四十一
皇都 皇宮敷地内(現神子居住邸)
「クソッ!!」
「燼!」
身体を丸め、寝台で身悶える姿の燼に絮皐は縋り付くばかりだった。
燼の瞳は赤く煌々と輝き、獣を彷彿とさせる爪と牙が鋭く尖る。下手をすれば、それが絮皐にすら届きそうで、だからと言って絮皐が離れると不安で堪らない。
燼はひたすらに寝台に爪をたて頭を擦り付けた。
ここの所、弱るばかりだった燼の姿が、突如荒々しく変わった。
絮皐はそれまで堪えていた不安が溢れ出しそうだった。いくら獣人だからと言って、人から外れたその姿、煌々と光る目の赤。それでも堪える事が出来ていたのは、今にも転じそうになる燼が呻く中、掠れ震える声で「側に居てくれ」と言ったからだ。
手は握れなかった。その爪で傷つけるから、と。
「燼……燼……」
大丈夫だと言ってあげられたなら、どれだけ良いだろう。こんな時、同胞に縋る事が許されない燼をどう慰めれば良いのだろう。
絮皐はただ、熱くなる燼の体温と荒々しい呼吸と言葉を一身に請け負い、自らの身体を燼に重ね、出来る限り背を摩った。その効果の程か、暫くすると燼が呻きながらも真っ当な言葉を吐いた。
「……絮皐、ありがとう。少し楽に、なったよ」
辿々しくも、絮皐を慮る姿がいつもの燼だった。息はまだ荒く、爪も牙も隠せてはいない。何より、いつもよりも際立つ赤い目が絮皐の不安を拭い去ってはくれなかった。
そんな絮皐の心中を燼は知っていながらも見ないふりをした。今にも泣きそうで、唇を噛み締めて堪えているその姿。ただ、今、その姿を気に掛けている余裕が燼には無かった。
出来る限り心を沈め、夢へと向かう精神を整える。
行かなければ。
「絮皐……行かないと」
燼は少しばかり腕に力を入れ起き上がる。
ゆっくりとだが身体の向きを変え、絮皐の顔へと手を伸ばす。そうすると、自身の手の爪の鋭さ、強張り血管が浮き出たままの手の甲。今も、獣にならんとする力に支配された我が身をまじまじと見て、絮皐に触れる寸前で手が止まってしまった。
怖い。触れれば、その鋭さで傷つけてしまいそうで。
燼が躊躇してすごすごと手の力が抜けて絮皐との距離が広がり目を伏せると、その手が温かみを持った。
「燼、側にいるよ」
淀みも迷いもない、凛と張った声の主は、燼の姿に分を感じても忌避する事は一度としてなかった。
「私は燼が好き。燼と一緒にいる。何処にも行かない」
絶対にその意思は捻じ曲げない。絮皐は燼の手を握り締め、真っ直ぐに燼を見ていた。その真っ直ぐさに燼が目を背けたくなる程に。
「……絮皐、俺……他の神子達に会わないと……」
「うん」
「……少し離れる。でも、側に居て」
「うん」
燼の手をすり抜けて、絮皐は優しく燼の身体を包み込む。
「こうやって、待ってるね」
ふにゃりとゆっくりと笑う姿に燼の気が抜けそうになる。緩みそうな口端を抑えて、燼は絮皐を抱きしめ返すと肩に顎まで乗せ、耳元で囁いた。
「もし、何かあったら、俺が絮皐を殺すかも」
「うん」
「怖がって、逃げても良い」
傷つけない様に、それでも力入る手を抑えて優しく抱きしめる。これでもかと言うくらい密着させて、まるでもっとと強請っている子供同然だった。
「怖くないよ」
ふふ、と絮皐が耳元で笑った。くすぐったいその声に、燼の瞳の色が薄くなり、次第に焦茶色に戻っていく。
「大丈夫、私が側にいるから」
絮皐は体重をかけ、燼と一緒に寝台の布団の上に倒れ込んだ。
「絮皐、もう暫く、このままで――」
そう言って、燼は瞼を閉じた。
「うん、おやすみなさい」
絮皐は燼の頬に口付けを落とす。二人の部屋に、静寂が訪れた。
寝息が響く中、絮皐は燼の身に擦り寄る。
絮皐は、神に祈った事は無い。それが存在しようがしまいが、どれだけ祈っても助けてくれなどしないし、腹はふくれもしないのだ。
目に見えない
平凡と思っていた夫は、国の頂点と同位とされる存在だった。自分の方が余程、平凡と言える。
でも、そんな頂点に立っても尚、燼は……やはり燼だった。
今も静かに寝息を立てる夫は、此処にはいない。
何処かで、きっと――
――
――
――
緑省 洛水湖へと向かう一向――
宵闇の中に二頭の龍が呑まれていく。
今も地鳴りは続き、街は混乱でも起こっているかもしれない。街の統治は瓦解した今、聖殿はどう行動を起こすだろうか。気にはなっても、その地鳴りの後に何が起こるか。祝融は見極めなくてはならなかった。
吐く息が白い。
冬だけが原因では無いのだろう。これも洛嬪の力の影響か、更には空には雲まで出始めている。冬の乾いた空気から、湿ったそれに変わると匂いまで変わる。
次第に、ぽつりぽつりと水滴が祝融の手にも当たった。
冷たい空気の中の水滴は、氷塊にでも触れたかの様に冷たい。
「神ならば、天候を操る事も容易……という事だろうか」
祝融は一人言つ。
いや、誰かに聞いて欲しかったのだろう。その言葉に答えたのは、洛浪だった。
「伝承で洛嬪は、悲しみに暮れて洪水まで起こしたと言われています」
「ああ、そうだったな」
ならば、その伝承の続きが行われようとしている、とでも言うのだろうか。
「だとすれば、伏犧神は何故今頃になって洛嬪を復活させた。滅ぼしたいのなら、洛嬪から神威を奪わずに力を貸せばよかったのだ、遥か昔にな」
祝融は投げやりに返したが、最もだっただけに洛浪は少し俯き考えに浸った。その僅かな間に、今度は彩華が口を挟んだ。
「心境が変わったのでは?神に……そう言った心があるのかは判りませんが」
「どう変わったと」
「その、父親の心情的……な」
恐々と自信なさげに彩華の口調は次第に小さくなる。
「娘が恋しくなって、神子らしき者を操り、贄で娘を復活させた。神の乱心か。世も末だな」
「……でも、尊大なる伏犧神には何かお考えが――」
「どんな理由であれ、国に害ある存在となった今。あれは、
悪神。
その言葉に誰もが口を閉ざす。
神を侮辱する言葉に該当するが、現状、伏犧神と女神洛嬪は、街を操り、贄を募り、聖殿内に御馬を呼び寄せ、そう呼ばれてもおかしくない状況まで来ていた。
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