四十五

 激しい雷鳴と共に、水の盾に閃光が絡み付く。

 洛嬪は眉一つ動かす事無く、僅かに水の動きが鈍っただけだ。しかし洛浪は一撃が失敗した事による失意はない。

 息つく間もなく攻め続けなければ、此方がやられる。

 洛嬪が守りでいる間。余裕を見せ、此方を弄んでいるとでも思っている間。その間こそが好機であると考えていた。


 そう思わされているだけやもしれない。だとしても、手を緩めれば此方がやられる。


 火葬場とは違い、まともな足場もない水の上。しかもだだっ広い上に、地の理としては洛嬪の独壇場と言える。

 はっきり言ってしまえば、洛嬪に分がある。いや、分があるどころの話ではない。水の女神たる洛嬪の神威が絡むとされる洛水湖では、祝融達をチョロチョロと動き回る鼠程度にしか見えていないのかもしれない。


 例えそうだったとしても、祝融達は動き続けた。祝融が炎を浴びせては洛浪が離れ、洛浪が打ってでれば祝融は下がった。時には、軒轅や彩華が牙を見せ尾をしならせる。

 四対一で戦っているはずなのに、祝融達に余裕の一片もなかった。

 

 そして、それも終わりを迎える事になる。


『そろそろ、飽いた』


 洛嬪がボソリと呟いたと同時だった。それまで微動だにしなかった洛嬪の両腕がそっと上がっていくのに連れて、水が動いた。

 豪っ――と水が轟くと同時に水の壁が出来上がる。見上げる程の高さの壁は、そのまま外側に濁流となって襲いくる。

 祝融は下がった直後で、受け止めた彩華が上空へと難を避けたが、洛浪は丁度踏み込んだ直後とあって勢いよく現れた水の壁に大きく弾かれた。


「洛浪氏!!」


 軒轅が慌てて洛浪を追いかけた。下手をすれば濁流へと飲み込まれてしまう。軒轅の手が、洛浪の胴を掴んだその時、軒轅の背後から濁流が覆い被さっていた。


 ザブンッ――洪水が町をまるっと飲み込むが如く、軒轅の身体はその手に掴んだ洛浪と共に濁流に囚われ、あれよあれよという間に、その腹へと飲み込まれてしまった。


「軒轅様!洛浪様!」


 その瞬間を見た彩華が焦って其方に向かおうとするも、彩華の目の前にも大波が立ちはだかっていた。


「上へ!!」


 祝融の声で、彩華は上に登り背後から迫る濁流から逃げる。が、彩華の尾の先が形のない冷たいに引っ張られた。

 突如掛かる負荷に彩華は宙での均衡を失う。


 どう足掻こうとも、は外れず、益々彩華をあっという間に尾の先からずんずん腹の辺りまで飲み込んだ。そして、がっしりと掴まれた身体はぐらりと揺れる。

 子供がおもちゃを振り回すかの様に、彩華の身体は軽々と水面へと叩きつけられた。


「がっ……!」


 衝撃は激しく祝融は龍の背から弾き飛ばされ、龍が打ち付けられた水面は大渦が出来上がる。ぶくぶくと勢いのままに黒龍は水の中へと沈められた。


 黒滝から引き剥がされた祝融に成す術はなかった。

 祝融もまた、水面に叩きつけられその身体を水が捉える。衝撃が残る身体は言う事を聞かず、わずかな抵抗も虚しく、水底へと引き摺り込まれていった。



 沈みゆく身体。もがいても、もがいても、何かにずるずると水底へと引っ張られている。

 もう、上も下も右も左も分からない、寒い暗闇の中。


 ――ああ、これが終わりか


 祝融は呼吸のできぬ苦しさの中、沈みゆくままに身を委ね、瞼を閉じた。


 ――

 ――

 ――


 祝融は死を実感していた。次に視界に入るのは、これまで見る事の出来なかった常夜という世界なのだろうと。

 肉体が湖に沈んだ場合、黄泉へと旅立てる確信はなく永劫此処で縛られていくのかもしれない。


 悲観した思想が巡っていたはずだった。はずだったんのだが、祝融は眩しさを感じて目を見開くもその目に最初に飛び込んだのは、ほんのりと白みがかった、朝焼けに近い薄い青空だった。

 祝融は驚きと戸惑いで勢いよく上体を起こす。


 ――此処が常夜?


 祝融の視界には、高知から見下ろした様な、朝靄がかかったような明るい日差しが山林と洛水湖らしき湖を照らした景色が広がっていた。

 何とも優美な。

 肌寒い朝を思わせるその景色。祝融は手近に目線を落とすと近くにあった雑草に朝露を溜め込んで、ポトリと落ちては小さく揺れる様にさえ目が留まる。


 なんて事ない、穏やかな場所。だが、そこは鳥の囀りも風も無い、異質を感じさせる場所だった。


「此処は……」


 祝融は、呆然とした思考が不意に覚醒する。

 背後に何かいる。


 祝融は振り返り、その気配の主を見た。

 もとどりの頭にさくで纏めた少しばかり古風な姿をした、中年程度の男が一人、胡座をかいて祝融をじっと見ていたのだ。


「お若いの、目が覚めたか」


 低く深みがある落ち着いた声は、これと言って含みもない。穏やかで、緩やかに生きる者を思わせる。


「我が細君さいくんが、迷惑をかけたようだ」


 静かな語り口調で男は続ける。その間も、男はこめかみに手を当て、胡座をかいた足の上に肘を突き微動だにしない。


「さて、どうしたものか。こうして起こされはしたが、伏犧神の力など、我には到底及ぶまい」


 男の言葉が祝融を突き抜けた。

 細君、伏犧、その言葉で重なるのはただ一人だけだ。


「……貴方は、河伯神か」


 祝融は夢でも見ている気分だった。おいそれと、相手の名を呼ぶのは失礼であり、目の前に座す者が神格たる存在であるならば、礼儀も忘れて呆然としていた。


 凡そ、祝融にとって相見える事が出来ない存在と認識していたのもあって、祝融はその男がどう返答するのかを、ただ待った。


「そう……そうであった。我が名は、河伯。儀礼は不要だ、元より好かん」


 河伯……夢か現か。祝融は、まだ俄かに信じ難い状況を整理しきれずにいる。そもそも、現と言う言葉が当てはまるのかどうかすら、祝融には判断しきれない。

 そして、相手が本当に神格だったとして、信用に足るかどうか、それすらもどう判断して良いかが祝融には難解な擬として手の内に残っていた。


「お若いの、手を貸そう……と言っても大した事はできんがな」


 祝融はしっかりと向き直り、姿勢を正す。儀礼を思い出したのではなく、その男が本物河伯だったとして、誠意は見せねばならないと感じていたのだ。

 

「手を貸していただいたとして、私は貴方の細君を……」

「仕方あるまい。二度死を実感させてしまう事だけが、些か悔やまれるが」

「神殺しを推奨するのか」

「……あれは、洛嬪の血をより集めた紛い物。神威を埋め込まれ、伏犧神の記憶だけを頼りに動いているに過ぎない。まあ、神威を所有している時点で、神格に近い存在ではあるが」


 河伯は淡々と語った。

 表情を忘れてしまったかの様に、口は動けども、機微なる動きも見せないその様は、人離れしていた。


「貴方は、紛い物というが、細君とは認めるのだな」

「あれが死を選んだ時、悔い悔やまれ、現世に留まった。その甲斐あって、二度逢えるこの喜びは嘘偽りではない……例え、器は紛い物だったとしても、その神威は本物なのだ」


 歓喜とは程遠い無の表情のまま、河伯は語る。

 静かに、静かに、今にも眠りつきそうなまでに、河伯は動きはしなかった。

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