唐紅を背負う一族 一
「何故あれが生きている」
暗がりの中、とある一室で男が呟いた。部屋には灯りもなく木窓も閉め切っているから、真っ暗闇も同然だった。
「忌々しい限りだ」
其の部屋には一人ではなかった。男が呟いた言葉に憎悪を込めて同意する。
「だが、殺すなら今だ」
「ああ、今しかあるまい。今ならば、あれは眠りの底。静瑛殿下も風左長史も居らぬ。従者も一人だけだ」
「陛下も今ならば手出しできまい」
互いに想いは一つである。二人に迷いはなく、すでに意を決していた。
気は急いている。一日でも早く、あれの命を積み取らねば。それこそ、
そして、
「皇妃は如何する。あれは風家の息女だ」
「……時に、犠牲は必要だ」
二人は互いに顔を見合わせた。およそ、その視界の暗闇は人では慣れる事のない闇だ。が、二人はお互いの顔を認識しているのか見合わせて頷いていた。
「では、明日」
二人は再度顔を見合わせ頷くと、一室を出て行った。
◆◇◆
外宮 第八皇孫邸
静瑛達が、それぞれ四方に旅立って二日も経った頃だった。
木窓がカタカタと揺れる。
木枯らし吹いて、またも雪がちらほらと舞い降りていた。
時は
その雲豹もまた、床に伏して猫の様に丸まって目を閉じている。床と言っても、寒いだろうからと女官達からしっかり敷物を頂戴して心地良い事だろう。
突如、室内の行燈が揺れた。ピクリと雲豹の首が上がり、その視線の先には寝台から一番離れた木窓が一つ開いていた。
風に押されて、きいきいと鳴く蝶番。雲豹は立ち上がると、とてとてとその窓に近づいた。その最中、雲豹の姿はゆっくりと人の姿へと変わる。
黒髪の青年の様相は、パタリと木窓を閉めると室内を睨める。
行燈の灯りが、尚も揺れたままだった。風は無い。
――何か、部屋の中に何かいる。
次第に行燈の揺れは大きくなると、「ふう」と声がして灯りは消えてしまった。
いよいよ暗闇となった部屋の中、外の木枯らしの音がひゅうひゅうと煩い。騒めく木々の音色すら、耳の中で残響して不安を煽っていた。
その音に紛れ、ひたひたと素足で歩く足音を獣人族特有の耳は逃さなかった。
雲豹――
「……新しい人ですね」
ぎょろりとした目玉が、紅く輝く。静かだが低い声と若々しい声がおり重なって独特な音になっていた。
蟲雪は震えて身構えていた姿勢から崩れる様に及び腰になり、耳と尻尾は完全に垂れ下がっていた。
気迫、気配、獣人族だからこそ、蟲雪はその存在が何者かを悟ったのだろう。
そして、ただ何も言わずに首を垂れ伏した。
「神子よ……どうか、其のお方の命をとらないで頂きたい」
獣姿では、うまく頭が下がらない。鼻先を地面に擦り付ける様に蟲雪は進言する。
目線は言うもがな足元だけを写した。それだけでも、身が震えそうになる程に恐ろしい。言葉を口にするのも畏れ多い。
蟲雪は自らが無作法であると承知の上だが、それでも出来る限りの誠意と礼儀を見せていた。
すると、またひたひたと足音がする。今度は、寝台から離れて蟲雪の目の前にしゃがんだ。
「俺の事、恐いですか?」
近づくと、より畏れが増した。目線をどこにやれば良いのか、ひたすらに眼前の存在から目を泳がせて視線を逸らす。
「怖いですか?」
二度目だ。蟲雪は、「こわいです」と子供が叱られた時の様に不安気に答える。嘘はつけなかった。使命感にも近い意志が、本音しか喉を通してくれなかったのだ。
紅い瞳が、より強く光る。
「脅かしてごめんなさい。でも、一度聞いてみたかったんですよね」
と、本人は至って平常心とでも言う様に淡々と蟲雪に語りかける。これで終わった、と蟲雪は胸を撫で下ろしたが、再び神子の口から言葉がこぼれ落ちた。
「何が、怖いんですか?」
まだこの問答を続けるのか。蟲雪は迷うも、やはり恐る恐る答えた。
「神子様の中に、何かいる」
蟲雪はそろりと目線を上げた。そこには、穏やかだが青年の様相が今にも獣と混じりそうになっている。
神子というよりは異形。其の姿を見ても尚、蟲雪は不用意に断りもなく拝顔した事を無礼に感じて、再び鼻先を床に擦りつけた。
「……そうか、やっぱり怖かったんだ」
と、神子は何かに納得した様に独りごちた。そして、邪魔してごめんなさいと呟くと立ち上がり蟲雪から離れて行った。
気配が遠ざかったが今度は足音がしない。気配を目で追う事も出来ずに不可思議に感じたままでいると、気配は何かを思い出したのか「あ、」と声を発した。
「彩華に伝言を」
最近知ったばかりの名前が唐突に飛び出て、蟲雪は思わず顔を上げた。
神子は、再び寝台横で皇孫殿下に向かって頭を下げていた。そして一礼を終えた後、蟲雪を見つめて必ず伝えてくれと紅い瞳が訴える。
「姜家が動く」
闇が言葉を飲み込むが如く、其の言葉を最後に神子は姿を消した。気配が消えると共に、灯りが何事もなく元に戻る。
背後で再びきいきいと蝶番が甲高い声を上げ、ひゅうひゅうと隙間から隙間風が入り込んだ。
冷たい空気が外での雪が本降りになっていると知らせ、漸く現実味を取り戻した。其の時になって、蟲雪は起きながらにして夢でも見ている気分に浸った。
◆◇◆
皇孫殿下の居室は、問題が起こらない限り何時も灯りを絶やさない。
木戸の隙間から聞こえる、小鳥の囀りと、獣の中にある本能的な感覚が蟲雪にとっての朝の報せだった。
そして、もう一つ蟲雪が朝の報せにしているものがある。これは、まあ一日の最初の楽しみだ。
「おはようございます。蟲雪、朝餉の用意が整っていますよ」
扉が開くと同時、蟲雪は四本足で勢い良く立ち上がると、いの一番に伸びをする。尻尾までぴんと伸ばして縮こまった身体をすっきりさせると、最後に欠伸をして漸く彩華の顔を見た。
その目の輝き様と言ったら――些か邪な目線である。
「可愛い……」
と、感極まった声で惜しげもなく蟲雪に言う。口許を手で覆っているが零れる笑みを隠し切れてはいない。様相は男装混じりで男に負けじと武力を見せつける女であると言うのに、其の様だけがしっかりと女性らしさを浮き立たせている。
成人男性に向ける言葉ではないし、下手をしたら侮辱である。だが、そんな事などお構いなしと言わんばかりに、彩華は無遠慮になっていた。
此処のところ忙しくこれと言ってしっかりとした休暇も無い上に、張り詰めた空気に晒され続けている。そんな時に現れたのが、大きな猫……もとい雲豹とあって、彩華にとっての眼福の姿がそこにある状態なのだ。
この邸に来てからと言うもの、彩華の目の輝きと女官達の文字通り猫可愛がりが未だ慣れない男は、其の言葉を発せられる度に眉間に皺が寄っていた。
「……彩華女士、俺は人の姿で過ごした方が良いだろうか」
「いや、是非とも今のままで」
真顔の龍人族を前に蟲雪はなす術もなく、眉間の谷間がより深くなった。
感覚を研ぎ澄ます上で、獣の姿は重要である。鍛え抜かれた感覚に獣の感覚を上乗せすると、それこそ勝る者なしと言った状態なのだ。
しかし蟲雪が獣のままでいるのには他にも理由があった。
『お前を私の不在時の代理として、殿下の護衛に任命する。彩華女士の命を絶対として動け』
と、少々無作法だが使えると
「……彩華女士、朝餉の前に少し」
蟲雪は明け方の話をする為、一時姿を人に戻した。すると、彩華も蟲雪の気を読み取り顔つきが険しくなった。そう言う面だけ見れば蟲雪にとって、信頼のおける人物になる。
「何でしょうか」
「昨晩、神子が此処に参じられた」
虚偽と思われぬ様、また悪意ある訪問でなかったと伝える様、蟲雪は慎重に言葉を吐いた。しかし、思いの外彩華は落ち着いていた。「そう」とだけ吐いて、続きを待っている。
「姜家が動くと」
それまで、蟲雪の姿に浮かれていた人物とは思えない程の気迫が蟲雪にも伝わった。彼女も矢張り、解洛浪と肩を並べる者である。殺伐とした殺気をひしひしと感んじながらも、蟲雪は彩華への信頼をより強くしていた。
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