目覚めぬ男 一

 赤々とした豪奢な部屋、寝台には一人の男が眠っている。

 冬の空気を取り入れた部屋は寒々として冬は実感させるも、新年の装いとは程遠い。

 それは、屋敷全体にも言えた事だった。

 代理を任されている妻が、この屋敷の主人たる男が眠ったままでは到底新たな年を祝えなかった事が原因だろう。


 皇都 外宮 第八皇孫邸

 

 この屋敷の主人、きょう祝融しゅくゆうは、ひと月以上、眠り続けたままだ。

 目覚める兆しもなく、神子にも見放された男。


 その男に寄り添う女が一人、寝台の横で男の手を握っていた。ただただ、声も出さず。

 背後で控える従者の一人、よう彩華さいかはそれを静かに見守った。

 何も出来ない辛さはよく知っている。余り思い詰めても、という言葉も気安くかけず、今は女が切に願う姿を見守る事が仕事だと言い聞かせて、ただの壁となった。


 男の妻、かい。男の大きな左手を両手で包み込み、男の顔を見つめながら、どうか指先の一つでも良いから動いて反応してくれと願いを込め続けていたのだ。

 毎日、毎日。


 男が眠ったまま槐の元へと帰って来てからと言うもの、槐の顔に悲しみは見えない。無理に気丈に振る舞っている。ただそれだけで胸中は不安が爛れてしみつき、埋め尽くしそうで仕方がなかった。

 けれども、目覚めぬと決まったわけではない。従者達や、男の弟であり槐にとって義理の弟。そして、槐の兄。

 それらが悉く口にする言葉があった。


『姜祝融は天命を受けし者。まだ天命は成し遂げてはいない』


 今もただの壁となり主人のそばに侍る従者――夫を喪ったその女すら、槐に強靭な意志でそう言って見せたのだ。

 目覚めの時は来るのだと。

 勿論、彼女の本心も夫を喪った哀しみに暮れている事だろう。しかし、主人が眠り続けても槐に……誰にも弱みは見せない。

 それを見ると、槐は嘆いてなどいられなかった。元より、彼女は強く在らねばならないと教育されてきたのもある。生家である風家の家柄も相まってより厳しい教育であっただろう。

 夫が眠り続ける側で泣き崩れてなどいられなかった。


 ◆


 彩華は、部屋の隅、入り口の側で邪魔にならぬ様に姿勢を正したまま椅子に座って控えていた。いつ、主人が目覚めても良い様に身なりも疎かにしてはいない。

 常に使い慣れた矛もそばに置き、何かあれば動ける様にしていた。


 彩華からは槐の背しか見えない。

 その背に一度として慰めをかけた事はなかったが、主人には問いかけた事がある。

 答えぬと分かっていても、「いつ目覚めますか」と声に出した事があった。

 夫の葬儀が終わったばかりの頃、夫の友人でもあった男に悲しみを同調して欲しかった。だが、所詮甘えだ。寂しさのあまり主人に見せた甘えだと自信を戒めより一層、彩華は主人の天命を重く考える様になった。


 それ迄、天命というあやふやな言葉が紛い神の出現で現実味を帯びた事で、主人のの使命はより過酷なものとなった。


 今でこそなりを顰めたが、当時暫く続いた地鳴りも、事が終わっていないのだと告げているようで、これから起こる予兆ではないのかと考えていた。

 しかし、何が起こるにせよ、主人は眠りの中。

 彩華も、槐と同じく主人の目覚めを待っている。

 そんな日々が終わる日を待ち続けていた、最中。


「槐様、ふう鸚史おうし様がお見えになりました」


 扉の外から女官の声がしたと思えば、返事も待たずに彩華の隣で勝手に扉が開いた。

 彩華は驚かなかった。寧ろ呆れた。

 そんな無礼な事をさも当たり前に行う人物は限られ、その人物も顔を見るまでもなかったからだ。


「彩華、ご苦労さん」


 この邸の主人と、その代理である妻へ挨拶を向けるより先に扉のすぐそばで呆れ顔を見せる彩華に声をかける人物。風鸚史は軽快な様子と声でずかずかと他人の家を歩く。その手には布に包まれた剣をしっかりとさも当たり前に抱えているとあって図太い人物でもある。

 扉の隙間から鸚史を案内してきたであろう女官が、彩華に向かって今日も止められなかったと呆れと嘆きが混ざり合った顔を向けていた。


「兄上、一度客間で待つ事が出来ないのですか?」


 実の妹である槐も、鸚史が突如入り込む事に慣れて彩華同様に呆れているのだろうが、ちらりと横目で鸚史を見るだけで祝融の手を離しはしない。


「お前こそ兄貴に挨拶も無しか」

「先日、父上と一緒に祝融様に新年のご挨拶に見えた際にしたでは有りませんか」


 辛辣にもう今年の挨拶は済んだのだからする必要はないと、無作法には無作法で返す妹。なかなか豪胆であるが、慣れ親しんだ兄だからこそ出来る事で有り、自分は大丈夫だと態度で示していた。わざわざ忙しい合間を縫って、様子を見にこなくても太々しい態度で出迎えれる程に図太く生きているから、と言う方便でもあったのだ。


 そんな妹の方便が当たり前に伝わる兄は、寝台に近寄って妹の夫でもあり、友人でもある男の顔を覗き込んだ。


 是と言ってかける言葉はない。幼き頃より硬い意志の下、共にあると宣言をした男へ向ける慰めを、鸚史は持っていなかったのだ。と言うより、必要がないと感じていた。

 全く不安がない訳ではない。

 今の状態がどれだけ続くかまでは、誰にも予測ができない。それだけが胸に不安を遺すが、いつか目覚める。その希望にも似た、兆しだけはしっかりと胸の中にあった。


 己の中にある神より授かりし力がそう言うのか、それとも自分にも使命なるものが宿っているのか。

 鸚史は祝融の顔を一眼見た後は、壁になりきって座っている従者に目を向けた。


「彩華、手合わせだ」


 さも自身の従者の様に鸚史は彩華を呼ぶ。慣れ親しんだそれに彩華は拒否する事もなく返事する。

 

「……もう直、軒轅けんえん様が来ます。それまでお待ち下さい」

「ならば、先に軒轅にするか」

「その方が宜しいですね。私も、出来る限り存分にお相手頂きたいので」


 彩華も遠慮なく口走る。姿勢正しく座るが、その眼光に宿る意思が鸚史をしかと捉え獲物でも定めた様だ。お互いが、お前が狩られる側なのだぞと目で語る。

 

 鸚史は小さく生意気めと溢す。此処のところ彩華に勝てぬとあって彩華を威嚇する様に腕を組んだが、その腕に苛つきからか、やたらめったらに力が篭っていた。


 女に負けたから矜持が傷ついたと言う矮小な人物ではない。単純に、長く実践から離れているという事が腹立たしくて仕方がないのだ。

 もう、いつ事が起こってもおかしくないと、鸚史は考えている。

 その時、祝融がどうあるか。己はどう在るべきかを考えた時に、自らに宿る異能が熱くなる。


 鸚史は自らも、やはり使命があるのではと考えた。矢張り、天命に追随するが為に賜った力だと。


 そうなると、鸚史は居ても立っても居られなくなった。文官としての仕事も蔑ろにできないが、気を抜いている場合ではないのだと、真っ先に相手になる人物達の元へと赴いた。

 それが、祝融の従者としてある三名だったわけだ。

 

 何年も前から彩華には負け越す様になっていたのだが三名ともに腕が上がり、鸚史は自分の不甲斐なさに落胆する結果が待っていた。

 以前は指導する立場であったにも拘らず、誰一人にも勝てない。特に、新しく加わったかい洛浪らくろうの腕前に鸚史は驚嘆した。

 これだけの実力があって、今まで隠れて生きていたのかと。奇しくも、後天的だが異能を授かった者でもある。

 この男もまた、祝融の天命が為にあるのだろうと考える。


「解洛浪が来るのは夜か」

「はい。洛浪様も出来る限り体を動かしておきたいと申されていました」

「そりゃ、また負かしてやるってやつか」

「さあ、如何でしょうか」


 少しづつだが、鸚史も勘は戻っていた。いつまで女従者が生意気な事が言えるか。

 剣を持つその手に更に力がこもってた。

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