婉麗は、前を行く麗人の背後で小さく蹲りたい気分だった。長い黒髪が揺れ、その美麗な尊顔と存在だけでこの世のものとは思えない。雪の様に白い肌、金にも近い瞳の色、紅を塗った唇は血の如く紅い。金環で一纏めにした黒漆色の髪は、風が吹く度に優雅に靡く。

 仙女と言う存在が彼女と言われても婉麗は迷いもせずに納得した事だろう。

 婉麗は、その御仁と血の繋がった親族だったが、目の前にいるのに遥かに遠い。昆孫こんそんに当たる婉麗にとっては、一年に一度会えば十分な人物だった。



 そんな人物に引き連れられ、連れて来られたのは、それまで縁の無かった皇宮だった。

 人工池の端にある小さな東屋に辿り着くや否や、仙女は対岸の秋を眺めて茶でもしようと、婉麗に微笑む。

 自然なそれに、思わず婉麗は顔を赤め俯いた。


「これ、婉麗。これからお会いする静瑛殿下にも、顔を隠すつもりか?」

「……いえ、そんなつもりは」


 もじもじと、うっかり背まで曲げてしまいそうになる。

 ああ、やっぱり思い切りが良すぎたのだろうか。と、まだ何も始まっても居ないのに、場に飲み込まれそうになっている。


「婉麗、とりあえず座りなさい。何か飲めば落ち着くだろう」


 ――


 それから、四半刻と掛からずに、その人物はやってきた。

 遅れた訳では無かったが、少々焦っている。見た目若く、優しげな顔ではあったが、疲れが見て取れる程に浮き出ていた。

 本当に皇孫殿下なのだろうか。婉麗にそんな疑問が浮かんだが、目の前に座った優男が口を開くと、その疑問はたちどころに消えていた。

 

「西王母様、遅れて申し訳ありません」


 西王母を前にしても、堂々としている。見た目は若く二十中頃に見えるが、実際の年齢とは異なる。一応事前にある程度の情報を知る為に、皇宮の噂話に詳しい友人に聞いてみるも、これと言って目ぼしい話しは出て来なかったのだ。

 皇族の中でも静瑛殿下と祝融殿下は、皇都を不在にする事が多く、目立った噂が無いのだそうだ。強いて言うなら、最近、右丞相に後継に指名されたとか、兄弟で仲違いしたなんて話だった。そして、もう一つは……   


「さて、私は帰るとしよう」


 俯き加減に、考え事をしている最中だった。西王母の突然の発言に、婉麗は思わずギョッとして顔を上げた。


「え、お帰りになる……のですか?」

「ああ、帰る。私は、お前が皇宮で一人では心細いと思ったから此処にいたまでだ。家に篭ってばかりだったろう、偶には人と話しなさい」


 婉麗は思わず、口篭る。楽師の試験に四度落ちて、此処暫く出掛ける気も起きなかったのは事実で、言い返す事も出来ない。静瑛との縁談で、漸く行動を起こした次第だったのだ。


「静瑛、商家の娘だ。手加減してやってくれ」

「伺っております。彼女が帰る際は馬車を此方で手配するので、ご心配なく」

「ああ、頼む」


 ひらひらと振られた手に、婉麗は縋り付く間も無く、西王母は姿を消してしまった。

 先程まで、隣に座るのも烏滸がましいとすら考えていた相手だったが、居なくなった途端に心細くなる。

 何を話すべきか、いや、縁談の話をすべきなのだが。焦るばかりに、徐々に顔が俯いていくと、西王母と話をした時よりも一段と優しい声色の男の声が降り注いだ。


「わざわざ、皇宮まで来てもらって申し訳なかった。私が忙しくあまり時間を取れなくてな」


 見た目の優男とは裏腹に、不死である事を実感させられる、落ち着いた話し方。婉麗を気遣っている事が目に見えて分かるほどに、穏やかではあったが、申し訳なさそうな顔をしていた。

 流石に、婉麗もスッと背筋を伸ばす。いつまでも、いなくなった人物を探しても仕方がない。


「いえ、殿下もお忙しい中に時間を作って頂き感謝します」 

「それで、早速だが……」


 と、静瑛の顔が神妙になった。


「縁談が嫌ならば断ってもらって構わない。西王母の体裁を気にかけているならば、私から断った事にしても問題ない」

「えっ、あの……それは……」

「正直に言って、今の姜家に嫁いでも、大した恩恵も受けられない」


 静瑛の顔に少しばかり陰が落ちる。疲れた様子も相まってか、物悲しい雰囲気を放つ男は、落ち込んでいるようにも見えた。


「殿下、緱家は貴族としての地位はありません。西王母の名を背負っているとは言えない家柄に何かを求められたのでは?」

「求めたのは、父だが……強いて言うならば、血だろうか」

「……眷属神の」


 静瑛は頷く。求められたのは血筋だけで、偶々、婉麗が不死で丁度良い。それだけだったと思うと、婉麗は少しばかり肩の荷がおりたのか、安堵の息が溢れる。


「貴女は、何を期待した?」

「特に何も」

「何も?」

「正直に言っても?」

「勿論だ」


 婉麗は、少々言葉を選ぶ為に、またも俯く。静瑛が、商家の娘と知っても尚嫌な顔せずに誠実な姿を見せたのも大きかったのかもしれないが、少々の不手際も、婉麗は気にしなくなっていた。


「えっと、ですね。我が家は、正直に言って、矜持も何も無いとでも言いましょうか……西王母様の体面ばかり気にして、媚びへつらうだけの家です。私一人が西王母様の命で動いて、事が治るならそれで良いかな、と」


 婉麗は、取り敢えず話が纏まれば……程度しか考えていなかった。それで事が治れば、父も安心する事だろう。だから、静瑛に言われて初めて、その先を考えた程だった。

 

「楽師を目指していると聞いたが」

「試験に四度落ちました。次は無いと、父には言われているので、静瑛様との縁談が消えても、別の縁談が組まれるだけです」

「難易度は高いと聞いた事があるな、しかし、何故落ちる。緱という名だけでも十分に受かるだろう?」


 世の中には、名前が有利に働く事が多い。ある程度の腕前と器量があれば、家門が優先される。静瑛は目の前に座る人物は、廃れかけているとはいえ、緱家という西王母の末裔だけが名乗れる姓を鑑みると、誰よりも有利であるとしか考えられなかった。

 

「父に名を伏せて受けろと言われて……。名前だけ有名で、何の実力も無い家柄だと、虐められるとかで」


 引っ込み事案で、奥手な婉麗は素直に従った。実際に、女が多いとそう言った事もあると、それとなく聞いた事はあったのだ。だが結局受かるのは、結局良い家柄の名前を持つ者ばかりで、結局四度目の試験も受かる事はなかった。


「ある意味で、父君は貴女を想っていた様だ」    

「……なので、まあ、特に父にも私にも思惑は有りません」


 結婚など政治的利用が多いので、と婉麗は、本音がポロリと溢れた。


「……私の友人もそうだ。政略結婚で、特に愛情も無いと」

「静瑛様も、右長史という立場の為では?」


 廃れかけてはいても、緱家ともなれば背後に西王母がちらつく。


「緱婉麗」


 少し、言い過ぎただろうか。

 思わず、名前を呼ばれた瞬間に肩がびくりと跳ねた。


「あの、気に障り……ましたよね……」

「いや、事実だ。父には、その狙いがある」


 肩を萎めて縮こまる婉麗の姿に、静瑛は笑っていた。


「萎縮する必要は無い。私は、煩わしい相手が嫌だっただけだ」


 婉麗に前にも、二人話があった。どちらも、静瑛の様子を伺うばかりで、面白味も無い。婉麗も、時間が勿体無いと、さっさと話を終わらせようとすら考えていたのだ。

 ただ、他の令嬢と少しばかり違う、おどおど萎縮したかと思えば、本音と称して図太い発言もしてみせる。少しばかり、面白い。

 何より、静瑛にとって都合が良かった。


「貴女が、拒否しないのであれば、縁談の話を進めたい。問題無いだろうか」

「あ、はい。……あ、女性に興味が無いと言う噂を聞いたのですが、何か配慮すべき事は有りますか?」


 婉麗の突然の言葉に、静瑛は固まった。

 と言うのも、皇族の中で、一番若く唯一祝言をあげていない一人とある上に、一切女性の影が無いものだから、おかしな噂が女性たちの間で出回っていたのだ。

 婉麗も友人からそう言った話を聞いたものだから、お飾りの結婚になるだろうかと、気楽に考えていた。

 しかし、どうにも違うらしく、先程まで毅然とした態度を見せていた男は、顔を押さえて分かりやすい程に落ち込んでいる。


「殿下?」

「……事実無根だ。正直に話すとだな、皇都に恋人は居ないが、その手の店には行っていた」

「と言うと、妓楼に?」

「他省のな。婚約が決まった相手に話す事では無いだろうが、それが事実だ。これも広められたら困る話だがな」


 取り乱した静瑛を前に、婉麗は妓楼を思い浮かべたくとも、その手の店……と言う程度にしか分からない。


「だからと言って、貴女を蔑ろにする気は無いし、店にも行かない。あれは……気晴らしだったんだ」


 落ち込みながらも、誠実に自身を曝け出す。貴族社会に疎い婉麗には、それが皇族として正しい姿かどうかは分からなかった。ただ、何となく、恐れる相手では無い、と言う答えが出ていた。


「殿下、おかしな噂が余程落ち込んだんですね」

「ああ、最悪だ」


 眉間に皺がより、優男顔が台無しだ。そんな姿に、婉麗は微笑んだ。


「では、その手の噂が好きな友人に言っておきます。私の婚約者が、誰かを。そうすれば、きっと噂も消えてしまいますよ」


 ゆっくりと微笑む婉麗の姿に、静瑛も釣られて笑みをこぼしていた。まだ、芽生えても居ない心が、僅かに反応しながら。

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