過剰な浄化とジョーカーと~Excessive Purification~
八家民人
第1話 プロローグ
四月十日、午後四時。
「ママぁ、お腹空いたぁ」
玄関に入ってくると靴をたどたどしく脱ぎながら、ひよりが声を上げる。
「待って。家に帰ってきたらぁ?」
「手を洗うー」
ひよりは設楽美咲を見上げながら言った。
指先を広げながら手を挙げている姿が美咲を愛らしい気持ちにさせる。
「そうねー。ちゃんと手を洗ったら座って食べましょ」
はーい、と元気に声を上げたひよりは、保育園の制服を乱暴に脱ぐと廊下にまき散らしながら洗面所へと向かう。
着替えを辿って行けば、ひよりを見つけられる。
保育園に迎えに行くついでに、スーパに寄ってきた。
夫婦共働きになって半年、今までひよりが家にいない間に済ませることができた家事も優先順位は低くなった。
それでも収入が上がることに比べれば些細なことだと美咲は思っていた。とは言っても、ひよりが小学校に上がるまでは、仕事のスタイルを時短にして送り迎えに行ける時間を確保しなければならない。
夫の仕事は朝早く、夜も遅い時があり、それも決まっているわけではないので不規則である。日常生活のサイクルに組み込むのは難しい。それでも仕方ないと美咲は思っていた。
両手に持ったスーパのビニル袋が掌に食い込むのに耐えながら、美咲は廊下を抜けてキッチンに向かった。
キッチンにビニル袋をそっと置く。インフルエンザが保育園でも流行り出している。予防接種を受けさせたが、自分が外から持ってくることも考えられる。
美咲はキッチンのシンクで手を洗っていると、洗面所の方から軽い足音が聞こえてきた。
「ママぁ、プリンは?」
ひよりは手を伸ばしてビニル袋を漁ろうとしている。
「待って」
美咲は手の水気を拭き取るとひよりを制した。中には卵のパックも入っている。落とされたらまた買いに行かなくてはならない。
「ほら、卵入っているでしょう?落ちたら、だし巻き卵、食べられなくなっちゃうよ?」
「嫌だぁー」
拒否を示してはいるが、心から言っているわけではなかった。
美咲はにっこりと笑う。
「大丈夫よ。割れてないから」
すぐに笑顔になるところは子供らしいなと思った。
「はい、プリン。椅子に座って食べなさいね」
プリンのカップと子供用のスプーンを手渡すと笑顔でリビングに向かった。
と、思ったらすぐに引き返してくる。
「あ、ママ、プリン、ぷっちんするから、お皿ちょうだい」
ひよりの中で流行しているタイプのプリンである。
「はい。どうぞ」
悪戯っぽい笑顔を浮かべるとひよりは、今度はちゃんとリビングに向かった。
美咲は首を動かしてリビングの壁に掛けてある時計を見る。
時刻は午後四時だった。今日は設備点検の業者が来る日だった。
普段の定期点検であれば午前中などに作業員が来るが、特別な点検らしく、各戸で希望の時間と日時を指定する形式だった。
美咲が指定したのが、今日の午後四時だった。仕事を終えて、娘のお迎えを終えてから帰宅するという、いつものルートであれば余裕で間にあったが、今日はスーパに寄ったのが余計だった。結果として時間の余裕は無くなっていた。
「そろそろね」
呟いたつもりだったが、リビングにいたひよりの鼓膜を震わせたようだった。
「何がぁ?」
全ての事が初めての娘の質問攻撃には、時折辟易することがあるが、それでもまるで教師のような気分にさせる。
その一点が美咲にとっては嬉しくもあった。今後、こういった回数が減ってくることを想像すると、今からすでに寂しくなることもあった。
「あのね、工事のお兄さんが家に来るのよ」
「なんでー?」
「ちゃんとお家で暮らせるかなって見に来てくれるの」
「そうなの。嬉しいね」
小さなスプーンでプリンを救うとひよりは笑顔で言った。
逃げるプリンと格闘する娘を見ながら、幸せな気分に浸っているとインターフォンが鳴った。
リビングの扉脇に置かれているモニタ付きのインターフォンを見ると、作業着姿の男性が映し出されていた。
通話のボタンを押して、来訪者を確認してから一階のオートロックを解除する、と言うのが普段の行動だが、今の美咲は通話のボタンを押す手前で一瞬躊躇した。
しかし、すぐに通話ボタンを押してビル管理会社の名前と自分の名前を告げた男性に対してロック解除をした。
美咲が躊躇したのは、作業着の男性の風貌である。少なくとも上下の作業着は見かけたことのあるタイプだったが、男性の頭を覆うように巻かれている黒いタオルが目についた。作業着の薄緑色に対して、明らかに違和感のあるスタイルだった。現場作業などで頭にタオルを被っている人を見かけたことはあったが、こうした室内の点検作業でそのスタイルはあまり見かけない。
そう美咲は思ったため、オートロックの解除に躊躇したのである。
設楽家は五階建て賃貸マンションの最上階である。今日の点検は水道関係のものだとポストに投函された手紙には記載があった。
築年数はそこそこ経過しているがリフォームが行き届いた部屋は美咲も悪くないと思っていた。
唯一の難点と言えば、給水塔まで上るための梯子が設楽家のベランダからしかアクセスできないことである。
頻度は高くないものの、こうした点検の際は作業員が室内を通り過ぎ、ベランダから屋上へと上がっていく。
普段は施錠されているため、ひよりがベランダで遊んでいたとしても誤って給水塔に上ることはない。
それでも、部外者が家に上がり込むのはいい気分ではない、と美咲は思う性格だった。
再び、チャイムが鳴った。玄関脇のチャイムの音である。
「お兄さん、来たー?」
「来たみたいだねー」
そう言いながら、美咲は玄関のドアを開ける。
「どうも、ビルメンテナンスの塗師と申します。給水塔の特別点検に参りました」
ドアの前に立っていた男性は、口元に笑みを浮かべてはいるが、目は笑っていなかった。モニタで見るよりも、頭を覆っている黒タオルが、目立っていた。
「ご苦労様です。どうぞ」
美咲は冷静に家の中に招き入れる。足元には、スプーンを持ったままのひよりも立っていた。靴を脱いで廊下を進もうとしている塗師を見上げている。
「こんにちは」
塗師はひよりに挨拶する。美咲は笑顔でひよりの背中に手を当てる。
「ほら、こんにちは、って」
目を見開いたまま塗師を見ていた。
「かわいいですね。何歳ですか?」
最後の質問は、ひよりに向かってだった。
ひよりはスプーンを持っていない方の左手で親指と小指を曲げて塗師に示した。
「三歳かぁ。偉いね。僕の子供の時は自分が何歳かちゃんとわかってなかったよ」
塗師はひよりと目線を合わせるようにしゃがむと、ひよりに笑いかける。美咲は安心した。気難しい人間ではないと分かったからだった。
「良かったね」
美咲の言葉に照れながら大きく頷く。
「では、ベランダから給水塔に上がらせていただきますね」
塗師は美咲を先頭に、ベランダへと向かった。
その後ろからはひよりもくっついてきていた。
「では、終わったらまた声をかけさせていただきますので、よろしくお願い致します。水道の方は普段通りご使用になれますので、大丈夫です」
美咲に向かって言う。
塗師は鞄からビニル袋を引張り出して、その中から靴を取り出す。点検用に別途準備してきたもので、薄く折り畳むことができるものだった。
よろしくお願いします、と美咲は言うと、夕飯の準備に向かった。
開かれた窓には、ひよりだけが立っていた。
塗師はベランダを右に進み、その先にある鉄製の扉の前に立つと、一旦荷物を降ろして鍵を取り出す。この鉄扉の反対側が非常時に破ることのできる仕切りである。
鍵を取り出そうとしていた塗師は、窓からこちらを覗くひよりに気が付いた。
塗師が笑いかけると、ひよりも笑顔を浮かべた。
「ねぇ、お兄ちゃん」
ゆっくりと振り向いた塗師は何度も瞬きしながらひよりを見た。
「何ですか?」
「工事するの?」
「ちょっと違うかな。えっと…お名前は?」
「設楽ひよりっていうのよ」
恥ずかしそうに自己紹介をする。
「ひよりちゃんか。ありがとう」
塗師は近づくと、しゃがんで目線を合わせる。
「お兄ちゃんはね、工事じゃなくて、点検に来たんだよ。点検ってわかる?」
「わかんない」
「この窓とか、ひよりちゃんの靴とか、物にはいろんな仕事があるでしょう?」
ひよりが頷くのを確認すると、塗師は続ける。
「もちろん、ひよりちゃんのお家も仕事があるよね」
「ひより、ねんねが好き」
塗師は笑顔になる。
「お昼寝が好きなんだね。うん。僕も好きだよ。それでね。もし靴が壊れちゃったら、修理したり、新しいものを買うことだってできるね」
「うん」
「でもお家が壊れたら、簡単に買えないでしょう?そうなる前に、悪くなっているところが無いか見て回って、もし悪いところがあったら、修理しなきゃいけない」
「うん」
「それが僕の仕事」
「ふーん」
「ちょっと難しかったかな」
「お兄さんはお家を修理しに来たの?」
「そうだね。本当はお水を貯めておく所を直しに来たんだよ」
「あのね、ひよりね、水道のお水好きじゃないの」
「どうして?」
「リンゴジュースの方が好き」
「そっか」
塗師は苦笑した。
「ひより、お兄さんの邪魔しちゃだめよ」
美咲がキッチンから顔を覗かせて言った。
「邪魔してないもん」
大きな声で言い返すひよりを塗師は笑ってみていた。
「ひよりちゃんはリンゴジュースの方が好きかぁ。でも、水道のお水も美味しいよ」
「そうかなぁ」
「んー、嘘ついた。リンゴジュースの方が美味しいね」
「何で嘘ついたのー」
「水道のお水も飲んで欲しいなって思ったんだよ」
お互いの笑顔が心の距離を近づかせるように見せかける。
「でも、水道のお水って台所とかに行けば簡単に出てくるよね」
「うん」
「でも、ひよりちゃんのお家の水道から出て来るまでは、とっても長い道のりなんだよ」
ひよりは首を傾げる。
「お水はね、長い旅の中で、ひよりちゃんの家の蛇口から出てくるんだ」
じっと塗師を見ながら頷いた。
「山があるでしょう?山に雨が降るよね。その雨は何になると思う?」
「うーん、わかんない…」
「うん。その雨は、土に染み込んで川になるんだ。その川はどこに向かうと思う?実はね、川の先には海があるんだ」
「海、ひより行ったことあるよ。でっかいお風呂。でもしょっぱいの」
塗師は頷く。
「そうだね。そうして海に流れて行った川の水は、その後蒸発して、雲になるんだ」
ひよりは空を見上げる。
そこにいくつかの雲が浮かんでいた。
「あれ?」
「そうだよ。その雲がもっと集まって、冷えると、雨や雪になってもう一度地面に振ってくるんだ。それがまた山に降ると川になる」
「ふーん」
「お家の蛇口から出てくるお水は、海に向かう途中の川から水を取っているんだよ。でもそのままじゃ飲めないから、綺麗にして飲めるようにしてみんなのお家の蛇口から出てくるようになってるんだ」
すでに飽きているような表情だったが、塗師は続ける。
「でも使った水が出てくるよね?排水溝に吸い込まれる水だよ」
ひよりは律儀に頷く。
「使った水はまたきれいにしてから川に戻しているんだ。さっき話した自然のサイクルの中で、ひよりちゃんやパパやママが使うための水を使わせてもらっているんだ」
塗師が説明を続けたのは、ひよりの後ろに立っている美咲に聞かせるためでもあった。娘が邪魔をしてはいけないと止めに入ってきたところだった。
「ひより、良かったわね。お兄さんに教えてもらって」
褒められたことに素直に笑顔で頷いた。
「ありがとうございました」
美咲は頭を下げる。
「いえ。むしろ勝手に話してしまって申し訳ないです。すぐに作業に戻りますね。十分ほどで終わりますから」
塗師は衣擦れの音すら発せずに立ち上がると、申し訳なさそうに言った。
「よろしくお願いします。さあ、ひより、家の中に入りましょう」
うん、と言うと、塗師に手を振って、バイバイ、と言った。塗師もそれに笑顔で答えると、鉄扉の方の施錠を外して、奥にある階段を上って行った。
「ひより、良かったわね。とっても勉強になること教えてもらったわね」
「うん、でも、お兄ちゃん、悲しそうだったよ」
ひよりは屈託なく言うが、美咲にはそれを感じることは出来なかった。
僅かに目を離しはしたが、会話の内容は最初から耳に入っていたし、ひよりを止めに入ろうと近づいた時もそんな顔はしていなかったはずだった。
子供だけがその微かな感情の違いを感じることが出来たのだろうか、と考える。
「そうなんだ。何か悲しいことがあったのかしらね」
そう言うしかなかった。
少なくとも、ひよりはそう感じ取っているのだから、それも間違いではないだろうと思う。
「うん、ひよりのプリン、お兄ちゃんに食べてもらおうかなぁ。ママ、まだあるよね?」
あるわよ、と言う美咲の顔は、ひよりにはどう映っているのだろうか、そんなことを考えながら、キッチンへと戻って行った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます