第8話【名も知らない部下】

 魔王討伐。とは、名ばかりの出陣準備をする。


 俺は、誰かの命を握る立場。かつて、嫌悪した男と同じ立場になったことを理解した。


 恐怖も、憂慮も、後悔もない。望んだことだ。


 俺もその立場になると、名もない友達に。同じサーカスの奴隷ピエロに、あの娘に約束した。


 月明かりが差し込む机の上に、赤い花が濡れた花びらを輝かせている。


「あぁ、名前がなかったんだよな。この花……」


 感傷的な光景に、独り言が漏れた。花弁から流れ落ちた雫が、土の上に吸い込まれていく。


 ネズミに似た男が、育てている花だそうだ。形見だか忠義の証だとかで俺に手渡してきた。


 奇妙なほど嬉しそうに差し出されたソレを、俺は受け取ったのだ。


 一切の感情がわかなかった。しかし、ネズミに似た男の前で、叩き割る気にもならない。


 その花よりも、魔に魅入られたような目のほうが強烈な印象を残したからである。


 まるで、狂信者だった。


 蠢動する瞳孔。せわしなく変化する表情。いびつな口元。


 ネズミに似た男は、俺を神のように崇めていると理解できた。


 奴をどん底から第一騎士隊隊長まで、引き上げてやったからだろう。俺が。


 ネズミに似た男にとっては、元奴隷の手が神の御手に見えたのだろう。


 中途半端な絶望を知るからこそ、まやかしに魅入られるのだ。


 本当の、微かの光さえも届かない闇の底に生きていれば希望など幻だと気付く。


 俺がそうだ。だからこそ、ネズミに似た男のフコウな人生を鼻で笑えるのである。





 ネズミに似た男と、はじめて対話らしきものをしたのは、魔王対策会議が行われる一ヶ月前。


 あの日。雨季のただ中にあるリテリュスでは、雨が降り続いていた。


 アンフェール大陸の中にあって、最も激しい雨が降るのはターブルロンド帝国だ。


 それを逆手に取った雨季特別訓練は、新米騎士の登竜門になっていた。


 滝のように流れ落ちる雨は、団員の五感を奪っていった。既に、半日以上が経過している。 


 この訓練に参加するのは、市民や下級貴族のみ。良家や上流貴族が泥に塗れることはない。


 当然、黒曜騎士団の半数以上は参加していない。


 彼らは、市民や下級貴族を尻目に温室のような快適な室内で、剣術訓練に汗を流している。


 とはいえ、中身は交流会のような雰囲気である。


 俺から、騎士隊長に任命されたネズミに似た男ことエメット・ブラッカー。


 奴も泥人形のようになった体を動かしていた。


 俺は、雨の振り込まない訓練監視所の柔らかな椅子に腰を深く落として資料を見る。


 ブラッカー、いやネズミの名前を覚えていたわけではない。手元の資料を見ていたのだ。


 足元には、清潔な葵色の絨毯が広がっている。頬ずりをしても、汚れることはないだろう。


 俺の横には、いまだに副官であるフェリシテが立っている。


 山吹色の瞳は、雷のような声を上げる部下たちに見据えられていた。


 俺とは、決して目を合わそうとはしない。


「ネズミのやつ、根性はあるな。いちいち、俺の顔を見てくるのは気に入らないが……」


 ネズミとは、よく目が合う。それは、奴が俺を目で追っているからだろう。


 命令することはあまりないが、例えどのような指令を与えても。そう、命を落とすような任務でも。


 目を輝かせて受け入れるだろう。いざというときは、使えるかもしれない。


 ネズミに似た男とは、対話すらしていないが。その忠誠心は、疑いようはないと思われる。


「ええ。凄いですね。あの成績で、ここまで訓練について来れるなんて……」


 フェリシテの平坦な声は、少し乱れた。その芸術作品のような表情からは驚愕を感じる。


 中空で輝くだけの太陽には、泥から這い上がろうとする虫の気持ちはわからないだろう。


 雨にも濡れていない泥の一つもついていない葵色の髪が、肩から流れている。


 それは、余りにも優美であり外の豪雨とはかけ離れたものだ。


 分かるはずがない。


 ネズミは、俺に見られていると気付いたらしく、踊るように体を動かした。


 命をかけて、俺の後を追ってくる。


 救い主への献身。


 かつて、奴隷サーカス団から救われた俺のような立場なのかもしれない。


 しかしながら、同情も憐憫も好意も抱くことはなかった。


 むしろ苛立ちを感じているくらいだ。無垢な子犬のようなその目つきや動きにである。


 俺は、ネズミの処遇についてどうすべきかを考えあぐねていた。


 しかしながら、自らに不退転の忠義を尽くすものをどう処理するか。


 皇帝を目指すのならば、答えを出さないわけにもいかない。


「自室に戻る。終わったら、適当に解散させてくれ。なぁ……。こんな訓練、実際に役に立つのか?」


 俺は、将来の計画を狸の皮算用であると一笑して、席から立ち上がる。


 机の上に、無造作に置かれた資料が目に入った。


 アルウィンが、アニュレ砦の団長は共有すべきと持ってきた各地の戦果情報。


 いずれも、押され気味だ。


 イストワール王国は、龍族との戦争で活躍した騎士団を中心とした編成で侵攻してきている。


 豪雨の下で戯れただけの騎士で、押さえられるわけがない。


 相手は、かつて豪雨すら操ったとされる龍族を打ち破った国なのだ。


 泥遊びの弱兵に止められるはずがない。


 何か、武器を持つべきである。俺たちだけの特別な武器を……。いや。


 俺だけの武器というべきだ。ターブルロンド帝国を勝たせることが目的ではない。


 俺の、俺だけの、国を作る。


 これは、来る将来のための地ならしだ。


 ターブルロンド帝国を弱体化させて、イストワール王国には滅びてもらわなければならないのである。


「リシャール団長。訓練を否定するものは、戦場で泣くという言葉があります。多民族国家であるターブルロンドが、いまだ国体を維持しているのは……」


 フェリシテの瞳に鋭さが宿る。無知な男を辱めてやろうという高慢な表情だ。


「あぁ、分かった。そうやって、亡国の道から目を背けてるといい。俺にとってはどうでもいい」


 俺は、さらに噛み付いてきそうな傲慢な貴族令嬢の言葉を遮るように訓練監視所を後にした。



 窓を叩く不快な音と、滝のように流れる雨。ゆううつな気分が、戦記をめくる手を止める。


 自室の時計に目をやると、もう日付が変わっていた。


 サーカス奴隷の身の上から御曹司に拾われて、文字を学んだ。


 そして、趣味ができた。高尚な趣味だ。


 とても平民がたどり着く領域ではない。いわゆる読書というやつだ。


 俺は、戦史や戦記を中心に読み漁った。ルグラン家所蔵のものは、ほとんど読破したと言える。


 机の上に、読みかけの戦記を置いた。


 ため息を吐く。何度目だろうか。国境の要所であるアニュレ砦がいまだに戦地にならない。


 イストワール王国が動かないのだ。


 アルウィンは、アニュレ峠になにかあるのではないかと疑っている。


 調査隊を何度か送ったらしいが。


 イストワール王国の秘密の作戦。いや、アンベールほどの剣聖が小細工を弄するとは思えない。


 ならば、他になにか。


 雨音だけの陰鬱とした部屋の中に、耳障りなノックの音が響いた。


「……誰だ」


 俺は、机に立てかけていたロングソードを握る。


 自軍の砦の中とはいえ、ここは最前線だ。暗殺者の可能性もある。


「黒曜騎士団第一騎士隊隊長、エメット・ブラッカーです。リシャール団長にどうしても話したいことがあります……」


 名前より役職で、ドアの向こうの顔が浮かんだ。気弱なドブネズミの顔。


 ネズミに似た男だ。俺に憧れの視線を向ける。気味悪い男である。


「少し待て。今確認する」


 俺は、立ち上がる。ロングソードを握りしめる手に力が入る。


 ドアに近づくたびに、薄気味悪い雰囲気を強く感じてしまう。


 のぞき窓を開けると、目を見開いたドブネズミの顔がそこにあった。


 他に人もいない。武装もしていない。黒い包を大切そうに抱えた軽鎧のネズミ男。


 微かに安息香のような匂いを漂わせて、口元を緩めたネズミ人間が立ち尽くしている。


「今、開ける。要件は手短にな」


 受け入れた自分に驚いた。この時間だ。要件だけ聞いて入室を拒絶することもできたのに。


 ドアを開けると、ネズミに似た男が感謝とともに深々と頭を下げる。


 俺の鼻孔に芳香が、吸い寄せられる。嫌な匂いではないが、発生源が問題だ。


 薄汚いネズミに似た男。


 俺は、息を止めた。執務席まで足早に移動して座った。ロングソードは、手に持ったままだ。


 執務席に座る俺に、再び頭を下げる。ネズミに似た男は、手に持った包を開ける。


 見たこともない。名も知らない赤い花が、包の中から現れた。


 第一章第8話【名も知らない部下】完。

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