目醒めし異形 六

 伏犧の動きが、完全に止まった。その目が燼へと向かう絮皐の姿を視認した瞬間、伏犧の口元は口の端が吊り上がり、笑っていた。


「逃げろ!」


 神農は叫んだ。その声か、それとも伏犧の様子に気づいたのか、たじろいで前へと進んでいた絮皐の足が止まる。

 しかし、既に伏犧が動いていた。神農にあちこちに散らばる迅雷が絮皐の背後でピシャリと光る。ドンッ――と大きな岩でも落ちた様に、石畳が割れ焼け焦げていた。

 威嚇……絮皐へ向けてではなく、神農と燼を弄び、嘲る。

 神農もまた同時に動いた。だが、伏犧の目が逸れても尚続く迅雷に思う様に前に進めない。

 手こずっている間に、伏犧は動けなくなった絮皐へとゆっくりと近づいていた。


「燼……」


 絮皐はその身にひしひしと恐怖を感じながらも、燼の名を呼ぶのをやめなかった。たった、一つの文字を発するだけなのに声は震え、身体は動かない。

 怖い。身姿は燼だが、違う。

 雷を纏う姿が近づいて、絮皐にも段々指先にピリピリとした痛みが走った。


 それが、目の前の男の影響と思うと、突如、絮皐の腹の中が熱くなった。

 ドクン――と心の臓が脈打つ。


 ――これは、警鐘だ

 

 絮皐が理解するよりも早く、絮皐に身体に変化が始まった。身体が波打ち、龍へと転じようとしているのだ。

 絮皐にその意思はない。けれども、変化は止まらなかった。

 伏犧神の眼前。絮皐の身体は鉛色の鱗を鈍く光らせ、胴と尾は蛇の如く、その爪は獣の如く、隻眼の金の瞳は龍の本能のままに鋭く伏犧神を捉えていた。


 気怠げな姿はなくなり、荒々しい鉛色の龍の咆哮が豪雷を掻き消す程にけたたましく轟いた。

 威嚇か、刺々しいまでの気迫は大口を開けて、空を駆ける勢いのまま伏犧へと牙を向けた。しかし――


『混血龍は珍しいが、美くしくない。これが応龍に成るなどあってはならん……そうは思わんか、神農』


 絮皐の身体を稲光が包み込み、龍の啼き声と共に、その場で動けなくなっていた。

 神農は答えない。絮皐へと近づきたくとも、近づけないのだ。


『龍と人との婚姻は禁じたはずだが、時に人は龍に狂い、龍もまた人に狂う』


 動けぬ鉛色の鱗に伏犧が触れると、それまで稲光に呑まれながらもジタバタと暴れていた絮皐がピタリと動くのを止めた。

 ゆっくりと瞼を閉じて、深い息と共に呼吸も静かになった。すると、その身は波打ち人の姿へと戻っていく。

 伏犧は足元に転がった絮皐の顔を眺めた。右半分は火傷によって爛れている。その様だけが、伏犧の心を揺さぶったのか、小さく『哀れな龍だ』と漏らした。


 一瞬のしじま、神農は伏犧の背後へと回り込んでいた。伏犧は何事もなく振り返り、差し迫った神農を慧敏けいびんの眼差しで見やる。

 神農の手は閃光を纏う。迅雷とは違う、神血を使った封印術そのままを伏犧へと向けている。


「どうか、その肉体で暫くお眠り下さい」


 神農の手が、伏犧の腹にのめり込んだ。

 肉体全体に光が迸る。確実に封印術は伏犧の魂を肉体に縛り付け鎮めていた。しかし、不意を突かれたと言う反応はなく、伏犧は未だ笑っている。


『……そうだな、初めからこれが狙いであったな』


 伏犧は態と隙を作っていた。神農が近づいく事を逆手に取り、伏犧もまた神農の心の臓に掌を当てた。

 より激しい豪雷が神農の心の像目掛けて鳴き、そして突き抜けた。


 神農は背後に倒れ、意識を失っていた……いや、の死を迎えた。

 心の臓は止まっている。が、それはほんのわずかな刻の間だけだった。

 神農は、咽せて咳き込むと、再び起き上がった。


『……また、死に損ねたな』


 その言葉を最後に伏犧の気配は消えた。ふらりとそのまま倒れそうになる。だが、別の何かが目覚め足を踏ん張り持ち堪えた。


「クソッ」


 目覚めて早々に、皇帝の存在も忘れて悪びれもなく悪態を吐く。その言葉は神農に向けられたものではなかったが、だからと言ってそう易々と皇宮でする発言ではなかった。


「……計画通りですか?」

「……一応……だ」


 神農は座りこんだまま、立とうとはしなかった。へたり込んだと言っても良いかもしれない。それまで縦横無尽に駆け抜けた姿は何処にもなく、再び顔は青ざめ力ない姿を晒した。

 燼もまた力無く、ゆっくりと石畳に腰を下ろした。頭の中でぐわんぐわんと奇異な音が鳴り続けるのを抑えながら、ずるずると身体を引き摺って計画外の存在であった妻へと寄り添う。

 

 ――殺されなくて良かった


 燼は苦悶を浮かべて妻を抱き寄せた。安らかな呼吸と共に、夢の向こう側に聞こえていた伏犧の言葉が折り重なる。


『龍狂い』


 正しく、燼にとって今の自分がそれであった。このままでは、最悪の形で愛する者を失う事になる。


「気にするな、と言いたいが……眠らせたのではなかったのか」

「……その筈……でしたが」


 神農の顔は変わらず険しかった。良い塩梅に事が進んでいたが、それと同時に痛手を追う事も分かっていた。

 二人は時が来る事は判っていた。抗う術はなく、時の流れに身を任せるしか無い。しかし、些細な事象を起こす事は可能なのでは無いかと賭けに出たのだ。


 そして、伏犧をひとつ所に留めておくと言う計画自体は成功した。伏犧がそれを悟っていた素振りだけが気がかりではあったが。


 神農は皇都へと意識を向けた。


「……都は鎮まっただろうか」


 恐らく、と燼は素っ気く返した。それより、と最初から犠牲と切り離した皇都を無視して燼は神農に厳正げんせいな顔を向ける。


「皇都での犠牲は些細な事です。封は……解かれた」


 神農は燼へと同じく澱みない厳かな顔で返す。手は自然と腹へと降りた。自らの中にいる何かが、最後の足掻きを始め叫んでいる。

 五つ目の封印。それは、神農自身であった。無死の力を持ち、神に程近い存在すら封じて置ける場所。そして神血により、その中心として封印の人柱となり続ける事。

 その全ての役目を負い、皇宮ひいては皇都は聖域に近い場所となっていた。

 それが、神農の影響を受け、陰の気が溜まりに溜まっていく。燼と神農は互いに抑え合う事で出来る限り事が大きくならないようには努めた。しかし、犠牲は大きくなり続け、そして暴発した。


「矢張り……無死むしは呪いだ」


 いつだったか、経典の新たな解説書を思い出す。若くも、経典を新たな方面から切り口を開こうとしたが、呪いなどと言う言葉を記したがゆえに、その書は世に出る事なく皇宮で眠ったままとなっている。


 神農は個人的感情で、その書籍を世に出さなかった。

 己が神格より賜ったであろう力を呪いと言われた事が、狼藉にも等しく腹が立ったのだ。奇しくも自らも思考の片隅に同じ考えが浮かびながら。


「ああ、どうやら目醒めた様だ」


 気付けば、燼は遠方へと目を向けていた。遥……遥か彼方へと目が向く。他人事の様に呟く男は、妻の身をこれでもかと強く抱きしめる。

 その視線の先に何があるかなど聞く必要は無いだろう。

 神農には無いまなこは、何が見えるのか。何が見えたにせよ、もう後戻りはできない。


 ◆◇◆


 丹省 不周山


 その山頂中心で、黒い沼が出来上がり、ボコ、ボコと湧き上がる。その黒は漆黒の闇の色へと山を染め上げ、鬱蒼と生い茂る深緑を枯らしていった。

 それが広がるにつれ、ピシッ――と甲高い音が響いた。金属にも似た、涼やかな音色だったが、その音は徐々に増えていく。そして音は太くなり、バリンッ――と砕け散る音が最後であった。


 聖域が、消えた。

 静けさと煌々とした空間は消え、ただの山に成り果てる。それまで、聖域で食い止まっていた闇の沼は広がり続けた。そして、最も闇深き山頂。


 ――おおおおおぉぉぉぉっ!!!


 人の声とも、獣ともとれる不可思議な声が辺り一体を覆い尽くし、黒い沼から、がずるずると姿を現した。

 その沼の色そのままに染め上げた漆黒を纏い、四本足で立つそれは、牛の頭部と大きく曲がった角が二本。口には鋭い牙がギラリと並んで、鋭い爪が地を穿った。


 ――おおおおおぉぉぉぉっ!!!


 また、咆哮が響き渡る。その声は、省都キアンまで届く勢いだった。

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