沈黙に積雪
増田朋美
沈黙に積雪
寒い日だった。本当に雪が降って、この時期らしい日であった。とにかく寒いのである。日が出れば暖かいが、夜と、朝は寒い。そんな日が、毎日毎日続いているのである。そんな季節だから、なかなか外出するのもむずかしく、部屋の中にずっといるという日々が続いていた。
その日も、由紀子は、寒いのも忘れて製鉄所に行った。何がなんでも、水穂さんに会いたい、と思うのだった。幸い、法律で、会うことを禁止されているわけではないから、雪道であっても由紀子は車を飛ばし、製鉄所に向けて車を走らせるのだった。道中、雪のせいで、視界が悪くなり、横断歩道を渡っているひとに気づかなそうになったこともあったが、由紀子は、製鉄所にたどり着くことができた。
「こんにちは。」
由紀子は、製鉄所の玄関である引き戸を開けた。中では何が行われているのやら、由紀子がそう言っても、誰も来なかった。
「こんにちは。」
由紀子はもう一度言って見る。
「わたしですよ。今西由紀子です。」
それを言うとやっと、中から、由紀子さんだ、という杉ちゃんの声が聞こえてきた。
「ああ、よく来たな、寒いだろうから、とりあえず入れ。」
そう言われて、由紀子は、製鉄所の中に入った。
「どうしたんですか?何かあったんでしょうか?」
由紀子は、そう言いながら、四畳半にはいる。四畳半では、水穂さんが、布団で眠っていたが、畳の上には、書道で使う朱液をこぼしたような色をした、内容物が散乱していた。
「畳なんか、3日持てば上出来だっていうのが、口癖になるのかもな。」
と、杉ちゃんがいうほど、ひどい汚し方だった。
「それもこれも、みんなご飯を食べないで、ずっと寝てるから、栄養がないってことだよ。」
「そうですね。それだけでもないと思いますけど。」
ジョチさんも、大きなため息をついた。
「だって、今朝も、ご飯食べさせたけど、箸休めの漬物しか、食べてなかったよ。ご飯は、体力のもとなのに。そこらへん、話しても無駄かなあ。」
杉ちゃんが、また言うと、
「まあ、人の、いうことは聞くのかもしれませんが、言ってくれる人が居ないので、食べないのでしょう。僕達ができないんであれば、専門家に頼むしかないでしょうけど。」
ジョチさんは頭の痛い話をはじめた。
「それが、できないのが問題なんです。普通の人ではありませんから。頼めば、塩をまかれて、追い出されるのが、落ちです。」
「そうそう、偉いやつはみんな、こういう、水穂さんのような人を、バカにするように作られてしまうからね。」
杉ちゃんも、それに付け加えた。
「だから、人には頼めませんね。御年寄は、えらい人の言うことはききますが、水穂さんの場合、説得してほしいと頼んでも、まず、銘仙の着物を着る身分の人に会うなんて、私の顔に泥を塗るのか、などと、言われますよ。」
たしかに、ジョチさんの言うとおりでもあった。偉い人たちは、みんな口を揃えて、汚らしい着物を着ている人になんで私が!と言うのである。偉い人が、身分の低い人に会ったというのは、すごいスキャンダルになるし、それを鴨にして、またえらくなろうとする人もいる。
「私が、お願いすれば、いいでしょうか?」
由紀子は、杉ちゃんたちにいった。
「私が、えらい先生を呼んでくることができたら、水穂さんも、楽になってくれるのでしょうか?」
ちょうどそのとき、また玄関の引き戸が開いた。今度は誰が来たのかと思ったら、ブッチャーの実の姉である、須藤有希であった。有希は、由紀子とちがって、名前も言わずに入ってくる。どんどん挨拶もしないで入ってきてしまう有希は、本人が容姿しか取り柄がないというほど、美人ではあった。特に仕事をしているわけでもないけれど、二尺袖の着物が、水商売を表すように見えた。
「由紀子さんが、絶望的に話してるから、内容は理解できたわ。それに、こんなに大量に吐いたんだから、水穂さんが、大変なのだってわかるわよ。」
有希は、すぐ杉ちゃんたちにいった。
「だったら、女ができることをやればいいわ。私が、えらい先生に来てもらって、見てもらえるようにしてあげる。」
「いや、それは無理だ。有希さんも、塩をまかれて追い出されるよ。」
と、杉ちゃんがいうと、
「大丈夫よ。女は、身分に関係なく、寵愛されることもある。楊貴妃も、小野小町も、身分的にいったら、決して高い人じゃないわ。それでも、歴史を動かせるくらいまでできるのよ。女と言うのはね。」
と、有希は言った。
「はあ、そうだけど、有希さんが、一人で、全部できるかな?」
杉ちゃんがまたいうと、
「大丈夫。今回は、そうならないように、由紀子と二人でやるから。由紀子さんが、情報を仕入れる担当。あたしは、実行する係。」
と、有希は言った。由紀子は、彼女の言うことは、妄想なのかもしれないが、実現できたら協力したいと思った。
「どう、由紀子さん。一緒にやりましょうよ。あたしたちが、虱潰しにえらい人を当たってみるわ。もし、失敗しても次のたまがあると思ってまたやればいいわ。」
「そうですね。しかし、それは、一つ問題がありますよ。有希さんが、偉い方を連れてくることには成功したとしても、水穂さんに対して、傷つけるような、発言をした場合、彼をどうするか、が問題です。彼が、傷ついて、よけいに食べなくなったらどうするんですか?」
「大丈夫です!」
と有希はいった。
「大丈夫です。女を武器にすれば、それをさせないように謀ることもできます。」
「しかしですね、そんな危ない橋を渡るのは、有希さんにも、水穂さんにも、危険なのでは?」
「他に、方法ないじゃありませんか。大丈夫です。あたしが、女を武器にして、絶対に水穂さんを見てくれる人を探します!」
有希は、声高らかにいった。由紀子も、もうそれしか手立てがないと思い、有希に向かって思わず、
「おねがいします。有希さん!」
と、頭を下げてしまった。
その次の日、有希が、由紀子の自宅アパートを、訪ねてきた。赤い華やかな着物を着た有希は、
「今日、渡辺病院の呼吸器科にいってきたわ。」
と、由紀子に話し始めた。
「あそこの病院、ちょうど後継者に変わったばかりで、医者は、世の中を知らない若造ばかりだから、大丈夫、すぐ落とせるわよ。」
有希は、いつの間にこんなことを調べたのだろう?インターネットで入手した情報だろうが、それにしても、よくそんなことを、知っているなと由紀子は思った。
「私が狙ってるのは、守谷という、まだまだ、若い医者よ。結婚したばかりだけど、奥さんとはうまく行ってないみたい。でも、評判は上出来なの。そこに漬け込めば、こっちに従ってくれるわ。」
守谷、という名前は、由紀子も聞いたことがあった。テレビ番組でも、見かけたことがある。それくらいすごい人だ。とても、家庭でうまく行ってないと思えないほど偉い人だけど、そういう弱みがあるんだな、と、由紀子は思った。
「そういうわけだから、そこさえつかめればできるってことだと思うわ。偉い人って、そういう事を掴まれると弱いのは、由紀子さんも知ってるでしょ?だから、それを言いふらすといえばいいの。簡単な技術よ。それさえすれば、そういう人は、こっちの思い通りになるのは意外に簡単。」
「有希さんは、そういうことができるってすごいわね。あたしじゃとてもできないわ。有希さんは、なんか、そういうことを生かした仕事につけるといいのに。」
由紀子は、有希の凄さに改めて感嘆してしまうのだ。そういう、女を武器に戦うなんて、由紀子にはとてもできない。
「まあ、いずれにしてもね、次の手は考えてあるわ。大丈夫だから、由紀子さんは、水穂さんの世話をしていてね。」
有希は得意そうに言った。
また数日後。由紀子は、いつもどおり吉原駅に勤務していた。駅員として、駅の掃除をしたり、障害のある乗客の世話をしたり。由紀子の勤める路線は、岳南鉄道である。そこのホームから、東海道線のホームが見えた。岳南鉄道は本数が少ないので、時々東海道線の電車がやってくるのを、由紀子はよく眺めるのであった。その時も、東海道線の電車がやってきたのであるが、そのなかから、乗客が出てくるのが見えた。その中に、赤い訪問着を来た、女性の姿が見えた。隣にいるのは、若い男性である。肩を組んで、楽しそうにホームを歩いているその女性は、多分有希だった。なんだか楽しそうにしているのであるが、それも、有希がその男性を陥れるための芝居なんだなと、由紀子は思った。なんだかそれができるということは、俳優にでもなれば有希さん、成功するのではないか、なんて、由紀子は思うのであった。
また、雪が降ってきた。今夜もきっと寒いのかなと、由紀子は思った。今日も、寒い中電車に乗る人の為に、由紀子は仕事しなくちゃと思い直して、次にやってくる電車を待った。由紀子が、勤務を終えて出ていったときは、雪は、数センチ積もっていた。それでは、また道路を車で移動するのが困難になったが、それでも、急いで家に戻った。同時にスマートフォンがなった。この音は、メールの着信音だった。急いでメールアプリを開くと、
「由紀子さんこんばんは。今日は、あの、守谷と映画見に行ってきた。それで、ちょっと、話を聞いてきたの。守谷先生、子どもができなくて、お母様に、重圧かけられているんですって。皮肉なことよね。偉くなると、こういう原始的なことに、敏感になるんだわ。もうちょっと、決定的な弱みを握って、それを掴んだら、私、水穂さんを見てもらうようにしますから。楽しみに待っててね。よろしくね。」
と、メールにはそう書いてあった。有希がそういう事をやってしまうというのは、自分にはどうしてもできないことだったから、由紀子は、ただ、ありがとう、これからもよろしくね、と打ち込むしか、できなかったのである。
その翌日のことであった。その日は、仕事は休みだったので、由紀子はいつもより遅く起きた。一人暮らしだとどうしても食事はおろそかになりがちである。由紀子は、昨日買っておいた、バケットを一切れ食べて、急いで服を着替え、由紀子は、また製鉄所に向かった。昨日の雪のせいで、雪が積もっていた。由紀子がいつも行く、裏道は、雪で塞がれていて、幹線道路を通っていくしかなかった。それと同じ考えの人が多かったのだろうか、道路はいつもより混んでいた。由紀子は、早く製鉄所に着きたかったが、なかなか到着しなかった。いつもより、30分以上遅れて、由紀子は、製鉄所に到着した。
「こんにちは。」
と、由紀子は、また製鉄所に入って、玄関先でそういう事を言った。
「ああ、由紀子さんか。お入りください。」
杉ちゃんの声がして、由紀子は製鉄所の中に入った。
「今、水穂さんのお昼をつくっていたところです。食べようが食べまいが、ご飯だけはつくっておこうと思いまして。」
杉ちゃんは、そういって、由紀子に、美味しそうにもられた雑炊の器を見せた。由紀子はそれを杉ちゃんから受け取って、四畳半に行った。
「水穂さんは、どうですか?」
と由紀子は聞くと、
「変わらないよ。相変わらずご飯は食べないし、痩せていく一方。」
杉ちゃんは、そう答える。由紀子はそれでは正直力が抜けてしまうのであったが、杉ちゃんに言われたとおりのことが事実なのだろう。杉ちゃんが四畳半のふすまを開けた。由紀子が失礼しますと言って中に入ると、水穂さんは、布団の中で眠ってはいたが、もう、疲れ切ってしまっているような、そんな顔になってしまっていた。由紀子は、水穂さん大丈夫?と声をかけると、ぼんやりと目を開けて、少し頷いた。
「おい、由紀子さんが来てくれたぜ。ずっと寝てるのも辛いだろ。お昼ぐらい食べたらどう?」
杉ちゃんが、そう言うと、水穂さんは、いらないと小さな声で答えた。これじゃあだめだと杉ちゃんは、大きなため息を付いた。
「いらないじゃなくてさ、せめて、食べてもらえないかな。せっかく、雑炊つくったんだからさ。」
と、杉ちゃんが言うが、水穂さんは、咳き込んだ。なんだか、消防車のサイレンみたいに、立て続けに咳き込んだ。杉ちゃんに馬鹿野郎と言われても咳き込んでしまった。杉ちゃんは急いで布団をめくって、背中を擦ってやったのであるが、銘仙の着物が見えたので、由紀子はちょっと、隠したくなった。
「杉ちゃん、お医者さん呼びましょうか?」
と由紀子はいいかけたが、それが水穂さんにとっては有害であることも忘れていた。杉ちゃんが、また馬鹿にされるかなというのも、聞こえないで、由紀子はスマートフォンをダイヤルした。ダイヤルしたのは、あの河太郎と杉ちゃんがあだ名している変な先生。先生はすぐに分かりましたと言ってくれた。そこだけでもほっとした。気持ち悪い顔をしているけど、誰か来てくれれば、ちょっと安心するものだ。
数分で、柳沢先生がやってきた。先生は、水穂さんの背中を叩くなどして、詰まった液体を吐出させてくれた。その時は、吐いたもので畳が汚れるということは免れたのであるが、
「ほら、こちらです。ねえ、良い建物でしょ。日本風のためものは苦手ではあると言ってたけど、私は、こういうものが好きなのよ。」
という声が聞こえきた。声の主は有希であることがわかった。
「そうだねえ。まあ、俺は好きじゃないけど、君って不思議な人でもあるんだなあ。」
と言いながら、若い男性がやってくる声も聞こえてくる。誰なのかわからないけど、有希が、誰か連れてきたということでもあった。
「さあこちらよ。私が、一番大事な人なの。」
そういう声がしていきなり四畳半のふすまが開いた。でも、年取った男性は、何も反応しないで、水穂さんの世話を続けた。由紀子は、この時、せめて布団をかけて隠しておくべきだったと思ったが、時すでに遅かった。もう紺色の銘仙の着物が、有希とその連れ合いの男性の目に、しっかり入ってしまっていた。
「ど、どういうことだ。君がこんな人と付き合っていたのか?」
守谷先生が、有希に言った。
「付き合ってなんかいないわよ。」
有希は、さらりといったが、でもちょっと手が震えている。もし、ここで守谷先生が、有希を詰問したら、有希は負けてしまうかもしれない。そうしたら、有希の持っている魂胆もバレてしまって、終わりになるのではないか、と、由紀子は思った。
「誰かいるにしても、こんなに低い立場の人を好きになっていたとは、思えなかった。そうやって、騙していたなんて。」
守谷先生は、そう言っている。それと同時に、水穂さんの口元から、出るべきものの本体がぐわっと姿を現した。本体は、やはり、朱肉のように真っ赤だった。由紀子は思わず、
「手伝って!恋愛関係の問題じゃないのよ!」
と、叫んでしまった。河太郎先生が、お願いしますというが、守谷先生は、何も言えないようであった。というより、このような事をする人物がまだいるということに驚いたようである。
「昔の白黒映画の世界に来てしまったみたいですね。」
なんていう事を言っているのだ。
「そんな事ありません!水穂さんは今ここにいるんです!」
由紀子が急いでそう言うと、
「薬を飲ませますから、体を抑えてて。」
と、柳沢先生が淡々と言った。守谷先生は、はい、わかりましたと、水穂さんの体にそっと触れた。
「もっとしっかり!」
そういう由紀子は、なんだか泣きそうになっている。由紀子も、有希も、同じ顔だ。水穂さんに、今逝ってほしくないというかおだった。守谷先生が、体を抑えると、柳沢先生が、急いで、水のみを水穂さんの口元に当てて、中身を飲ませた。そうすると、水穂さんの咳き込むのはだんだん静かになって、やがて眠り始めてしまった。
「しかし、どういうわけなんでしょう。こういう着物を着ている人が、まだいるとは信じられませんでした。もうとうの昔に、解決したと思っていましたけど、、、。」
と、守谷先生は、ぼんやりした顔をしている。その顔に、思いっきり強く叩いたのは杉ちゃんだった。
「馬鹿野郎!どんなやつだって、生きていなくてもいいやつなんかいないんだよ!」
と、杉ちゃんがでかい声でそう言うと、
「私にとっても、有希さんにとっても、水穂さんは大事な人なんです!」
由紀子は、金切り声で本当の気持ちを言った。有希は、それまでの化けの皮が剥がれたのか、一気に涙をこぼしてしまった。
「ほらあ、見てくれ。お前さんは、人から注目されるのになれているんだろうが、人を動かすって、本当は、大掛かりなことなんだよ。」
と、杉ちゃんがそう言っているのが聞こえてきたが、守谷先生に届くかどうかは、不詳だった。人から注目されるということは、なれてしまうと、それまでの苦労を忘れてしまうという副作用があるからだ。
「まあ、わからなくていいや。どうせ、そういう奴らは、同和問題とか、人種差別とか、そういうのとは一切縁がなく育っているだろうからさ。理解するなんてもともとできっこないわな。ははは。さあ、邪魔なやつは帰れ!」
杉ちゃんは、すぐに表情をかえてそういう事を言ったが、守谷先生は、
「いえ、残ります。」
と言った。
「はあ、なんでだ?」
杉ちゃんがそうきくと、
「彼がもし目が冷めた時、一人ぼっちで困らないように。有希さんが、あんな大掛かりなことをして、ここへ連れてきたのは、よほど、すごい人であることだと思いますから。」
と、守谷先生は言った。
「まあ、そういう事か。ちょっと、大人への階段を登ったな。」
杉ちゃんは、カラカラと笑った。それと同時に、水穂さんに布団をかけてやって、なにか手帳に描いていた柳沢先生が、
「ちょっと静かにしてくれませんか。水穂さんが、眠れなかったら可哀想ですよ。」
と、きっぱりといった。
「ああ、ああ、すみません。」
守谷先生は、恥ずかしそうに言った。
沈黙に積雪 増田朋美 @masubuchi4996
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