目醒めし異形 四

 ずるり、ずるり。


 神農の歩みは正に牛歩だった。足を引き摺るように、前に出す。重い足取りと、今にもその場に倒れそうなまでに青い顔は脂汗がじんわりと滲んで衣を濡らしている。衣も乱れ上衣の裾を引き摺りながら、神農は皇宮の何処かへと向かっていた。


 その様相に道すがらに出くわす者は目をひん剥く。何せ、共も連れずに炎帝神農本人が御髪すら乱れた姿で軽々しく歩いているのだ。かと言って、その内の誰もが仰々しく平に首を垂れて道を開けるだけだった。

 不用意に皇帝に触れる事、声を掛ける事は禁じられている。足を引き摺り、幽鬼の如く歩く姿であったとしても、誰一人神農に手を差し出す者なければ、たった一声であろうと漏らす事すらなかった。


 それは、神農には都合が良かった。

 誰もが神農の乱れ切った姿を見て見ぬ振りをする。

 きっと、お前は何も見なかった、とでも命ずれば記憶は都合良く無かったものとなったかも知れない。その余裕こそなかったが、皇帝が乱心めいたと揶揄する者がどれくらいいるだろうかとは、心の片隅でひっそりと考えた。


 ――ああ、まだ余裕がある


 他所ごとを考える余裕がある、と神農は少しばかり安堵した。

 まだ時間はある。そう自分に言い聞かせると、どことなく足取りが軽くなった気がした。


 ◆


 神農は皇帝宮を通り過ぎ、更にその奥にある黒い宮へと辿り着いた。

 黒い雲が空を覆いゴロゴロと唸る中、その宮の黒漆に優美は消えた。雄麗な佇まいは、薄闇の中では宵闇へと導かんとする獄門へと変じる。

 悪鬼の住まいにも似たおどろおどろしい気配が宮を包んで、空模様と相まって重暗い雰囲気を醸し出していた。


 神農は一歩、その門を潜った。


 門を過ぎた、その瞬間。神農の中に僅かに蘇っていた余裕は消えた。

 ドロドロとした感覚が腹の底から全身へと駆け巡り、神農はその場で倒れそうになった。ぐらつく身体を何とかして踏み出した一歩に力を入れて踏みとどまる。が、動けない。  


 濃い、よく知った気配が神農の腹の中のをざわつかせ、目覚めさせようとしているのだ。 


 神農は、寒気と同時に懐かしさも感じていた。状況が、状況でなければ感極まって、跪いていたかもしれない。それ程に彼の方が、此処へと戻って来る事は神農にとって……いや、六仙にとっての悲願だった。


 しかし、神農は苦しみをむざむざと感じ、その悲願も消える。

 その気配には憎悪と毒心ばかりで、切望の人物とは別人に成り果てていたのだ。


 神農は、自身の内に残っていた最後の希望と悲願を捨て、ゆっくりと宮の入り口を目指した。



 扉を開くと、より陰惨と淀んだ気配が満ちていた。宮は静まり返り、女官の姿もない。誰もいないのかと感じる程に寒々しい。けれど、その気配だけは確りと神農を見張っている。こちらへ来い、そう言っているようで、神農は言われるがままに大元を辿った。

 長い廊下を突き抜けて、幾つもの部屋を通り過ぎる。その途中で中庭へと辿り着いた。……導かれた、と言うべきかもしれない。


 一本の枯れた木の下、石椅子に腰掛けた何か。黒い外套を纏い、顔を下に向けてはいたが雄々しく、しかし項垂れそこ座っていた。

 神農も一歩、一歩とにじり寄った。そこに座る男は、この宮の主になったばかりの男に見える。が、気配は別物だった。

 神農が辿った気配の大元が正しく眼前の存在なのだ。それは、神農を待っているのか、もう気づいても良い筈なのに、一片の反応も見せない。

 しかし、それも、神農がそれの真正面……一間程度の距離まで近づくまでだった。


 それの頭がゆっくり上へと向いた。

 煌々と輝く紅色の瞳が、その身体の持ち主である神子燼を思わせるも、その眼差しと気配は別人だ。煌々と輝く瞳の奥底は淀んで、陰鬱とした表情は死人か幽鬼を思い起こさせた。 


『……神農か』


 本来の朗らかな青年の声とは別物の押しこもった深い声が、地響きにも似た形で神農の耳へと届いた。懐かしいはずの声が、胸中を締め付ける。

  

 ――出来れば、昔のままの姿でお会いしたかった。


 打ち捨てたはずの想いが木枯らしと共に一瞬過ぎ去る。神農は悲嘆を隠し、淡々と言葉を吐き出した。


「お久しぶりに御座います」


 神農は血の気の引いた顔ではあったが、表情は皆無だった。    


『久しい、か』


 は肩を揺らし、くつくつと喉を鳴らして笑う。


『神農、何故跪かん。何故、立ったままだ。この国の頂点にあるからか? もう、私に頭を垂れる必要はなくなったのか?』


 嘲る様にニヤリと笑って、は神農を見据える。何も、神農が膝をつかない事に怒りを見せているわけではなかった。


「残念ながら、私が叩頭するお方は遥か昔に消え去った様だ」

太昊たいこうでなくなったら、別人か?』

「いいえ。貴方は青帝せいてい太昊であり、伏犧神である。しかし、私がお仕えした方ではない」


 ……伏犧神が放つ悪意に晒されながらも、神農の物言わぬ目に本言ほんごんが宿った。強き意思と共に、神農はしかとを捉える。迷いは無い。はっきりと敵意が顕になった瞬間でもあった。

 その敵意を受け止め、伏犧神は静かに立ち上がる。望んだ答えではなかったのだろう。その目が、伏犧神をより澱ませた。

 

『……それが答えか』


 敵意は、伏犧神にも宿った。

 ゴロゴロと唸る空。雲の中で轟が、耳を劈く雷鳴となって顔を出した。

 激しい稲光が二人を照らす。決別を告げる音は、伏犧神の怒りそのものだった。


「正気を喪った貴方が、あろう事か一人の人間の死を望む。その為に、国を滅ぼす事も厭わぬ様を耐え難い思いで堪えておりました、が。その先、貴方が目標を完遂した所で、もう手遅れであると悟った時、我々の心は決まりました」


 紛い神が、最後の決定打となって、の心を決断させた。そして、自らが契約し主とした神が最悪の結果となって現れた事が、何よりも強く意志を固めたのだ。

  

「貴方は、悪神あくしんだ」


 心が澱み、悪意に手を染める神を、遥か昔にそう呼んだ。

 神農は、その言葉を告げる事を躊躇わなかった。寧ろ、手遅れと思っていた程だ。深々と告げる言葉に伏犧は一瞬間を置くも、再び喉を鳴らして含んだ笑いを見せた。が、次第にわざとらしいまでに肩を揺らし、空を仰いで高笑する。


 そして、その声はピタリと止まる。

 再び神農が見た表情は、虚無であった。


『そうか、私は……悪神か』


 何かを納得したかの様に、独り言つ。


『ならばより、らしくあらねばなるまい』


 伏犧はゆらりと手を前に差し出した。その手は、人差し指を突き出して、神農を指差した。


幻燈げんとうが目覚めようとしているな……』

「……この身に幻燈様を封じる決断を下したのは、ご自身ではありませんか」 

『四つの封が躍動を始め、目覚めを待ってる』


 伏犧に、最早神農の声は聞こえていなかった。言葉と同時に、足元にパチリ、パチリと閃光が浮かび上がる。それに対抗するかの様に、今度は神農が構えた。左手は前に、右手は低く腰あたりに握り拳を作る。腰を低くし、右足も後ろへと下げる。袞龍御衣こんりょうぎょい(皇帝の衣)を纏っている事を忘れた姿は武人そのものの気迫を放ち、構えた拳に殺意を込めていた。


 じりっ――と神農の足が音を立てた。

 その瞬間、荒々しい迅雷が轟くと共に、激しい閃光が龍の姿となって神農目掛けて駆け抜けた。その早い事。光の速さで駆け抜けるそれを神農に防ぐ手段はない。

 その身に宿る、神威を巡らせ身体が奮い立つ。


 神農から薄弱とした姿は消えていた。残る力を振り絞り、その場で奮い立たせた顔は、青みは残るが猛々しい。


 その険しい眼光が向かう先、正に雷雲同然に豪雷を溜め込んだ伏犧。バチンと弾ける閃光があたりに空気すら巻き込んで、距離があっても直、神農の指先を痺れさせる。その身が一歩踏み込めば、空でも雷鳴が轟いた。

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