唐紅を背負う一族 十

 ◆◇◆


 南方 藍省 崑崙山


 南に、渾沌こんとん


 大きな犬にも見えるその姿。だが、馬の如く脚が長い。逞しいが、顔がなくどこから出ているとも分からぬ嘶きが、女の絶叫のようでその声を聞いた者は耳を塞いだ。

 何を求めてか、渾沌はゆっくりと北上していた。邪魔するものあれば、再び嘶く。目の前でその声を聞くと、耳から血を流し、意識を失うと共に絶命するものもあった。

 その、声の性質か。


 洛浪もつんざき、耳を潰さんとする声に耳から血が流れていた。しかし、倒れはしない。渾沌の進行する眼前に立ちはだかり、近づくのを待った。

 近づけば近づく程に、声は耳を貫く。

 既に、洛浪の両耳の鼓膜は機能してはいなかった。ならばもう、構う事は何もない。


 洛浪の口からは、冷気が溢れる。「ふう」と息づくだけで、忽ち空気が凍りついた。冬が一番遠く遅い南方で、あたりは冬で満たされていく。

 その寒さたるや、援護の為に側にいる龍人族ですら身を縮こめる程であった。目の前に傾国の異形がいなければ、それこそ剣を握る手すら震えていただろう。


 その冷気に、殺意が混じった。

 洛浪は動いた。誰彼構って加減などできない状況で、洛浪は剣を抜く。その鋭い冷気を込めた剣を手に、渾沌の下へと潜り込んだのだ。


 再び、渾沌は嘶く。洛浪は耳奥のさらに奥にまで届くその空気の振動に、一瞬目眩を覚えるも、自らの唇を噛み締め足に力を入れる。めい一杯に力の入った足が、洛浪を前脚まで導くと、洛浪は剣を振るった。


 剣は肉と骨を断とうと一閃を引くが、浅く斬り込んだ所で前足が上へ上へと上がっていく。馬が驚き後ろ足で棹立ちする。その瞬間に、洛浪はあっさりと退避した。


 その前足が落ちるや否や。

 馬よりも何倍も大きなその身体が、大地を割る勢いで体重を乗せて大地を穿った。


 地が揺れた。

 地響きと共に音を失った者達は均衡を保てず、倒れ込む。そこへまた嘶きが空気すら貫いた。

 

 気を失う者、絶命する者が増える中、洛浪は血を流しながらも再び剣に冷気を込めていた。


 ◆◇◆


 北方 丹省 不周山


 北に饕餮とうてつ

 牛の頭部と大きく曲がった角が二本。四本脚の獣が猪突の勢いで山を駆け抜けた。咆哮が幾度となく丹省で轟く。

 特に不周山から近いイルド村は、村民は怯えて森の守り手と共に、鎮守の森の前に身を寄せ合っていた。


 山にこだまする饕餮の声が、まるですぐそばにいる様に響くのだ。


「ナギ様……」


 ナギと呼ばれた初老の女は、震えながら膝に縋り付く幼児達の背中を摩りながらも、目線と耳はしっかりと鎮守の森へと向いていた。


 ナギは白神が、何が起こっても助けてはくれないのだと知っている。は守り神ではなく、ただそこにあるだけの存在でしか無いのだ。

 ただ時々、人へと語りかける手段として白銀の神子や、自分の様な森と人を繋ぐ者が選ばれる。


 そして意地の悪い存在でない事もわかっていたが、少しばかり恨めしさを感じていた。


 ――せめて、村の人たちだけでも中に入れて!


 森神に選ばれたナギだけならば鎮守の森は受け入れてくれる。しかし、生きるもの全てにとって、神の領域は毒である。


 神域の恐ろしさを知っているナギは、咆哮が続く異形の意見に晒されながらも、村民と共に祈りを捧げる事しかできなかった。


 ◆


 不周山より南下した、雪深い山奥。

 その白に紛れる獣の姿、有。


 獰猛なる牛にも見えるその姿は、虎の牙を宿しぬらりと佇んでいた。

 じいっと南方を捉えては、何を考えているのか。次第に一歩、ゆっくりと動き始める。

 牛歩の足並みで、ゆっくり、ゆっくりと進んだが、次第に歩速が上がる。

 牛歩は並足になり、並足は駆け足となる。

 そして駆け足は猪突猛進で突き進んだ。木を薙ぎ倒し、山を荒らし、目に入った獣を存分に殺した。

 饕餮が通り過ぎた後は、黒い沼が生まれ業魔が湧いた。


 饕餮は走り続けたが、時折南方から逸れた。その先は、村だ。小さな妖魔避けの塀を打ち立てただけの小さな村。

 血に飢えた獣は歓喜の叫びを上げ、天へと吼えた。


 勢いが衰えないままに、饕餮はへと突き進んだ。

 その矢先、饕餮が村の外にいた村人へと今にも食いかかろうとした時だった。


 饕餮の前に、突如土の壁が現れた。


 ――ドオオォォッ


 と、饕餮が響かせる地響きにも負けず劣らずの地鳴りと轟音が山々に駆け巡った。

 硬い。見た目は土壁であったが、石の如く硬い。なのに何故か、饕餮がぶつかっても尚、ひびすら入ってはいなかった。


 そこで頭でも割れたなら良かったのだが。何事もなく饕餮は壁から頭を離す。と、頭がぐりんと真後ろへと反転した。


 そこには、優男とは思えぬ眼光を宿した静瑛とお付きの赤龍と共に、道を塞いでいた。


 赤龍は何かあれば、直ぐにでも身代わりになれる様に人の姿には戻らない。地面を這う様に飛んでは、静瑛と同じく異形へと楯突き、喉を唸らせる。


 饕餮は、新たな餌を見つけたと言わんばかりに身体の向きを反転させると、静瑛へと歩み寄った。のろのろと、その歩みは牛歩に戻っている。


 静瑛は、饕餮を気にする様子も無く一歩踏み込む。すると、地面が騒めく。生き物が地面の底を這いずり回っているかのように、地面がそこかしこで、ボコボコと波打つのだ。

 そして、静瑛は躊躇する事なく二歩目を踏み出した、と同時。突如、饕餮の下の地面が盛り上がった。

 猛々しい山が如し、山頂の小槍が如くその鋭く硬い地が饕餮の腹を穿った。


 饕餮の動きは鈍く、その土手っ腹にはしっかりと小槍が突き刺さり、更には小槍と同程度の硬度を保った土が球体となり饕餮を覆った。


 静瑛は精神を研ぎ澄ました。中は、見えずとも土の感覚が全て静瑛にも伝わっている。


「殿下、流石でございます」


 赤龍は誇らしげに、意気揚々と清栄に声をかけたが静瑛の顔色は未だ曇ったままだった。


「まだだ」


 その言葉で赤龍に緊張が戻った。

 どしん、どしん――と、岩を砕く音が閉じられたそこから重くも響く。


 そして――


 ピシッ――とひびが入る音が、静瑛の手の中で鋭い感覚となって返ってきた。次の間には、ガラガラと音立て岩は崩れ去る。

 黒い影を纏う、白き姿。

 饕餮は、ゆっくりとこじ開けてそこから這い出ると、静瑛に向かって、と笑ったのだ。


 ◆◇◆


 皇都 皇帝宮

 

 方々より詳細とはいかずとも今も各個交戦中との連絡が、届いたのは静瑛達それぞれが皇都を立って四日目の事だった。どれも、再生能力をもち、どれだけねじ伏せても立ち上がり、更には陰気で妖魔を生み出した。

 どれも中央部である皇都を目指していると目される、と並々ならぬ危機感を煽る物言いで志鳥は語っては煙の如く消えていった。

  


 皇帝宮の神農の居室。全ての報告を終えた、側近である白亮藺はくりょういは、鎮まらぬ状況に眉一つ動かさない神農を前にして戸惑いが生まれていた。

 揖礼する姿から、顔を上げ恐々と「この先どうなるのか」と問うても見たくなった。

 しかし、その神農の対面に座す神子の紅の瞳が更に恐ろしく、やはり言葉を飲み込んだ。 

 

「白侍中じちゅう、まだ何かあるか」

「……いえ」


 白亮藺の心中を見透かした、含みのある声音に彼女はいつも通りの誠心誠意皇帝に仕え侍る侍中となった。

  

 疑念を腹に抱えたまま、白亮藺が居室から去ろうかとしていた矢先、


「どうしますか」  


 と、神農の眼前に座する神子が神農に問う。白亮藺には何が何だか判らなかったが、気にはなった。神農はなんと答えるのか、そう考え揖礼をしながらも耳を澄ます。

 しかし、期待したよりもその答えは簡素なもので、ただ一言「ああ、」と答えただけだったのだ。

 それで、全てが終わると思いきや、神農の目が白亮藺へと向いた。その目は、気怠そうで嫌な気を纏っている。

 数日前までは、あれほど覇気を纏った姿を見せてくださったのに、と白亮藺はお仕えしていた皇帝が別人の様で不満が溢れる。

 神農はそんな事をお構いなしに居室の一角を占める、机を指さした。


「白侍中、そこの机の上にある書簡を取ってくれ」


 不満を胸に抱いたままだからか、白亮藺の足並みは心なしか重い。素直に机の上に置かれている丁寧に折り畳まれ閉じられた書簡に手を伸ばし渡そうと神農の側へと戻ろうとするも、目を通してくれと言われる。

 素直に応じ、白亮藺は端から広げていった。

 内容と言っても、全て名前だ。それも、全てに『姜』となの付く者ばかりだ。


「そこに記された我が一族を、明日の偶中ぐうちゅうの刻(午前十時)に鳳凰の間に集めよ」


 白亮藺は、再度目を通す。恐らく、難しくはない。どれも皇都に身を置く者ばかりだ。ただ――


「陛下、何をなさるおつもりですか」


 その書簡には、羅列された名前は全てではないが白亮藺が把握する神農の親族の名前が皇孫のを除いて記されていた。

 宴ではない。そこには、幼子や赤子まで含まれる。これには白亮藺も疑念を隠し切れなくなっていた。

 

「陛下……」


 しかし、白亮藺は口を継ぐんだ。何も疑う事すら許さぬ気迫が、白亮藺の言葉を遮ったのだ。そして、何事もなく神農は、 

  

「そうだな、皆には酒でも振る舞ってくれ」


 と、決して仔細は語らなかった。

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