赤い煉瓦造りの屋敷の3階の廊下を、どたどたと走る音が響いた。


「エーラン! 屋敷うちで走ってはいけませんとあれほど、」

「おれは、ここですけど」


 廊下に顔を出したフェイは、反対を向いて目の前のエーランをみとめた。


「あら。じゃあ、今走っていったのは」

「若さまでしょう」


 すました顔で答えるエーラン、推定9歳。若さまと呼ばれるアナンは12歳になった。


「ま、まあ。若さまが走るなんて、よっぽどお急ぎのことがあったのかしら。悪いことじゃないといいけど」


 ぶつぶつ言いながらフェイが引っ込んだ扉に向かって、ちろっと舌を出したエーランである。

 その直後に階段から上がってきた一団がいたので、彼はさっと廊下の端に寄って深々と頭を下げて待った。

 執事のダットの他に、四人の足が見えた。どうせまた、じろじろ見られているのだろうと思いつつ、エーランは気づかないふりをした。そして彼らが領主の部屋に入るまで待ってから、静かに階段を降りていった。向かった先は、いつもの厨房である。


「おう、エーラン、いいところに来た。池のナマズを引き上げに行くんだ。手伝えや」


 竹籠を抱えた料理長が誘うが、エーランは首を横に振った。


「奥さまに、薬草園へのお使いを頼まれたんだ。ここにはかごを取りに来たんだよ」

「それで、何かちょっとつまんで行こうと思ったんだろ。お前は大食いだからなあ。昨夜の煮込みの残りがまだあるぞ」


 エーランは喜んで椀を受け取った。


「なあ、エーラン。そろそろ料理の修業を始めないか。お前は器用だし、舌もしっかりしてる。旦那さまや奥さまには、俺がちゃんと頼んでやるから」


 料理長にそう勧められるのは初めてではない。厨房に入り浸っているうちに、使用人たち用の食事作りを手伝うようになり、向いていると言われてきたのだ。


「うーん。でも」

「お前、若さまの従者になること、諦めていないのか」

「お供だよ、お供」

「ああ、あれか。若さまのモモタローの話か。犬と猿と尾長鳥」

「うん。おれは若さまのお供をして、人喰い巨人族をやっつけに行くんだ」

「…うーむ。あのなあ。お前もじき十歳だ。若さまはモモタローじゃないし、巨人島きょじんじまに悪者退治にも行きなさらねえ。そもそも人喰い巨人ってのがいないことくらい、わかってるだろう」


 料理長は馬鹿にしたような態度は取らず、考え考え丁寧に話そうとした。エーランにもそれは通じて、不貞腐れたりはしなかった。


あかしは立てられない」

「は?」

「若さまが教えてくれたんだ。巨人族がいるとか、モモから生まれたモモタローがいるとかの証は立てられない。でも、絶対にいないという証も立てられない」

「…若さまも、小難しいことを言ったもんだなあ」


 料理長は、やれやれと天を仰いだ。


「でもね、それはどうでもいいんだ。おれが若さまのお供になって、助けになれたらそれでいいんだ。だって、北の大国が攻めてきてるんでしょう?」


 料理長はぎょっとして、エーランの顔をまじまじと見つめた。


「お前、そんなことを誰から聞いた?」

「旦那さまのお客人。おれが庭にいるのに平気で勝手に話してた」

「勝手にって…。目に入らなかったのかね。子どもに聞かせる話じゃない。お前も言いふらすんじゃないぞ。若さまにもだ」

「うん。若さまと話すことなんてないんだから、だいじょうぶ」


 視線を下げて言ったエーランを見て、料理長はしまったと額を叩いた。


「あ、あれだ。お嬢さまも大きくなられた。な? お前がお屋敷に来た年頃だ。若さまもそろそろ、お嬢さまべったりじゃなくなるだろう」

「いーや。どこでも走るようになって危ないから、ついてなきゃいけないらしいよ」


 エーランが暗い顔で言った通り、アナンはそのときも年の離れた妹の世話を焼いていた。

 領地を治めるために一つでも多くのことを学ばせたいという父親の意向は固く、次から次へとやってくる教師たちに手一杯のはずのアナンだが、その合間に妹のところへ通い詰めなのである。当然、エーランにお話を聞かせてくれることも無くなって久しい。今、お話を聞いているのは妹なのだ。一緒にいるフェイが言うのだから間違いない。妹はキンタローがお気に入りだという。


 料理長と話したせいか、かえって荒れた胸の内を抱えて、エーランは薬草園に向かった。

 領主夫人は薬草の扱いに長けていて、エーランにもよく教えてくれる。頼まれたものを間違いなく見分ける自信はあった。今頼まれているのは、怪我の手当てに使うものだということもわかった。

 林の続き、日が照りすぎない場所にある薬草園にいたエーランは、しばらくしてカーン、カーンという乾いた音に気が付いた。薪割りの音でもないし、キツツキでもなさそうだ。

 しばらく耳を澄ませていたが、一定のリズムを聞き取って、思わず音のする方へと歩き出していた。

 そして林の奥で、木の幹に木刀を振るっているアナンを見た。

 きれいだと思った。

 舞のようだったから。

 いや、本当に舞かもしれない。もっと前に、アナンと師匠の剣の稽古を見たことがある。それとは全く違った。

 この地の両刃剣は太い。兜に守られた頭に叩きつけるのが、主な使い方だ。もしくは先端を喉元に突き立てるように使う。鉄の剣は貴重品だから、下っ端は石斧で敵をぶん殴る。どのみち手持ちの武器は私物で、支給品ではないのだ。

 アナンが振るっている木刀は、長くて細い。それを、横向きに幹に打ち付けている。左から右へ、右から左へ。または斜めに。

 じっと見ていたエーランは、幹が人ならばと考えた。相手が振りかぶってきたときに腰を落として、胴に叩きつける。肩に叩きつける。骨を折れるだろうか。いや、こっちの頭が危ない。


「鼻息が荒いな、エーラン」


 手を止めたアナンに名を呼ばれて、エーランは手を掛けていた枝を思わず折ってしまった。


「おれに気づいてたんですか、若さま」

「うん。こっちにおいで」


 真っ直ぐに視線を向けてきたアナンの顔が眩しくて、エーランは頬を赤らめた。

 

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