目醒めし異形 五

 雷鳴の轟が、宮の中でも激しく鳴り響いた。


 絮皐じょこうは一人、寝台の上で目を覚ました。夜更けかと見間違う程に部屋の中は暗く冷え切っている。ゴロゴロと唸る音だけが、しんみりと暗い部屋の中で外の空模様を伝えていた。


 ――天気……悪いんだな……


 寝起きの呆然とした思考の中で、絮皐は何となく夜中に目覚めてしまった様な感覚だった。

 だが、何かがおかしい。身体を無理やり起こそうとするも、頭痛と眩暈が平衡感覚を失わせ綿布団の上でついた手には力が入らず再び倒れ込んだ。

 もう一度身体を起こそうとすれば、ぐるぐると視界が回る。

 何が何だか判らず、隣で眠っているであろう夫に助けを求めようと、絮皐はいつもの癖で隣にあるであろう体温へと手を伸ばし辺りを探った。が、しかし、手探りでは一向に見当たらないが代わりに、短刀がコツリと爪先に当たった。

 何故、こんななものが?

 温もりなど消え去ったそこを探っていると、段々と絮皐は何があったかを思い出していた。


「燼!!」


 絮皐は焦りから再び身体を無理矢理に起こした。寝台に転がっているのは自分一人だけで、探していた人物は見当たらない。閨を見渡せば、赤髪の二人が床に這うように倒れている。頭を抑え痛みを堪えながらも、絮皐は寝台を抜け出し二人に駆け寄った。


れい浪壽ろうじゅ様!」


 黎の頬をペチペチと叩くと、僅かだが気怠げに反応する。浪壽も同じだった。うっと呻いて僅かに身動ぐ。

 二人の意識がある事に安心すると、今度は燼の事が気掛かりになった。部屋全体を見渡しても、夫の影も形も……それこそ当たり前にあった、悍ましくも夫と認識してした気配が無い。


「燼……」


 絮皐に不安が駆け巡り、思わずその身を抱きしめる。まるで、兄がいなくなってしまった時の様。あの時も、兄は死の素振りを垣間見せる事なく、姿を消したのだ。


「いや……燼、どこ」


 絮皐はふらふらと立ち上がる。

 黎と浪壽への気掛かりは消え去り、燼の温もりだけ求める。


「ダメ、燼……置いていかないで……」


 絮皐はゆっくりと、横たえる赤髪の龍を残して部屋から出ていった。

 

 ◆


 神農が英雄豪傑と称されたのは、遥か昔。

 神農は奮い立つその身を低くして踏み込む脚に力を入れると、地面に足が減り込んだ。敷き詰められた石畳が割れる程の力が駿足を生み、雷鳴轟く庭園の中を切り抜ける。メキメキと音を立てる神農の肉体は、現役の武官そのものの様にしなり動き回る。六尺七寸の巨躯を思わせない動きは、神農を狙い研ぎ澄ます迅雷を躱しつづけた。

 

「神子じん!!」


 神農は瞬く光を避けながらも、その肉体の持ち主に呼び掛けた。男の性質上、そう易々と肉体を明け渡すとは思えなかったのだ。

 一重にも相手は神だが、男の肉体はそもそも白神のものだ。

 曲がりなりにも、神子も神の一部である。

 神に付き従うこそあれど、簡単に魂魄が掻き消される事は無いと神農は考えていた。あくまで可能性に過ぎなかった。だが、その可能性に縋りたかった。


燼!!」


 その名を神農が叫んだ瞬間、ほんの指先程度ではあったが、ピクリと動く。どちらが反応を見せたのか、その顔は忌避に満ちる。が、あちこちに飛び散る迅雷が僅かに逸れた。


「羅燼! お前の主は誰だ!!」


 もう一度、神農は喉の奥底から声を張り上げた。


 ◆


「今の声……」


 宮の中を彷徨いていた絮皐。雷鳴に混じってに野太い男の声が届く。

 聞き覚えがあるその声は、確かに「羅燼」と夫の名を読んだのだ。

 よく声が響くのは中庭だ。あそこは慣れない頃に女官達が甲高い声で嫌味の混じったお喋りを堂々としているものだから、夫と盗み聞きしてを二人で面白おかしく笑ったのだ。暫くして、女官達は声の響きに気付いたのか、そこでの筒抜けのお喋りを辞めてしまったのだが。 

 身体が重い。絮皐は頭痛が続く頭を支えつつ、中庭への廻廊を壁に手をつきながら進んだ。


 進むにつれて、絮皐は雷鳴が嫌に近い事に気がつく。まるで中庭が落雷の拠点になっている様でならなかった。絮皐は不安を募らせつつも、もう目の前に中庭への入り口へと辿り着いた。

 ほんの隙間を開けて、いつもの場所を覗き込む。

  

 此処は、この暮らしにくい皇宮で一等好きな場所だ。

 中庭は日当たりが良く、ちょうど良い場所に石椅子が置いてあるものだから良く二人で日向ぼっこを堪能した。

 燼が皇宮の奥底にいなければならないから、仕方なく二人は夫婦でこの宮での暮らしを余儀なくされたが、何もかもが苦しかったわけではない。

 絮皐は、燼と二人で過ごせるなら何処でも良かったのだ。そう、燼さえいれば何処だって。


 その隙間の先、燼の姿は確かにあった。が、雷を纏いと対面する姿は、絮皐の瞳には別人に映っていた。


「燼……?」


 恐ろしく殺伐とした表情で、誰かを殺さんとするその姿。その先の人物の巨躯は、絮皐にも見覚えのある人物だったが、その時よりも上等な衣を着ている……上等などという程度ではない。龍の模様が刺繍された衣を身に付ける事が出来る人物は、この世でただ一人だ。


「皇帝陛下?」


 状況はより分からなくなっていた。皇帝に牙を向ける神子。皇帝は鋭敏に燼の攻撃を全て躱している。


『絮皐、もし……』


 ふと、記憶に蘇る燼の言葉。


『もし、俺が……と思ったら、逃げてくれ』


 宮に移り住んですぐの頃に、燼が物悲しく漏らした言葉だった。の意味は教えてはくれなかったが、もし、今がそうなのだとしたら。

 絮皐の中で困惑と焦りが混じり合うも、逃げると言う事だけはなかった。そんなことをすれば、二度と燼に会えなくなってしまうだけだ。

 そうなると、絮皐に迷いは消えて、足が動いていた。


「燼!!!」

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