもどのトップが何かするわけではない。実行部隊は狩鷺たちなのである。
後任の人選は交代する本人に任せられている。
つまり、狩鷺に後任を選ぶ権利がある。
狩鷺は真っ先に設楽を推した。設楽以上の人選はいないだろうと考えての事だった。
彼ならばきっちりと取り仕切ってくれるだろうと期待していた。それは上司であろうが誰だろうがちゃんと自分の意見を伝えられるということにある。これが重要なのである。なぜならば、狩鷺以外の担当メンバが、穴吹、有馬そして華葺だからである。狩鷺が抜けた時の結果が非常に心配だった。
上手くいくだろうか、と呟きながら狩鷺は廊下を歩くが、その足取りは重く、靴音が廊下に響いていた。
同日、午後十三時。
北可士和浄水場の会議室で赤崎は欠伸を一つした。隣の青原が脇を小突く。
目の前にいる柚咲の目尻が上がるのを赤崎は確認する。
「赤崎さん、聞いてますか?毎年の事とは言え、ちゃんと確認してもらわないとイベントは成功しません」
赤崎はパイプ椅子を長机に引き寄せるようにして座り直す。自分より若い上司のいうことだが、正論である。否定することは何一つない。しかし、眠たくなるくらい同じ内容の話を続けられては眠くなるのも仕方がない。
翌日にある水処理センタとの合同打ち合わせの前に北可士和浄水場として、あらかじめ話を取りまとめておく時間を取った。合同会議を円滑に進めるためにも事前打ち合わせをしておく必要があるからである。
北可士和浄水場では柚咲を筆頭に赤崎たちがこのイベントを毎年担当している。
だから長年籍を置いている赤崎にとっては振り返ることすら苦痛になるくらいに慣れてしまい、流れ作業の一環になっている。ただし新人は初めての対外的なイベントになる。
青崎の隣に座っている黄田萌子は必死にメモを取っている。
「…以上が簡単な流れだけれど…ちょっと今年は新しいことをやろうと考えています」
柚咲は正面に座っている三人に向けて言った。
「新しいこと?」
青原は不審そうに言った。
「今までの展示じゃあかんの?」
気怠そうに赤崎は言った。
「いえ…そういう訳ではありませんが…」
言い淀む柚咲の姿に赤崎は、どうせ上からの要望だろう、と考えた。
柚咲は赤崎達の上司だが、その上にも統括する上司がいる。どうせその上司から違うことでもやれ、と言われたのだろうと赤崎は推測した。
こうした会議などの準備期間や当日の現場などに顔を出すことなく、最終日の撤収間際に顔を出してまるで一緒に頑張っていたかのように労いの言葉をかける。
勤務年数を盾に目の前でボヤいて見たが、こっちも忙しいという定型文で逃げられた。赤崎は一度でも話合いの場で戦闘放棄をした人間にはそれ以上追従することはない。
本人が自ら舞台に上がってこないような、そんな態度の人間には追い打ちをすることは意味がない。
「なので、何か新しい催しというか、ブースの展示案あるかな?」
柚咲はキョロキョロと目を動かして赤崎達を見渡す。案が出てくるのを待っているのである。
「今まではパネル展示だったよな」
横で考えている二人に赤崎は言った。
「そうっすね。水処理の流れをパネルで説明していましたね」
青原は顎に手を当てて考えながら言った。その青原を黄田が見ている。
「確かに大人でも興味あるやつしか見んやろうからなぁ。子供なんかにしてみればおもしろくもないやろうな」
イベント会場には親子連れもやってくる。浄水場から十キロほどの場所にイベント会場となるホールがあり、五月の連休終わりの土日がイベント開催日である。
「去年は企業の展示ってどうだったかな…見て回ったりしました?」
柚咲は再び尋ねる。
「見られないでしょう。ブースに張り付きなんだから」
青原が苦笑する。
「交代要員でもいりゃあな。煙草だって吸う時間あるんやけど」
「あんた勝手にいつも行くでしょうよ」
大きく目を見開いた青原が詰め寄る。
「それは冗談としてやね…新しいアイディアねぇ…」
隣でブツブツと呟く青原を無視して呟く。
イベントには関東近辺の下水道関係のメーカも参加する。
こうした企画は、規模の大小はあるものの、全国で開催されている。今回のイベントの規模は、この地域一帯のコンパクトなものではあるが、マスコミなども取材に訪れる。
赤崎がこの浄水場で働き始めてから開催されているので、歴史があるのだろうと考えたことがあったが、自分で調べることはなかった。
「パネルじゃなくて模型とかにしてみるってのはどうですか?」
青原が提案する。
「子供だけじゃなく、大人もジオラマって楽しいからな」
赤崎も加勢する。
「でもそれって結局パネル展示と変わらないでしょう?根本問題として」
柚咲は冷静だった。
「まあ、そうですけれど…写真があるって言っても文字だけじゃ分かり辛いかなって思ったんですよ」
青原は付け加える。
「んー、でもそれってコストかかるでしょう?あまりお金かけられないの」
「結構限られますね…」
青原は困った表情で言うと再び顎に手を当てて考え込む。
「ちょっと新しいアイディアとは違うが…」
赤崎は律儀に手を挙げて言った。
「ゆるキャラってやつを作って見るのはどうかな」
「だからお金がかかるでしょう?」
「だから金かからん奴」
「どんなのっすか?」
青原は笑いながら言った。
「そうやな…透明なキャラクタっておらんやろ。こう水をモチーフにしたキャラクタやな」
あの…と黄田が声を上げた。
「黄田さん、どうしたの?」
柚咲が優しく尋ねる。
「それだと…中の人が見えてしまいます…」
静寂が会議室を包んだ。
「ああ…なるほどな…子供逃げるわな」
「中に入っているおっさんと目が合うゆるキャラなんて気持ち悪いっすよね…」
「赤崎さん、もうちょっと真面目に考えてください」
赤崎を叱る柚咲の顔は後一突きしたら笑ってしまうようだった。
「真面目なんやけれどなぁ」
三人の顔色を見るようにしていた黄田が手を挙げる。
「お、今度はなんや?」
「あ、えっと、そのアイディアを…」
「何かしら?」
柚咲が促す。
「きき水っていうのはどうですかね?」
黄田は自信なさげである。
「きき水?利き酒みたいなこと?」
青原が食いつく。
「そうです。それの水バージョンです」
「酒なら真っ先にやるけどな」
「赤崎さん、真面目に。黄田さん、どういう感じでやるの?」
思ったより興味を持ってもらえたのか、照れた様子で黄田は説明を続ける。
「あ、あの私の大学でオープンキャンパスの時に研究室でやったことなんですけれど…」
黄田はR大学の土木工学科の卒業生である。
大学にはオープンキャンパスがあり、主に高校生が大学の雰囲気を見るために訪れ、大学を挙げて模擬講義や研究内容を一般的に落とし込んだ催し物を準備する。
黄田は水環境を専門とする研究室だった。
「はい。えっと方法は単純です。利き酒をする時の要領で…お酒ではなく、お水を用意します。私が在籍していた時は…確か、水道水、蒸留水、ペットボトルの軟水と硬水を準備しました」
「なるほど。処理した水道水と他の水との比較が出来るってわけだな」
青原は感心している。
「どういう進め方するん?」
「決まっているわけじゃありませんけれど…例えば四つの中から水道水を当ててもらうっていうのでも良いですね」
「その四種類なら四種類の水の種類を当ててもらうっていうのでもええわけね」
黄田が頷く。
「それだと難易度が上がるかも…。でも面白いかな」
柚咲は何度も頷く。
「詳しい進め方は、合同打ち合わせで決めましょう。とりあえずこちらからの案はきき水で」
会議がまとまりかけたところで赤崎が口を開く。
「ああ、そうだ。課長さん。投光器発注してくれましたかね?」
今日、赤崎達の課は夜番だった。浄水場の性質上、施設は二十四時間体勢で稼働している。手放しで浄水施設を稼働することはできない。
不測の事態が発生した場合に上水利用者への影響がダイレクトで発生する。
そのため、数時間おきに職員が交代で施設の見回りを行っている。
通常、朝番と夜番に分かれているが、シフトの都合上、今日だけは柚咲の課が朝夜の業務シフトを組んでいた。
今回の場合、職員の負担が大きいが、午後に休暇を取ることにして、夕方の六時から夜番のシフトに入る予定となっていた。つまり、今の時間は本来であれば仕事をしない時間帯である。
赤崎が依頼していたのは、車両型の投光器だった。浄水施設は屋外にあるため、懐中電灯と施設内の照明を頼りに見回りを行うが、本日、浄水施設を照らす照明が故障していることが報告された。
これに赤崎がすぐ反応して、修理が済むまでリースで投光機を積んだ車両をレンタルすることになった。
「それは手配しました。もう到着していると思います」
柚咲の返答に赤崎が満足すると、会議室のドアが開いた。
「あ、いた」
間の抜けた声を挙げて事務服姿の女性が入ってきた。
「課長~ごめんなさい」
泣くような声を出してパタパタと柚咲に近づく。背の小さい、くりっとした目が特徴的である。
「相良さん、どうしたの?」
泣きつくような顔で柚咲にすがる相良緑詩は手に持った用紙をヒラヒラと見せる。
相良は事務員の一人である。特に柚咲の課を担当することが多く、赤崎達もなるべく相良に事務処理をお願いするようにしている。
相良を気にしながらも柚咲は手に持っていた用紙を受け取って目を落とす。
「ああ…なるほど…」
憐れむような目で相良を見つめると、肩を優しく叩く。そしてその用紙を赤崎の方に差し出した。
赤崎は眉間に皺を寄せながら用紙を受け取って内容を確認する。用紙は三枚あった。一枚目に請求書とあり、その後ろが納品書と見積書になっていた。
内容はリース会社のものだった。たった今話に出ていた投光器のリース料の請求書である。
赤崎は上からじっくりと内容を確認する。自分が要望した性能の車両の様式が正しく記載されている。赤崎が要求したのは投光機を搭載した車両一台だった。
管理事務所のある建物から車道を隔てて浄水施設がある。その車道に投光器を積んだ車両を停車させて、施設を照らそうという案が赤崎のアイディアである。
請求書を見ていくと、柚咲の悲観した顔の理由が分かった。請求書の数量が間違っている。一台ではなく二台になっていたのである。
「おおーやっちゃったな緑詩ちゃん」
「ごめんなさい~気が付きませんでした…」
「安定のドジッ子だな。まあでもこれだけで済んで良かったんじゃないですか?」
青原は柚咲に対して言った。
「そうね…ダンプトラックが来なかっただけマシかもね」
柚咲の発言を聞いていた黄田がメモ帳を持つ手に力が入る。
「…そんなに…なんですか?相良さんって…」
「そうか新人はあまり接してなかったか。こんな子だけどな。憎めんのよ」
赤崎は笑顔で言う。
「失敗してもしかたねぇなって、それだけっすよね」
「赤崎さんたちで鍛えられたから、相良ちゃんの失敗なんて何も思わなくなったかな」
だから大丈夫、と相良の背中を叩く。
「おいボス、どういうことや?」
「まあそれは仕方ないっすね」
おい、と赤崎は青原を小突く。
「よく…わかりました」
黄田も笑顔になった。
「でもどうしましょう。もう車両来ちゃってますけれど…」
「緑詩ちゃん、別にええよ、二台使うわ」
「眩しすぎないっすか?」
「明るくて困ることないやろ」
「でも…苦情来ないですかね」
黄田はまだ心配している。
「なるべく山側に向けて焚くから大丈夫やって」
なあ、と柚咲に確認する。
「別に一台だけ使えば良いでしょう?わざわざ二台分使わなくて良いわけだし」
「お前は…それだと緑詩ちゃんの失敗が帳消しにならんやろう?」
「残念ですけれど失敗は帳消しにならないわよ」
赤崎は苦々しい顔で柚咲を見るがそれ以上は何も言わなかった。
「相良さんは何も気にしなくて良いよ。赤崎さん、二台も使わないで、一台だけで照らしてください。そもそも発注した時も一台で済む光量で試算したでしょう?それが二台もあったら過剰です」
またも正論を言われた赤崎は、いやだねぇ、と言うと青原に同意を求めた。
「柚咲さん、明日合同打ち合わせですけど大丈夫ですか?」
青原は夜番終わりの打ち合わせの事を心配していた。
「今回は仮眠を取って、交代で見回りしましょう」
本来であれば朝番、夜番は数人単位で交代制である。だから、夜番の担当は出勤が遅くなる。今回は翌日に打ち合わせがあったため、仮眠をとって交代で夜番を務める、特例の対応を取るということである。
柚咲が簡単にまとめて、会議は終わったが、各々が席を立つ中、赤崎だけは座ったまま腕を組んで重たい表情をしていた。
「何してんすか?行きましょうよ。夜までに終わらせる用事あるでしょう?」
青原が急かしても、ない、と重く呟くだけで動かない。
「赤崎さん、具合が悪いんですか?」
心配する柚咲の言葉も赤崎は耳に入っていない。
「いんや、体調は大丈夫。心配せんで大丈夫や、隊長」
「ああ、頭は回っているみたいっすね」
青原は気の抜けた声で言った。
その奥で、心配して損した、と呟いて柚咲は部屋を出て行った。
相良も赤崎に頭を下げてそれに続く。
「なんかあったんすか?」
青原と黄田が残り、何も言わない赤崎の言葉を待った。
「いや、なんか嫌な感じがしてのう」
正面を向いたまま言う赤崎に、青原と黄田が顔を合わせる。
「え?スピリチュアル?」
「俺はそんなんが一番嫌いや」
赤崎は青原の顔を見上げる。
「っすよね?」
「でも一度だけこんな感じになったことがあってな」
「ほう。じゃあ二回目って事っすね」
「一回目は中二の時やったかな…こうなった次の日に盲腸になってな」
「俺も柚咲さんと同じこと言って出て行って良いっすか?」
「それって…虫垂炎の前兆だったってだけじゃあ…」
黄田が呟く。
「もう、俺には切る盲腸が残ってねぇ。だからな、何か起こるんじゃないかって思うんよ。それは俺に降りかかることかどうかは分からん」
「昔一回だけそんなことになったってだけでしょう?データが少なすぎますよ。有意かどうかわかりません」
大げさに言う青原を赤崎は一瞥する。
「まあなんでもいいわ。とりあえずお前ら覚えてておいてくれ。今俺がこんなこと言っていたって」
「普段言わないこと言ったっていう意味で、かなりインパクトありましたからね。忘れられませんよ」
青原の言葉に黄田も頷いた。
よし、というと赤崎はようやく立ち上がった。スラックスとシャツの乱れを正すと、時計を見る。
「明日の弁当はステーキやったな。お前らどうする?仕出しにするなら明日は奢るわ」
「本当っすか?やった。無理して話聞いておくもんだな。なあ?」
「一食儲けました。赤崎さんありがとうございました」
律儀に黄田は丁寧に頭を下げた。
「やっぱりやめようかな」
赤崎の言葉は浮かれている若手二人には聞こえなかったようだった。
四月二十一日、午前五時。
不意を突かれるとどんな武術の達人でも隙が生まれる。
ましてや一般人だと尚更である。さらにそれが寝ている時ともなれば、全くの無防備でしかない。
狩鷺の妻のようにそれでも寝ているくらいの肝の強さがあれば、と狩鷺自身も思うことがあった。
結婚してまだ十年だが、すでに熟年のオーラが出ている。
その電話の呼び出し音は枕元のスマートフォンから発していた。
狩鷺は目を開けると首だけ右を向く。
隣で妻が寝息を立てて寝ている。今は背中を向けているため顔は確認できない。
次に身体を捩じって首を上げるとスマートフォンを確認する。
まだ呼び出しが続いていた。焦点が定まらない目を擦ってしばらくディスプレイを凝視する。
表示されていた番号がまず目に入った。一瞬で思考が巡り、横の妻を起こさないように出来る限り静かに、だが、迅速に起床してパジャマ姿のままリビングまで移動する。
手練れの武術家か忍者かだと錯覚する。まだ寝ぼけているのかもしれない。
後ろ手で襖を閉めるとリビングから台所まで移動する。その間に通話ボタンを押して回線を繋ぐ。
耳に当てながら台所の電気だけつけると冷蔵庫からお茶のペットボトルを取り出した。
「はい。狩鷺です」
片手でコップを用意してお茶を注ぐ。
スピーカからは焦った様子の声が聞こえる。
「あ、も、もしもし?狩鷺さんですか?」
声をよく聞くと設楽だった。設楽がこんな早朝に電話を掛けること自体今までなかったことだったので驚いていた。
それよりも、設楽だったら、朝早く大変申し訳ありません、と一言付け加えるはずだが、それも電話口から聞くことはなかった。
それだけで狩鷺には普通ではないことが起きたのだろうと想像がついた。
「何があった?」
そのため、狩鷺の口からは直ちにこうした台詞が出た。
「すいません…、すぐに出てくることできますか?こちらに来てください」
相変わらず切迫した声がしている。
狩鷺は着信のあった電話番号を思い出した。それは水処理センタの代表番号だった。
「分かったすぐに向かう。とりあえずそっちについてから聞くけど、それで問題ないんだな?」
この確認は電話口で指示をしないでも大丈夫か、という意味だった。
「はい。大丈夫です。よろしくお願いします」
通話を切ってから、まだお茶に手をつけていないことを思い出した。一気に胃に流し込むと狩鷺は身支度をするために寝室の襖を開ける。
行かなければならない大義名分があったので音を立てることを気に留めなかったが、妻が起きることは無かった。
同日、午前十時。
「風音ちんの作ってくれた資料すごくない?」
「先輩にそのタイプのフランクな語尾、くっつけるのやめた方が良いよ」
「え?そうなの。でも本人の目の前で言ってないから大丈夫でしょ」
こんな性格に生まれたかったと思う時が来ないことを原田は願った。
「確かに、しっかりまとめられているね」
鞄から取り出した無津呂が作成した資料を捲る。二人は北可士和水処理センタへ向けて移動している。
途中の駅で待ち合わせて二人で移動することになった。
「あのさー原田くん。私下水処理場のこと知らないんだよね。実は。だからさ、せっかくこうして気軽に話せる秀才君が一緒にいるんだから、教えてくれない?」
原田は表情を崩さなかったが、この子は何故環境工学研究室に来たのだろうかと思った。他の研究室であれば忘れることもあるだろうが、少なくともこの研究室を希望して配属されたからにはこれくらいのことは知っていなければならないだろうし、理解していなくても早い段階で理解した方が良い。
「いや、秀才ってわけじゃないから。これは基本的なことだよ」
「うん。基本って好きじゃないんだよね」
そう言う問題ではない、と口から出かけたが、抑えることができた。本人がそう思っているのだから現状維持としておいた方が良いと思い直す。
「そうか…じゃあ、最寄り駅に着くまでの間で説明するよ」
時計を見る。あと二十分程度である。
「さすが。頼りになるね。やっぱり知らないで行くのは相手にも失礼だからさ」
大原は笑顔で言った。
それならば自分で勉強すれば良いんじゃないのか、と再び原田の口から飛び出しかけた。自分が説明する責任も義理もないはずである。
原田は大原のためではなく、自分知識の再確認のために説明することに決めた。
「じゃあ、大原さんの質問に僕が答える形で説明しようか。その方が早く覚えるだろうし」
「そう?じゃあ…なんで処理場って川とか海の近くにあるの?」
「おい、マジか?」
「え?おかしい?」
原田は頭を両手で押さえている。
「いや、ごめん。君に期待していた。これは僕が悪い」
「褒められてないよね?」
「わかった。もう大丈夫。何で水辺の所にあるか、だったよね。それはね、処理した水を川に戻すからだよ」
「ああ、そうか。そうだよね」
「川から水を採水して浄化して人が使えるようにしてから配水して、各家庭や施設で使用される。使うと水は当然汚れるでしょう?それを川や海に垂れ流したらどうなるかは想像できるよね?だから汚れた水を下水管で下水処理場に送って、そこで使用済みの水の汚れや繁殖した菌を殺菌したりして川に戻すんだよ」
「わかりやすい」
「水文学って言葉は知っている?」
原田は少し後悔していた。
ゆっくりと到着まで待っていれば良かった。
「すいもんがく?初めて聞いた」
大原は大げさに言った。
「天文学っていう学問があるでしょう?その水バージョンだよ。天文学は天体とか地球外で起こる自然現象の観測や法則を発見するための自然科学の一分野だよね。それに対して水文学は地球上の水循環を対象とした学問のこと。天文学は天体の動きを対象としているけど、水文学は水の動きを対処とした学問なんだ。研究対象としては降水の地域的・時間的な分布や、蒸発、浸透、陸水や地下水の移動が中心」
「ふーん、水の一生みたいな感じ?」
例えは抜群だと原田は思う。
理解力は高いのだろうと推測した。
「雨が降って…山から川が流れてきて、家とかで水が使われて海に行ってそれが雲になってと言うやつでしょう?」
大原は得意げな顔だった。
「そう。だから下水として集まった水は綺麗にして海に戻さないとダメでしょう?」
「あ、じゃあ、飲み水とかはどうなるの?」
大原は上目遣いで言った。
「汗で身体から出てきて空気中に蒸発したり、尿でトイレから下水に流されるでしょう?」
「そうかぁ」
「地球が生まれてからその循環も大きく見れば変わりなく廻っているんだよ」
為になるなぁ、と笑顔で言った。
大原のリズムに乗せられていると感じたが、今更離脱はできなくなっていた。
「じゃあ、下水処理場そのものついて教えてくれる?」
「とてもざっくりした質問だね」
「結局ほとんど何も分かってないからさ。お願いします」
原田はこれから自分のために説明するのだと頭で言い聞かせる。
「今現在日本には二千を超える下水処理場がある。それは規模や処理方法も様々だけれど、これから向かう北可士和水処理センタをベースに説明するよ」
了解です、と大原は敬礼するポーズをした。
これをかわいいと思う男もいるのだろうが、原田には全く何も心動かされることは無かった。
「下水処理場の目的としては、さっきも言ったけれど、汚水を処理して安全な状態に処理した水を河川に放流すること。そのために家庭や工場から出た汚水を集めている施設になる。家庭や工場から排出された汚水は、地下に埋設された下水道管を通り、下水処理場まで流れてくる。一部でポンプによる送水はあるけれど、ほとんどは自然流下で下水が集まってくる」
「これから行くところもそうなの?でも…前に海に遊びに行ったことがあるけど斜面になってなかったような…」
「地下、つまり下水管が傾斜して埋設されているんだよ」
ほうほう、と大原は頷いた。
次に、と原田は続ける。いちいち大原のリアクションに付き合ってはいられない。
「下水処理場の処理方法だけれど、大きく二つ、施設によっては三つの処理段階に分かれている。それは一次処理、二次処理、高度処理の三つ。今挙げた三つの処理はこの順番で行っているんだ。高度処理は二次処理終了までに排除できなかった浮遊物や有機物を処理するための方法で、北可士和水処理センタでは高度処理は無いから、説明はこれくらいにしておくよ」
「大きく分けて二つっていうのが一次処理と二次処理ね」
大原が言った。
原田は頷く。やはり飲み込みは早いのではないかと思う。ただ人の話をよく聞くだけかもしれない。
「実は一次処理と二次処理の前にもう一つ前処理というのがあるんだ。それは汚水が最初に集まるところで行われている。汚水は最初に沈砂池という所に集まるんだ」
「ん?沈砂池って聞いたことあるかも…」
大原は思い出しているような顔になった。
「ああ…浄水場にあるかな。役割もほとんど同じだよ。大きなゴミとか砂とかをここで取り除くんだ。下水導管が地下を走っているから、沈砂池も建物として半分地下に建てられていたり、まるまる地下に建てられたりしている。大きなゴミが沈殿したら、ポンプで地表面まで汲み上げていくんだ」
「ああ、浄水場と同じなんだ」
大原が次は浄水場について話せと言わないだろうかと思い始めた。
電車の車内には人がほとんど乗っていない。
座席はところどころ空席が見つかる。
子供を連れた母親らしき女性や老人が数組いた。
平日の午前中の電車内という光景ではいたって普通である。
車窓から流れる景色を横目に見ると、遠くに海が見えていた。
下水処理場が整備される前、汚水は海に垂れ流しだった。
それが、いくつかの公害や技術の発展を迎えて今や浄化技術は世界の中でも目を見張るものになっている。
浄化技術が発展していなければ、果たしてどうなっていたのだろうかと原田は考えることがあった。
今、目の前にいる同期は、何も考えてないのだろうな、とも。
「前処理が終わったら、次が最初沈殿池だ。ここが一次処理という段階になる。最初沈殿池でも下水をゆっくりと流して、比重差を利用して比較的重い泥などの沈殿性有機物を分離・除去させる。ちなみにこれを用いない処理方法もあるけどね。ここで沈殿した泥はポンプを使って汚泥処理施設に送られる」
「重力を使って分離する方法が多いんだね」
大原が言った。
「水に浮いている浮遊物が多いからね。それは重力下では勝手に沈降して行ってくれるから。なるべく単純な方法の方が強い」
「高度な設備が必要ないっていうのは楽だよね」
その分、シビアなことが多いはずだが原田は黙っていた。
「確かに低コストである程度の浄化を行える方法だよね。さて、次は二次処理。一次処理が固形物を物理的に処理する方法なのに対して、二次処理は生物的処理と呼ばれている。考え方としては微生物を利用し、有機物を除去する方法だよ。これはうちの研究室でも研究テーマに上がっているよね。現在、ほとんどの下水処理場ではこの方法が取られている。生物的処理には目的や状況に応じていくつものやり方があるけど、最も使われている方法の標準活性汚泥法と呼ばれている方法に関して説明すると…」
「え?微生物を利用するの?」
大原が驚いている。
「そうだよ。例えば細菌や真菌、つまりカビだね。あとは藻類や原生動物なども使われている。主に使われるのは細菌類だけど、原生動物なんかは細菌を餌にする個体も存在するから、食物連鎖みたいになるね」
「その、標準活性汚泥法ってどういう方法なの」
「そんなに難しい方法ではないよ。今挙げた微生物は有機物を餌としている。だから一次処理が終わった段階でまだ水の中に浮遊溶解している有機物を取り込んでくれるんだ」
「ああ、なるほど。ん?でもそうすると微生物も増えちゃうんじゃない?」
「有機物を食べた微生物は、言う通り増えていく。でも成長すると体積が増えていくから重力で沈降するんだよね」
「お腹いっぱいに食べて成長すると重くなって沈んでっちゃうってこと?太っちゃうわけだ」
「そう。もっと言ってしまうと、有機物は微生物が消費分解して水や炭酸ガスに分解できるんだよ」
「へー、無害な物質になるんだー。微生物すごーい」
大原は拍手しながら言った。
原田はその動作が、大原が本心からやっているように見えてきた。
つまり気に入られようと計算しているわけではない、ということである。
「そんなところかな…振り返って、流れで言うと、最初沈殿池の次に生物反応槽ってところに下水は移動して、ここで活性汚泥を加えて空気を吹き込んでかき混ぜるんだ」
「空気を吹き込むっていうのは?」
大原の質問から、処理場に興味を持っていることが分かる様になってきた。
少しは研究室に貢献したかもしれないと原田は思った。
「活性汚泥は生き物だから、酸素がなければ活性化つまり反応しない。そのために生物反応槽の中に空気を吹き込むんだ。金魚鉢とか熱帯魚水槽の中に泡の出るやつ入れるでしょう?あれと同じ。空気を吹き込まないと死んじゃうからね。汚泥中の微生物が死んでしまうと臭いも発生して臭くなる」
大原は納得したように頷いた。
「生物反応槽で処理した水は次に最終沈殿池に向かう。ここではゆっくりと処理水を流下させて、水中に残った活性汚泥を沈降させる。そうすると上澄み水が分離することになる。底に沈んだ汚泥は生物反応槽に戻されて再び活性汚泥として働くんだ。これは返送汚泥って呼ばれている。この処理を続けていくと汚泥量は多くなっていくから、増えすぎた分は汚泥処理施設に送られる。そして、上澄み水は一旦集められて殺菌消毒のために次亜塩素酸ナトリウムを注入されて、最後に川に放流っていう流れになる。一通り説明するとこんな感じ」
やっと説明を終えた原田はぐったりとした。やはり人に説明することは労力が必要である。特に予備知識がない人に向けての説明は苦労が倍になる。
電車のアナウンスが二人の降りる駅名を告げる。結局、ゆっくりと移動することは叶わなかった。
車両を降りて改札を抜けると、閑静な住宅街、というありきたりの表現以外見当たらない町並みが広がっていた。
気持ちばかりの広さのバスターミナルを眺めていると、そこに無津呂が立っていた。バスターミナルの隅、仮に駅から人が大量に出てきたとしても邪魔になるような場所ではない。そんな位置に無津呂が立っていた。
「あ、風音ちんじゃない?」
大原も気が付いたようだった。
無津呂は大原の声でこちらに気が付いたようで、二人を向いて手を振った。手以外は全く動かないので、そうした人形だと言っても誰も気が使いないのではないかと原田は思った。
二人が無津呂に近づいても動くことは無かった。
「風音ち…さん、もしかして私たちを待っていてくれたんですか?」
大原は笑顔だった。声色も喜びが前面に出ている。
目上の人につけるべきではない呼称を我慢したのは褒めるべきことだと原田は思った。
「あ…うん…ここから少し歩くんだったなって…思い出した」
確かに少し距離があった。バスで行くにも丁度良い停留所が無い。働いている職員たちはどうしているのだろうかと気になった。
「え?じゃあ…私たちも風音さんの車に乗せてもらえるんですか?」
無津呂は黙って頷く。
原田も少し期待していたので好都合だった。
こういう時は大原の様に懐にすっと潜り込めるような精神力の強さが必要なのだと理解した。
「やったー。原田君、良かったね。歩いて行くところだったから」
「そうだね…。ありがとうございます。無津呂さん」
無津呂は無表情で、ああ、か、おう、か、はっきりと聞き取れない声を発しただけだった。原田は良く判らなかったが、こういう時に男性は笑顔で強気になるのではないかと思った。
それが大多数の反応であるのならば、無津呂は少数派ということになる。
駅から離れたところに車を停車させたようで、無津呂は向きを変えるとヒョコヒョコと歩き出す。その後ろから大原と原田が続いた。
バスターミナルを抜けると、道が三つに分かれる。正面が商店街で左右が市街地、右手に向かうと海の方に行くはずだと原田は考える。車窓からの風景を照らし合わせた結果だった。
無津呂は道を左に向かう。すぐにコインパーキングがあり、そこに車を停めていた。
ミドルサイズだが、軽自動車だと無津呂は言った。
「小回りが利いて乗りやすいですよねー。素敵。風音さんが買ったんですか?」
無津呂は首を振った。
「…同期の…後輩の車を借りた」
「あ…そうなんですね。風音さん、結構顔が広いんですね」
ものは言いようである。その発想が素早く出てくるところも才能だろうと原田は思った。
無津呂が準備してきた試料採取の道具等が助手席に置かれていたので原田と大原は後部座席に並んで座った。
「…シートベルト…お願い」
確かに無津呂が言う通りだが、それにしても律儀だと原田は感じた。助手席はシートベルトをしている割合は高いが後部座席はしていない人も多いのではないかと原田は思っていた。
「百パーセント了解です」
大原は敬礼をするとシートベルトを締める。発言の意味は原田には分らなかったが、教えてもらっても、そうなんだ、くらいしかコメントできないだろう。
原田も黙ってシートベルトを締める。無津呂はそれを確認してからエンジンを回した。
この分だと法定速度をきっちり守って走行しそうだと原田は予想した。
車がパーキングを出て車道に乗ると、そんな様子はなく、それよりも車の流れを遮らないような運転だった。
「無津呂さん、車運転するんですね。意外でした」
原田は思っていることを素直に伝えた。
「…運転しないように…見えた…ということ?」
想定外だったため原田は珍しく狼狽えた。
「いや、その…下宿先大学の近くですよね?車必要ないんじゃないかって思って…」
バックミラーに映る無津呂と目が一瞬合う。
「…たまに試料を…採取する必要があるから…自転車だけだとつらい」
そうですか、以外に言葉は見つからなかった。
大原はスマートフォンを取り出して操作し始めた。原田は無津呂と会話が弾む話題を持っていないことを少し反省するが、運転に集中しているのだと自身に言い聞かせて黙ることに決めた。
することが無いので空を見上げた。
朝の天気予報で今日は夏日だと言っていたことを原田は思い出した。
確かに空に浮かぶ雲が夏雲と言って良い形をしている。
日差しも強く、乗ってきた電車の車両に冷房が効いていたことを思い出した。
車内の空気が籠っている気がしたので窓を開けることにした。無津呂に了解を取って窓を開ける。空気が生臭かった。海が近いからか、それとも処理場が近いからなのか、原田には判別できなかった。
交差点で一旦停止すると、無津呂が口を開く。
「あそこだよ」
後部座席にいてもかろうじて聞こえるであろう、無津呂の声が北可士和水処理センタへの到着を告げた。
淡いクリーム色だが、よく見ると緑色も混じっている鉄門だった。
原田はその色の名前は分からなかった。その鉄門の手前、外の車道のところに、処理場には似つかわしくない人物がいた。
紺色の制服姿の人物が二人、立ち話をしているように原田には見えた。
「…警察がいる」
無津呂は喋りながら処理場の入り口を入ろうとする。立ち話をしていた警官の横は通り抜けられたが、敷地内に入ってすぐに別の制服警官に止められた。
「どちら様でしょうか?」
制服警官は無津呂に聞いた。警察官はそんな聞き方をするのだろうか、と原田は思った。横の大原も頭を動かして状況を把握しようとしている。
無津呂はたどたどしく、自分たちが何者でどうしてここに来たのか、説明した。
「ちょっと確認しますから、車、そこに停めて待っていてください」
警察官が指し示す先には駐車場があった。今は警察車両が数台停車しているだけで他に普通車両は置かれていなかった。来客用の駐車場なのかもしれない、と原田は思った。
無津呂は丁寧に切り返して車を停めると、原田と大原にここに残る様に伝えて、自分は車を降りた。
外に出てすぐ、きょろきょろと顔を動かし、警察官を見つけると、文字通り小走りで近寄って行った。
まるで子供と大人くらいの背の違いだったが、無津呂の一生懸命な説明が伝わってくる光景だった。
警官との会話が終わり、こちらに戻ってくると無津呂は車に乗り込まずに運転席の窓から顔だけ出した。
「…死体が…見つかったって…」
囁くような声で無津呂は報告した。その報告は大きな声で言って欲しかったと原田は思った。
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