目醒めし異形 七

 丹省から南の端へ 藍省 崑崙山

 

 そこでもまた、同じく獣の咆哮と身姿が目撃された。その姿は大きな狗に似た姿だった。熊の様に毛深く、馬に様に足が長いが、尾も長い。何より顔が無かった。

 虚無にも似たその存在だったが、気味の悪い野太い嘶きだけが確りと響く。


 雲省 高麗山でも同じだった。身体こそ獣に見えるが頭部は人に近く、しかし大きく天を穿つ牙が生えていた。高麗山を駆け回り、絶えず吠え続け、目につく獣全てを殺していった。

 

 そして、桜省 豊邑山付近


 虎にも似た姿であるが、羽の生えた何かが上空を目撃された。通り行く先々で嵐が吹き荒れ、山を荒らす。

 それがあちこちで嘶けば、立ち所に妖魔が湧いた。


 ◆◇◆


 皇都の混乱は一時的に治った。

 妖魔は消え、現れた業魔は次々に殲滅された。しかし、皇軍には大きな痛手が残った。将軍・校尉等の官位ある者達の半数が負傷し、兵士も三分の一が死亡または行方不明となっている。残りも怪我人が多く、皇軍、禁軍のどちらも、軍としての機能を失いかけていた。


 そんな混沌とした最中、全ての聖域を監視していた者達から報告が皇宮へと瞬時に志鳥により送られた。既に省軍が動き、混乱を治めるために動き始めているとの報告と共に皇都へと救援を求めていた。

 ただの救援では無い。どの存在も、国を滅ぼさんとするものだ。


 再び議会は開かれた。しかし、混乱が冷めやらぬ間とあって、場の空気重く沈黙が続く。

 その理由の第一が神農の不在だった。皇帝宮にて不調により動けぬ神農の症状だけが伝えられるも、そもそも不死たる存在に病がないだけに不安だけが募る。


 千年を優に超える時を生き、千年もの間国を治めた者達は悉く沈黙を貫き、その最たる男もまた政務から消えてしまったのだ。

 炎帝こそが国そのもので、国の傾きを神農が体現していると言っても過言ではない。

 国をどう動かしてしまったかも忘れてしまったのか、誰一人として救援をどうするか、どう皇都を立て直すのか、何一つとして口を開かない。


 神農一人不在のそこで、国は止まった。


 その空気こそ、陰惨とした都そのものだったかもしれない。家族を失った者も少なくはない。なんとかしなければと言う想いはあっても、気概が湧かないのだ。

 恐怖と混乱が思考を止める。そのまま、陰気に飲まれてしまうと思った矢先だった。

 一人の清廉とした男の声が部屋の中で鳴り渡った。


「四方に現れたという異形、私が向かいたく存じます」


 一人の男に視線が集まる。右丞相の背後で毅然と立つ静瑛だった。

 静瑛の眼前に座る、父である右丞相姜桂枝が驚いた様子で振り返る。右丞相にその気はなく撤回させようと口を開こうとしたが、それよりも早くまた別の男の声が響いた。


「では、私も共に参りましょう。と言っても、私が向かうべき地は静瑛殿下とは違えるでしょうが」


 右丞相と向かい合う形で座っていた左丞相の背後、風鸚史だった。誰もが呆然とする中、鸚史は続けた。


「他にも、二名推薦できる者がおりますが、ご決断は、おまかせします」


 どの様な決断だろうと、二人は意に返さないとそのまま口を閉じた。


「私は、風左長史に託すとしよう。風家として見事務めを果たすだろう」


 今度は、左丞相が淡々と述べる。挙動のない物言いは、子息を死地へと送り込む事に迷いはなかった。そして、視線は前方に座る右丞相へと向かった。


「どうされる。静瑛殿下は右丞相の言葉がなくとも動くであろうが」


 さぞや右丞相には左丞相の視線が挑発にも思えた事だろう。しかし、答えは一つしかなかった。

 

「……私も賛同しよう。姜右長史、任せる」


 渋々とだが、右丞相は同意した。賛同しなければ、右丞相として……姜一族としての立つ背が無い。


「では、風左長史。残りの二名は誰を任ずる」


 と、惚けた調子で右丞相の右隣に座っていた黄御史大夫が口を開いた。金の瞳が怪しく鸚史を覗き、白髪が混じり始めた金の御髪が否応にも目に入る。


「解洛浪が私と静瑛殿下同様に異能を持っております」

「それで、最後の一人は?」

「……黄御史大夫の曾孫様、黄軒轅にございます」


 鸚史は拱手の姿勢をし文字通り腰を低くする。というのも、顔を隠すのに丁度良い体勢だ。はっきり言うと、鸚史は黄御史大夫が父親の次に苦手だった。堂々と発言できる立場でないのもあるが、好々爺然として笑っている姿がどうにも読めないのだ。

 だから、自らの手の内を隠すために前に出た手で表情を隠す。別に御史大夫は敵ではないのだが、鸚史の中で曾孫に負けていると言うのがひっかかっているだけだった。 

  

「随分と言い難い名前であったか?」


 ほらみろ、と鸚史は腹の中で呟く。どう出てくるかが読みづらいのだ。「お前の曾孫だからだ」と言えればよかったが、立場上そうもいかない。

  

「黄軒轅には異能があるわけではありませんが、その実力は私よりも秀でていると言っても宜しいかと」

「であれば、もう一人おりましょう。郭……今は楊彩華、でしたかな?話では、我が曾孫よりも際立った実力の持ち主とか」


 更に鸚史はギョッとした。チラリと首を動かし、静瑛を見る。そちらも、彩華の名前が出た事で焦っていた。

 今の祝融から二人も護衛を引き剥がすのは、正直言って最終手段だ。その最終手段にでなければならない状況で、誰も護衛がいないという馬鹿げた状況だけは回避しなければならない。 

  

「彼女は、祝融殿下の命があって初めて動くでしょう。殿下の側にいるべき存在です」

「まるで、私の孫が殿下にとって従順でないと言いたげですな」

「そういう訳では……」


 ここが、私用の場なら「ど畜生、糞爺」とでも言って罵っていたかもしれない。が私用の場であれば、御史大夫は鸚史に感謝を述べる。馬鹿な曾孫を真っ当にしてくれて本当に感謝していると。しかし此処は公的な場。容赦をする必要などないと、態と鸚史を窮地に追い込んで楽しんでいるのだ。そんな狸爺を前に、鸚史は返す言葉が見つからなかった。


「御史大夫、息子を揶揄うのはその辺にして頂きたい」

「何、葬儀の様に暗い場を盛り上げようと思いましてな」


 ここには屍しかいないと、哄笑する。まあ、龍人族もいるのだから、死んでいたら空席になってしまうわけだが、と更に高らかに笑う。

 御史大夫の嫌味に、太尉はこれと言って反応を示さない。重暗い表情のまま、本当に屍にでもなったかの様だった。


「解家に関しては、本人に意向を伺う必要がありましょう。東王父君と言葉を交わすよりも早いはず」


 御史大夫がにこやかに笑む中、太尉の硬い表情が動いた。

  

「軍はこのまま皇都の後始末及び警護を続行させる。他省に手を貸す余裕はない」


 国は、皇都だけで成り立っているわけではないが、皇都が麻痺すれば、国として立ち直る事は遠くなる。現状の皇軍、禁軍では仕方のない状況であり、太尉の言い分は最もだった。何よりも、まだ完全に事が治ったとも言い切れないのもあった。

 まだ空気は重い。が、その空気を払拭するように、また声が上がった。


「では、玄家より。静瑛殿下並びに風左長史、黄軒轅、解洛浪には、本家精鋭を数名下に付けましょう」

「蒼家も同じく。玄家ほど、腕の立つ者はおりませぬが」


 厳格な玄家の後に、飄々とした風格の蒼家当主が続く。少しづつだが、場が動き出した。


 ◆◇◆


 皇帝宮の居室、神農は寝台から起き上がれなかった。

 千年ぶりの死の感覚は重く、更には神威に毒された影響によりまともに身体は動かなくなっていた。回復に時間がかかる。本当ならば政務に戻り、出来る限りの事は片付けておきたかった。

 ままならない状況で、身体が完全に回復するのにいく日掛かるかと考えていると、何気ない声がどこからか漏れた。 


「死ぬって、どう言う感覚ですか?」


 不敬とも取れる言葉の主に神農は目線だけを向ける。見舞いと称して神子が当たり前に皇帝の寝所の片隅に細君を連れ込んで、あまつさえ綿がしっかりと詰まった長椅子で寛いでいるのだ。呑気に皇帝に話しかける神子と違って、神子の隣に座る細君の方はカチコチに固まっている。


「無だ」


 今も、伏犧の支配下にでもあるかのような軽率な態度で過ごす燼を前にしても、神農は何も変わらなかった。神農は皇帝という衣を着ていなくても廉直な人物だ。その性格の表れと言って良いほどに実に潔く、不躾な質問であってもすんなりと答えた。

 神農にとって燼の問答は暇潰しの意味もあったかもしれない。すぐ側にいて、寧ろ何も話さずに居る事の方が、よほど苦痛だ。だから、暇つぶしには丁度良いと考える様にしていた。

 そして、その暇潰しの相手に神農も問いかけた。

  

「祝融は、いつ目覚める」


 燼は、固まってはいるが己に擦り寄って決して離れない妻の髪をその手でくしけずる。緊張で動けずにいるのもあって、出来る限りいつも通りに過ごし絮皐を安心させようとしていた。

 その甲斐あってと言うよりも、隣に絮皐がいると言う事実が、燼に余裕を齎していた。


 「もう直、ですよ」


 燼もまた、静かに答えた。

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