四十六
「
河伯の言葉に、祝融の顔は強張った。祝融は今も河伯を信じ切れてはいない。何をするつもりかわからない状況で頷けない。しかし、縋って今の状況が打破できるならば、これ以上のものはなかった。
目の前の男に縋るだけで、三人は助かる可能性があるのだ。どの道、いま以上の暗転もないだろう。何せ河伯が手を貸さねば、祝融だけでなく、共にいた三人も死を待つだけなのだ。
意を決し、祝融は頷く。
祝融の決断を前に、河伯は目を伏せる。僅かに動く眉では、何を考えているかまではしれないが、祝融を見て何か思うところがあったのは事実だろう。
そのまま、祝融を視界に入れる事なく河伯は言葉を続けた。
「これだけは、覚えておくと良い。例え、偽りの神だとしても、神威を弑するならば覚悟はいる。殺すならば首を狙って焼き殺せ。どの道、首を斬るのは其方でなければならん」
一頻り話終えると、河伯は頭を上げて、祝融を見た。
首を斬れと容赦なく言い放つ姿に、夫としての姿はない。
「其方の名……何と言ったか」
「姜祝融と」
一陣の風が、草木を揺らして吹き抜けた。静かな世界に唯一の音をもたらし、世界を揺する。
祝融は今いる場所が何処とも知れないながらにも、その世界で初めての変化に思わず風が吹いた方角に目がいった。
「重き使命だ……」
祝融の視線が逸れた河伯は、再び口を開く。
変わらず顔に変化はないが、重苦しい感情を吐露するかの如く、今まで以上にゆっくりと呟く。
「姜祝融、我と会うのはこれが最初で最後であろう。其方の命運が澱まぬ事を祈ろう」
河伯の動かなかった腕がすうっと肩の辺りまで上がると祝融を指差して止まった。その指が、空で小さく円を描く。
その瞬間、祝融の意識は途絶えた。
◆
身体にまとわりつく、寒々しく重たい何かで祝融は目が覚めた。
振り解こうにも相手は実態が無い。水中では火も意味をなさない。結局夢だったのか、死ぬまで何もできずに終わるのか、思考が曇り始めた。
その時、不意に身体を掴まれ龍が駆ける勢いで水流が生まれた。
祝融の身体を掴んだ腕は、黄龍の前足に捕まっていた洛浪のものだった。
もう一方の龍の手には、気を失っている彩華がしっかりと掴まれている。祝融はこれが現実であると実感したと同時に、これ以上ない安堵で包まれる。
不思議と水の中の苦しさは無いまま、黄龍は上へ上へと向かっていた。
そして――
金色の龍は、湖から抜け出すと高く高く舞い上がった。相変わらず嵐が続いている。祝融は地上を見下ろした。湖の中心で佇む洛嬪が女神とは到底思えぬ恐ろしい形相で、祝融達を睨んでいる。
その怒りからか、暗雲の空から豪雷が鳴り響く。ゴロゴロと唸る空の中、雨がさらに強くなった。
視界は不明瞭だったが、湖の上に立つ洛嬪の姿だけは確りとその目に届いていた。
「洛浪、行けるか」
雨と雷で、声が遠い。それでも、洛浪は不安気な表情を浮かべて祝融に声を返した。
「祝融様、その」
祝融は洛浪の声で、掴まれていた洛浪の腕から抜け出し金龍によじ登った。洛浪も真似て、祝融の背後に立つ。
「夢……だと思うのですが」
いつも無表情に近い顔が、自信なく項垂れている。その表情の意味は、聞かずとも理解できた。
「河伯神か?」
洛浪の肩が揺れる。どうやら洛浪も『夢』を見たのだろう。
「……いえ、河伯神かどうかまでは。声が聞こえて……」
「何と?」
「白仙山に及ばずも、深々たる
「使えそうか」
洛浪は、俯く。
「……祝融様は河伯神に?」
「夢かと思ったがな……使い方は教えてやれん」
洛浪は自分の手を見つめる。何も変わっていないのに、何故だか不思議と手中に何か在る感覚にとらわれる。
まだ、何か程度の存在を前に洛浪は一人頷いた。
「問題ありません」
錯覚にも近い確信が洛浪に生まれていた。
洛浪の目に迷いはない。それどころか、その表情は鋭く闘争心轟く様を見せつける。祝融もまた、その表情で得心すると前を向いた。
「軒轅、彩華は」
「眠っています」
「そうか、酷く痛めつけられたからな。お前は、彩華と共に」
「承知しました」
祝融は再び下を見た。
羅刹にも等しい女神が一人、恨みを携えた目が今尚、祝融を睨め付ける。
「祝融様、先に降ります」
言うや否や、洛浪は黄龍の背から飛び降りた。
「せめて返事をしてからだな、」
洛浪の闘争心が氷の刃となって真下へと向かっていく。祝融もまた、その心に火が灯る。
「軒轅、彩華を頼む」
「承知」
祝融もまた、飛び降りた。
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