怖い、怖い、が怖い。

 それは、そっとこちらを除いている。暗闇の影から、戸の隙間から、瞼を閉じた闇の向こうから。

 どこそこから除いては、じっとこちらを見ているのだ。

 それは、必ず、一人の時、誰もが寝静まった時に現れる。

 現れると言っても、姿形ははっきりとしない。だが、何故か、居るとわかる。

 黒い塊、黒い影、それがもぞもぞと動いては、目のない姿で、此方をじっと見ている。


  

 じっと、じっと見て、何もしない。

 此方が指の先すら動かす様まで凝視して、何もしない。

 恨めしそうに、羨ましそうに、愉しそうに、此方を見ているのだ。

 

 だがそれが、恐ろしい。

 いつか、動き出すのではないのかと、から目が離せないのだ。


 ――

 ――

 ――


 皇宮 皇帝の執務室


 燼は、訪れたいつもの部屋、執務室に一歩足を踏み入れた。適度な礼儀はあるが、今ひとつに節度が保たれていない。皇帝相手に、不遜だ、と思うものもいるだろう。その場でも、幾人かの文官が神農を机越しに取り囲んで話し合っていた訳だが、燼の姿を目にした途端に眉間に皺が寄って、嫌悪を表情で示す者もあったぐらいだ。

 それでも、どれだけ嫌悪を抱えながらも、誰も何も言わずに立ち去っていく。


「今日は、随分と遅かったのだな」


 それまで、文官達と協議していた書類を適当に履けるが、机上は乱雑なままだ。


「忙しそうですね」

「それが理解できているなら、決まった時間に来て頂けると助かるが」

「善処します」


 にっこりと笑うが、その実、笑みの下で何を考えているなど、知れないと思うと、その笑みこそが信用ならないとすら言えるだろう。

 この部屋へ来た途端に、何者にも臆さない神子が現れる。

 ある者には、平身低頭するしかない厄介な相手だが、神農には権威は通用しない。通用する者達は、恐れをなして逃げるだけだ。

 

 燼がいつもの来客用の長椅子の定位置に座り込んだ様を一挙一動に確認しては、自身も立ち上がると燼の対面へと腰を下ろした。


「今日、道托殿下がお見えになりました」


 何の前振りも無しに、燼は肘掛けに肘を付いた礼儀の悪い姿を晒したまま、明後日の方向を見て話し始めた。


「遅くなった理由はそれか?」

「いえ、妻と一緒にいる時間が欲しくて、つい」


 馬鹿正直に話はしたが、神農は燼が冗談めいているのか、本気かが、はっきりと見えては来なかった。


「……道托は何と?」

「不審死が続いているとか。俺を疑っているそうです」


 神農は僅かに反応するも、驚きはしなかった。

 今の所、死者は下級貴族か平民だ。勿論、神農の耳にも入ってはいたが、

 

「あぁ、あの件か。神殿に依頼を断られた旨が書簡で届いていた。手を貸していただけるのか?」

「私は皇宮から動けません。如何しろと?」

「……此処から動く必要は無いだろう」

「覗いてみても良いですけど、現状、の可能性もありますよ」


 騙し合いにも思える二人の会話は、どちらも本意を見せていないからだろう。


「……犠牲は必要と言ったのは、陛下です。これも、その一端と考えれば良いのでは?」


 冷酷なまでのその姿から吐かれた言葉は、無情そのものだった。

 

「貴方は少しばかり聖人らしく振る舞っては如何だ」


 神農の苦言に、燼は只、唖然とした顔をして見せたかと思えば、途端に吹き出して笑い出す。

 高らかに、嘲る様に。


「ははっ、聖人など、人が都合良く作った言葉だ。見えもしない、いるか如何かも分からないからこそ、自分達にとって都合の良い存在に仕立て上げただけだ」

「……神子燼、神意の侮辱は許容出来ない」

「侮辱ではありません、真実ですよ。人が神の虚像を抱き、間違った偶像を崇めても尚、神は信仰さえあれば満足している」

「ならば、不可視なる者達の真意は何だ?」

「……さあ、いずれ陛下が神格にでも成れば、理解できるのでは?」


 まあ、その時は来ないでしょうけど。と、燼は更に低く笑った。その姿を見ても、神農は平静を保ったままだった。


「どうやら、今日は其方そのほうが影響されている様だ。奥方から離れなかったのはそれが原因だろう」


 燼の笑いが止まった。

 ああ、そう言う事か、と。燼は途端に冷静になる。


「強ち神殿の判断は間違ってはいませんね」


 くつりくつりと嗤う。

 かと思えば、一呼吸置いてから、ゆっくりと神農を視界に捉えていた。


「さて、始めますか」


 言葉と同時に、闇が舞い降りる。


 ――

 ――

 ――


 皇都 こう家邸


「西王母様は何を考えておられるのか……」


 ひっそりとした話し声が、その邸の一室で響いていた。緱家筆頭達が集まり、皇都の状況を見据えながらも、自らの立ち位置を如何したものかと悩んでいる。

 緱家当主である西王母の権限により、それまでひっそりと皇都で商いに身を投じ、長くまつりごとから外れて過ごしてきた緱家にとって、悩ましい事が増えていた。

 そもそも、彼等が政治的介入を避けたのは、西王母権限により、姜家の権威を保つ為でもあった筈だった。眷属神の末裔としての威光を分散させずに一つ所に集中させ、一つの脅威としての威厳を保てば、神農の立場は確実される。それが、西王母の考えの筈だった。その為に商いに力を入れ、身内にも等しかった同じく眷属神の末裔であるかい家との交流も絶えた。

 それは、西王母の子の世代が途絶えたのも大きかったが、此処に来て西王母が緱家の一人を前に出そうとする意向も今一つ掴めなかった。

 筆頭達の中、一人の女が気恥ずかしながら俯いている。

 その話題の中心にいる筈の人物ではあったが、政には疎く噂話にも無関心だった。人と話すのも苦手で、ひっそりと皇宮の楽師になりたいと夢みるも、女であり不死として生まれたが故に、如何やらその望みも途絶える所まで来ている。


「あくまで、婉麗えんれいを静瑛殿下の皇妃として迎えたいと言う桂枝殿下の御意向との事ですが……」


 右丞相姜桂枝はその話自体を、西王母へと託していた。西王母の言であれば、緱家は否応無しに受け入れるしかない。殆ど決まったも同然の話ではあったが、緱家の筆頭達が難色を示すのには訳があった。と言うのも、姜家の内情に巻き込まれるとしか思えないからだ。

 右丞相が、末子である第九皇孫の静瑛を後継として指名した。これが今、皇宮で大きく波紋を呼んでいる。永く、四子である第八皇孫祝融を後押ししていた形がパタリと途絶えた。玉座の間での振る舞いから、誰しもがもしや……とは考えてはいたのだが、掌を返す振る舞いに、少々危うさも見えた。

 その結果、左丞相と右丞相が割れる形となり、黄家がはっきりと祝融殿下に時期当主である男を付けると言い放ったのだ。更には東王父の家門である、解家の実力者も従者として付いた。それ迄、一切の姿を見せて来なかった解家の存在にも驚いたが、同時に東王父の意向も解家の存在が示していたのだ。

 第八皇孫としての立場こそ変わらないが、左丞相もはっきりと断言したのだ。


『右丞相の存在無くとも、我々が祝融殿下をお支え致しましょう』


 と、祝融がその場に居ない朝議で大々的に発言してしまったのだ。記録されるどころか、その場で出席していた者達は、驚きを隠せなかっただろう。

 僅かにも表情すら変わらなかったのは、神農ただ一人だったかもしれない。


 

 そんな大きく皇宮が揺れている最中に、娘を飛び込ませて良いものか。

 西王母の命とは言え、筆頭達は頭を悩ませた。


「婉麗、お前はどうしたい」


 父は、最悪娘の言葉があれば断りの意向も考えていた。

 貴族としてに地位を維持しているならともかく、只の大きな商家に成り果てた家だ。無理に嫁がせるのも、気が引ける。

 そんな思いから、隣で俯く娘に視線を向けた。すると、そこらかしこから視線が集まる。

 普段、人目を避けていたのもあり、それだけでもじもじと俯き顔を上げられない。その様子だけで、父親からすれば断るには十分な理由にも思えていた。

 到底、皇妃など務まらない、と。今の所基準を満たしている所があれば、不死として生まれたと言う事ぐらいだろう。


「……あの、静瑛殿下はどう言った方なのでしょうか」


 しどろもどろではあったが、婉麗思い切って声を上げた。皇族とは言え、皇孫でそれ迄実績もないとなると、あまり表立って噂も立たない。

 そもそも、噂話に疎い婉麗では尚更だろう。


「確か……右長史として任命されて時間は経っていないが、中々に優秀らしい」

「そうでは無くて……人柄……とか」

「ああ、どうだろうな。姜家の方は、基本温厚だと聞くが、祝融殿下や静瑛殿下は表に出てくる機会が少なくてな」


 悪い方では無い筈だが……と、父親は自信なく答えた。商家として取り組み、皇宮からも離れている家にとっては、表に出て来ない人物など、想像もできない。噂も当てには出来ず、出来る限りの好印象を伝えるしか無かった。


「……業魔討伐に行かれる祝融殿下をお支えしていたとだけは聞いた。風家とも関係を築けている方だ。何より、西王母様が悪意ある人物を此方に紹介する筈も無いだろう」


 と、これと言って本人の情報が無いだけに、婉麗は頭を悩ませるしかなかった。どっちにしろ、今の状況で、西王母の不況は買いたくは無いと言うのも父親の本音なのだろう。

 一見知的だが、所々で、その腹の黒さも滲み出る人物でもある。婉麗も何度か、新年の挨拶程度は交わした事はあるのだが、不死で永く生きる者の特有か、冷ややかで、その何も語らない瞳から、西王母が恐ろしい人物に見えていたのだ。

 婉麗は、ちらりと周りを一望するも、誰も彼も口では無理をしなくて良いと語るが、その実、西王母が怖いのだ。

 幼い子供の様に、言う事を聞かなければ……と内心考えているのかもしれない。

 だから、婉麗の答えは、最初から決まっていたも同然だった。


「……分かりました。話を、お受けします」

「そうか、すまないな」


 誰もが安堵の表情で、よく決断してくれたと婉麗を褒めた。


「(西王母様のご機嫌取りなんてしてるから、商家に身を落としたのかしら)」


 それこそが、西王母の考えだったのだろうかと、途端に冷めた目線で周りを見回す婉麗の気など知る由も無く、父親も又、嬉しそうに静瑛殿下との会う日程を決めなければと、先の心配など忘れて話は進んで行ったのだった。

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